神と小羊の御顔を仰ぎ見る 2019年9月08日(日曜 夕方の礼拝)
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神と小羊の御顔を仰ぎ見る
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 22章1節~5節
聖書の言葉
22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
22:3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。ヨハネの黙示録 22章1節~5節
メッセージ
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序
ヨハネの黙示録21章9節から22章5節までは、「新しいエルサレム」について記しています。21章の9節から21節までは、都の外観、外から見た様子について記しています。そして、21章22節から22章5節までは、都の内観、内から見た様子について記しています。前回、私たちは、22節から27節までを学びました。都において神と小羊が神殿であること、都は神と小羊の栄光に照らされていること。イエス・キリストを信じる諸国の民はそれぞれの文明や文化を携えて都に来ることを学んだのであります。私たちの文明や文化は、罪から清められて、新しいエルサレムにおいても用いられるのです。
今夕は、22章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 命の水の川と命の木
22章の1節と2節をお読みします。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
ヨハネは、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を見ました。「命の水の川」については、旧約のエゼキエル書47章に記されています。実際に読んで確認したいと思います。旧約の1374ページ。エゼキエル書の47章1節から12節までをお読みします。
彼はわたしを神殿の入口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から沸き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄をもって東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。
お気づきになったと思いますが、ヨハネは今夕の御言葉を、エゼキエル書の47章を背景にして今夕の御言葉を記しています。エゼキエルは、命の水の川が神殿の聖所から流れ出る幻を記しました。その幻の成就として、ヨハネは、新しいエルサレムにおいて、神と小羊との玉座から命の水の川が流れ出ていたと記すのです。新しいエルサレムにおいて、神殿は神と小羊でありますから、その玉座から命の水の川が流れ出ているのです。
また、エゼキエルは、命の水の川のほとり、その両岸に、非常に多くの木が生えていたと記しています。ヨハネはその多くの木が命の木であると記します。新しいエルサレムでは、神と小羊との玉座から命の川が流れており、その両岸には多くの命の木が生えているのです。ここで、私たちが覚えたいことは、新しいエルサレムに代表される新しい世界は、命に溢れた世界であるということです。
「命の木」については、創世記の2章と3章に記されています。この所も実際に読んで確認しましょう。旧約の2ページ。創世記2章7節から9節までをお読みします。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
神さまは、園の中央に、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせました。そして、神さまは、人(アダム)にこう命じて言われたのです。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16、17)。神さまは、アダムに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟を与えられたのです。しかし、アダムは、禁じられた木の実を食べてしまったわけです(3:6、12参照)。神さまは、御自分に背いたアダムと女を楽園から追放されるのですが、そのとき、こう言われます。3章22節です。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
また、3章24節には、こう記されています。
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
この創世記の記述によると、命の木は、神さまの掟、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という掟を守ったときに与えられた報酬であったようです。神さまは、アダムに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。それは裏を返せば、「善悪の知識の木から食べなければ生きる。命を得る」ということです。その命の象徴が命の木であったのです。創世記の記述によると、命の木そのものに、人を永遠に生かす効力があるように記されています。神さまは、人が御自分に背いたまま永遠に生きることがないように、アダムと女をエデンの園から追放され、ケルビムときらめく剣の炎を置かれたのです。
このような創世記の記述を背景にして、ヨハネは、新しいエルサレムに流れる命の水の川は、大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があると記すのです。そのことは、エデンの園が歴史を通して新しいエルサレムという都市になっていることを教えています。新しいエルサレムはエデンの園の回復でありますが、そこには人間の歴史を経ての変化や発展があるのです。エデンの園には「われわれ」と言われる神さま(三位一体の神)がおられました。しかし、新しいエルサレムには、神と小羊であるイエス・キリストがおられます。また、エデンの園にいた人間はアダムと女の二人だけでした。しかし、新しいエルサレムには、イエス・キリストを信じる諸国の民、ユダヤ人と異邦人からなる数えきれないほどの多くの民がいるのです(黙7:9参照)。また、エデンの園は園(ガーデン)でしたが、新しいエルサレムは都(シティ)であるのです。前回も申しましたように新しいエルサレムには、人間が築き上げてきた文明や文化が罪から清められて用いられるのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の479ページです。
2節に、命の木は、「年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す」と記されています。先程読んだエゼキエル書の47章には、「その果実は食用となり、葉は薬用となる」と記されていました(エゼキエル47:12)。しかし、ヨハネは、命の木の実が食用であるとは記していません。命の木が毎月実を実らせると記すだけです。ヨハネは、命の木の実を食用と記すことに抵抗があったのだと思います。けれども、ヨハネは、「葉は薬用となる」というエゼキエルの預言のとおり、「その葉は諸国の民の病を治す」と記しています。このことは、諸国の民を健やかな命に生かすのは、神さまとの交わりに生きる命であることを教えています。新しいエルサレムが命に溢れた世界であるのは、命の源である神さまとイエス・キリストがおられるからです。私たちが新しいエルサレムにおいてあずかる命とは、神さまとイエス・キリストとの豊かな交わりのことであるのです。
2 神と小羊の御顔を仰ぎ見る
3節と4節をお読みします。
もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
新しい世界には、呪われるものは何一つありません。もともと神さまが造られた世界に、呪われるものは何一つありませんでした。神さまが造られた世界は、神さまの目から見てもはなはだ良い世界であったのです(創世1:31参照)。その良い世界に、呪われるものが、存在するようになったのはなぜか。それは、はじめの人アダムが、神さまの掟に背いて罪を犯したことによってでありました。神さまは、罪を犯したアダムにこう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(創世3:17)。このように、最初の人アダムの罪によって、呪いは入り込んできたのです。しかし、新しい世界には、呪われるものは何一つありません。神さまの祝福だけがある世界であるのです。そのような世界で、神の僕である私たちは、神さまと小羊を礼拝し、その御顔を仰ぎ見るのです。私たちは栄光の体で復活し、その眼で、神さまとイエス・キリストの御顔を仰ぎ見ることができるのです。そのような、この上ない幸いにあずかることができるのです(マタイ5:8、一コリント13:12、一ヨハネ3:2参照)。
3 彼らは世々限りなく統治する
5節をお読みします。
もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
神とイエス・キリストの僕である私たちは、その栄光の光に照らされて、世々限りなく、永遠に王として統治します。このことは、ダニエル書の7章に記されている預言の成就であります。実際に読んで確認したいと思います。旧約の1393ページ。ダニエル書7章13節から18節までをお読みします。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。「これらの四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」。
飛んで27節をお読みします。
天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。
13節の、「日の老いたる者」(神さま)から権威、威光、王権を受ける「人の子のようなもの」とは、18節によれば、「いと高き者の聖者ら」であり、27節によれば、「いと高き方の聖なる民」です。イエスさまは、神さまから権威、威光、王権を受ける人の子が、御自分であると理解しました。そして、イエスさまは復活させられ、天にあげられ、父なる神の右に座すことによって、天と地の一切の権能を授けられたわけです。その人の子であるイエスさまの民である私たちも、新しい世界で、永遠に王として統治することになるのです。私たちは神さまの祝福を受けて、神さまの御心に従い、新しい世界を支配する者となるのです(創世1:28参照)。