主イエスよ、来てください 2019年11月17日(日曜 夕方の礼拝)
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主イエスよ、来てください
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 22章16節~21節
聖書の言葉
22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
22:17 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
ヨハネの黙示録 22章16節~21節
メッセージ
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序
2017年の5月から、ヨハネの黙示録を学んできました。今夕はその最後の説教となります。
前回(10月13日)は、22章6節から15節までを御一緒に学びました。22章6節以下は、ヨハネの黙示録のエピローグ(結びの部分)であります。今夕は、16節以下を御一緒に学びたいと思います。
1 ダビデのひこばえ
16節と17節をお読みします。
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」霊と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
前回も申しましたが、ヨハネは、エピローグ(結びの部分)を、プロローグ(序文)と対応するかたちで記しています。1章1節にこう記されていました。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」。この1章1節に記されていたように、イエスさまは、使いを遣わし、諸教会のために以上のことをヨハネたちに証しされたのです。ここで、「わたし、イエスは」とありますように、ヨハネの黙示録は、イエスさまの証しの書であるのです。また、「諸教会のために」とありますが、この諸教会とは、この書物の宛先であるアジア州にある七つの教会のことです。さらには、すべてのキリスト教会のことであります。イエスさまは、天使を遣わし、私たちのためにも以上のことを証ししてくださいました。そのイエスさまの証しを、私たちは2年6か月に渡って学んで来たのです。
16節の後半で、イエスさまは御自分がどのようなものであるかを語っておられます。「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。「ひこばえ」とは、「切り株などから新しく生えた芽」のことです(『福武国語辞典』)。「ダビデのひこばえ」という言葉は、イザヤ書の11章の預言を背景にしています。イザヤ書11章1節から5節までをお読みします。旧約の1078ページです。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
エッサイは、ダビデの父親の名前です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。このイザヤの預言から、「ダビデのひこばえ」は、来たるべきメシアを表す称号として用いられたのです。
また、イエスさまは、御自分が「ダビデの一族」であると言われます。このことも、旧約の預言を背景にしています。サムエル記下の7章に、ナタンがダビデに語った預言が記されています。その一部を読みたいと思います。サムエル記下の7章12節から16節までをお読みします。旧約の490ページです。
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
このナタンの預言、いわゆるダビデ契約を背景にして、イエスさまは、「わたしは、ダビデの一族」と言われるのです。
さらにイエスさまは、御自分のことを「輝く明けの明星」と言われます。明けの明星とは、「明け方、東の空に見える金星」のことで、夜明けを告げる星のことです(『広辞苑』)。この言葉も、旧約聖書の預言を背景にしています。民数記の24章に、「バラムの第三の託宣」が記されています。その一部を読みたいと思います。民数記24章15節から17節までをお読みします。旧約の256ページです。
そして彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち/全能者のお与えになる幻を見る者/倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂きを砕く。
17節の三行目に、「ひとつの星がヤコブから進み出る」とあります。この預言が、のちにメシア預言として理解されるようになりました。イエスさまは、「わたしは輝く明けの明星である」と言われることによって、御自分がヤコブから出る星であると言われたのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の480ページです。
「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。ここで、イエスさまは、御自分が聖書の預言しているメシア、救い主であると言われています。そのようなイエスさまの御言葉を受けて、霊と花嫁とが、「来てください」と言うのです。「霊」とは、神の霊である聖霊のことです。また、「花嫁」とは、天から下って来た新しいエルサレムのことです。聖霊と花嫁とが、「来てください」と言うのを聞いて、イエスさまは、「これを聞く者も言うがよい、『来てください』と」と言われます。「これを聞く者」とは、礼拝においてヨハネの黙示録が朗読されるのを聞いている者たちのことです。つまり、イエスさまは、私たちに、「『来てください』と言うがよい」と呼びかけているのです。また、イエスさまは、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と言われます。このイエスさまの御言葉は、イザヤ書の55章の御言葉を背景にしています。イザヤ書の55章1節から3節までをお読みします。旧約の1152ページです。
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した慈しみのゆえに。
このイザヤの預言を背景にして、イエスさまは、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と呼びかけるのです。イエスさまは、礼拝に集っている求道者を念頭に置きつつ、このように呼びかけられるのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の480ページです。
2 付け加えることと取り去ることの禁止
18節と19節をお読みします。
この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
ここで、イエスさまは、この書物に、言葉を付け加えることと、言葉を取り去ることを禁じておられます。このような警告の言葉は、この書物を書き写す者に対して言われているのではありません。イエスさまは、この警告を、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に」対して言われているのです。イエスさまが、ここで求めておられることは、この書物の預言の言葉を聞いた私たちが、言葉を付け加えることもなく、取り去ることもなく、聞いたとおりに守ることであるのです。これと同じような言葉が、申命記の4章に記されています。申命記の4章1節と2節をお読みします。旧約の285ページです。
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたの神、主の戒めを守りなさい。
ここでモーセは、「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない」と言っています。その心は、「わたしが命じるとおりに、あなたの神、主の戒めを守りなさい」ということです。それと同じように、主イエスが、「この書物に、言葉を付け加えることも、言葉を取り去ることもしてはならない」と言われるとき、その心は、「この書物の預言の言葉をすべて守りなさい」ということであるのです(1:3、22:7参照)。
今夕の御言葉に戻ります。新約の480ページです。
言葉を付け加えるとは、書いていないことを読み込むこと。言葉を取り除くとは、書いてあっても読み飛ばすことを意味します。私たちは、書いてないことを読み込んだり、書いてあっても読み飛ばしてしまいがちですが、そのようなことしないようにと、イエスさまは警告しておられるのです。
3 主イエスよ、来てください
20節と21節をお読みします。
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
「以上すべてを証しする方」とは、イエスさまのことです。イエスさまは、「然り、わたしはすぐに来る」と言われます。イエスさまが、「わたしはすぐに来る」と言われたのは、これで三度目であります。イエスさまは、22章7節で、「見よ、わたしはすぐに来る」と言われました。また、12節でも「見よ、わたしはすぐに来る」と言われました。さらに、20節で「然り、わたしはすぐに来る」と言われるのです。イエスさまは、三度も、「わたしはすぐに来る」と言われるのです。そのようにして、イエスさまは、御自分が必ず来られることを、確かなこととして約束されたのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈ることができるのです。なぜなら、主イエスが再び来られることによって、悪魔は完全に滅ぼされ、私たちの救いは完成されるからです。イエスさまが再び来られることによって、最後の審判が行われ、新しい天と新しい地が到来し、神さまとの完全な交わりが実現するからです。19章11節以下に、イエスさまの再臨の預言が記されていました。それに続く20章以下に、最後の審判、新しい天と新しい地、新しいエルサレムの預言が記されています。この20章以下の預言は、イエス・キリストが再び来られることによって実現するのですね。ですから、私たちは、「然り、わたしはすぐに来る」と言われるイエスさまを信じて、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈り求めたいと思います。私たちは、主の祈りの中で、「みこころが天で行われるように、地上でも行われますように」と祈っています。その祈りが完全に実現するのは、主イエスが来られた後であるのです。
ヨハネは、最後に、祝福の言葉を記して、この書物を閉じます。この書物は礼拝の中で朗読されるものとして記されています。ヨハネは、この書物を、そして、この書物が朗読される礼拝を、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という祝福の言葉で閉じるのです。私たちは、主イエスの恵みに生かされている者として、この書物の言葉を守り、「主イエスよ、来てください」と祈る者でありたいと願います。