わたしのための聖なる所 2017年3月05日(日曜 夕方の礼拝)

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わたしのための聖なる所

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 24章12節~25章9節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:12 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、
24:13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、
24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
24:15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
24:17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
25:1 主はモーセに仰せになった。
25:2 イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。
25:3 彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
25:5 赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、
25:7 エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。
25:8 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
25:9 わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。出エジプト記 24章12節~25章9節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主がイスラエルの人々と正式に契約を結ばれたことを学びました。主はモーセを仲介者として正式に契約を結び、イスラエルの人々を御自分の民とされたのです。今夕の御言葉はその続きであります。

 主はモーセにこう言われました。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」。この主の御言葉は、4節の御言葉とうまくつながりません。4節には、「モーセは主の言葉をすべて書き記し」とあるからです。これはおそらく、主が教えと戒めを石の板に記して授けられたという伝承があったためと思われます。出エジプト記は様々な資料を用いて記されたと考えられておりますから、このような食い違いが時々でてくるわけです。モーセが山から降りてきたことが31章に記されていますが、その18節にはこう記されています。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」。主は御自身の教えと戒めを御自身で石の板に記してモーセに授けられるのです。この場合のモーセは、イスラエルの民の代表者としてのモーセであります。そして、後に、この石の板が契約の箱に納められることになるわけです(出エジプト25:16参照)。モーセは、主の御言葉を聞くと、従者ヨシュアを連れて立ち上がりました。ヨシュアは後に、モーセの後継者となる人物であります。ヨシュアについては、17章の「アマレクとの戦い」の所でも記されていました。アマレクと戦ったときのイスラエルの指導者はヨシュアであったのです(出エジプト17:10,13参照)。モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちにこう言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい」。モーセは自分が不在の間、アロンとフルを指導者として立てました。アロンはモーセの兄であります。フルは、17章の「アマレクとの戦い」で、モーセの両腕をアロンと一緒に支えた人物であります。モーセが山に登って行くと、雲は山を覆いました。この雲は神様の臨在を表すものであります。主の栄光がシナイ山にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていました。モーセは山の途中まで登ったのでしょうが、これ以上登ることができなかったのでしょう。しかし、七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられました。「主の栄光はイスラエルの人々には、山の頂で燃えてる火のように見えた」とありますが、雲と火は神様の臨在を表すものであるのです。この光景は活火山のようでもあります。モーセは主の言葉に従って、雲の中に入って行き、山に登りました。モーセは四十日四十夜、山にいたのです。「四十日四十夜」。この期間は、大洪水を引き起こした雨が降り続いた期間でもあります(創世7:12参照)。40は聖書では、長い期間を表す数字であると言われますが、この40日はモーセにとって、25章から31章に記されている指示を受ける期間でありました。しかし、山の麓にいるイスラエルの人々にとっては、指導者モーセがいない試練のときであったのです。現代の私たちで言えば、牧師がいない無牧の期間であったとも言えるのです。

 山に登ったモーセに、主はこう仰せになりました。「イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい」。ここで、主は献納物を持ってくるように命じておりますが、これは8節にありますように、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせ」るためであります。小見出しに「幕屋建設の指示」とありますように、主は、御自分の聖なる所である幕屋を造らせるために、イスラエルの人々が御自分のもとに献納物を持って来るように命じられるのです。ここで大切なことは、イスラエルの人々がおのおの進んで心からささげる神様への献納物をモーセたちが受け取るということです。モーセたちが神様の名によって強制的に集めるのではなくて、イスラエルの人々がそれぞれ進んで心からささげる献納物を受け取るようにと、主は言われるのです。これは使徒パウロがコリントの教会に教えた献金の精神でもあります。コリントの信徒への手紙二の8章6節、7節でパウロはこう記しています。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。こここでパウロが教えている献金の精神は、今夕の御言葉まで遡ることができるのです。では、モーセたちがイスラエルの人々から受けるべき献納物はどのようなものでしょうか?3節から7節までにこう記されています。「彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である」。これらはいずれも高価なものであります。しかし、その高価なものを、主はイスラエルの人々が心から進んでささげることを求められるのです。主に心からささげて、主のものとして聖別していただき、その材料を用いて、主は御自分のための聖なる所を彼らに造るよう命じられるのであります。そして、そのようにして、主はイスラエルの人々のただ中に住んでくださるというのです。このことは、人間が考え出したことではありません。神様の方から言われたことであります。主はモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われました(出エジプト3:12参照)。主と訳される「ヤハウェ」という神様の御名前は、「わたしはあなたたちと共にいる」という言葉に由来すると言われています。主(ヤハウェ)は、イスラエルの民と共に歩んでくださる神であられるのです。そのことが、よく分かるように、神様はイスラエルの人々に、御自分の聖なる所を造るように命じられるのです。しかし、それは人間が自分勝手に造るのではありません。9節に、「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」とありますように、すべては神様が設計されたとおりに作ることが命じられているのです。そして、10節以下には、「箱」、「机」、「燭台」、「幕屋を覆う幕」とありますように、一つ一つの作り方、その寸法が記されているのであります。

 8節の後半に、「わたしは彼らの中に住むであろう」とありますが、この御言葉は、私たちに、ヨハネによる福音書1章14節を思い起こさせます。そこにはこう記されていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここでの「言」は、人となる前のキリスト、独り子なる神のことであります。神の独り子がおとめマリアから生まれることによって、人となってくださった。そのようにして、私たちの間に宿られたのです。ここで「宿る」と訳されている言葉は「幕屋を張って住む」という言葉なのですね。イスラエルの人々に幕屋を造らせ、その幕屋に宿られた神様が、人となって私たちの間に宿られたのです。それがクリスマスの出来事であったのであります。かつて幕屋において御臨在された神様は、イエス・キリストの名によって御臨在してくださいます。イエス・キリストの名によって、二人または三人が集まる、そのただ中に主は御臨在してくださるのです(マタイ18:20参照)。復活されたイエス様は、弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました(マタイ28:20参照)。私たちは主イエスの名によって二人、または三人が集う礼拝においてこそ、神様が私たちと共に歩んでくださることを体験することができるのです。

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