諸国の民の栄光と誉れとを携えて 2019年8月18日(日曜 夕方の礼拝)

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諸国の民の栄光と誉れとを携えて

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 21章22節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。
21:25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。
21:27 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

ヨハネの黙示録 21章22節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、新しいエルサレムの外観、外から見た様子について学びました。今夕の御言葉には、新しいエルサレムの内観、内から見た様子が記されています。

1 主と小羊とが都の神殿

 22節をお読みします。

 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。

 ヨハネは、新しいエルサレムの中に、神殿を見ませんでした。このことは、意外に思えるかも知れません。と言いますのも、旧約のエゼキエル書は、40章から44章に渡って、「新しい神殿の幻」について記しているからです。しかし、天から降って来た、聖なる都エルサレムに神殿はないのです。なぜなら、「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だから」です。これは、新しいエルサレムの中に、全能者である神、主と小羊とが住んでくださるので、神の臨在の象徴である神殿はもはや必要がないということです。また、前回申しましたように、立方体であり、純金である都そのものが神が臨在される至聖所であるのです。都そのものが神が住まわれる至聖所でありますから、ヨハネは、都の中に神殿を見なかったのです。

2 主と小羊とが都の光

 23節をお読みします。

 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。

 このヨハネの記述は、旧約のイザヤ書の60章を背景にして記されています。イザヤ書60章は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民に語られた預言の言葉です。ここでは、イザヤ書60章の全体をお読みします(旧約1159ページ)。

 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに輝きを加える。これらは誰か。雲のように飛び、巣に帰る鳩のように速い。それは島々がわたしに向けて送るもの/タルシシュの船を先頭に/金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため/あなたに輝きを与える/イスラエルの聖なる神のために。異邦の人々があなたの城壁を築き/その王たちはあなたに仕える。わたしは怒ってあなたを打ったが/今、あなたを憐れむことを喜ぶ。あなたの城門は常に開かれていて/昼も夜も閉ざされることはなく/国々の富があなたのもとにもたらされ/その王たちも導き入れられる。あなたに仕えない国も王国も滅び/国々はまったく廃墟となるであろう。レバノンの栄光は、糸杉、樅、つげの木と共に/あなたのもとに来て、わたしの聖所を輝かせる。わたしはわたしの足を置く場所に栄光を与える。あなたを苦しめた者の子らは/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを卑しめた者も皆/あなたの足もとにひれ伏し/主の都、イスラエルの聖なる神のシオンと/あなたを呼ぶ。かつてあなたは捨てられ、憎まれ/通り過ぎる者もなかったが/今、わたしはあなたをとこしえの誇り/代々の楽しみとする。あなたは国々の乳に養われ/王たちを養う乳房に養われる。こうして、あなたは知るようになる/主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者/ヤコブの力ある者であることを。わたしは青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらし/木の代わりに青銅を/石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたがたに与える命令は平和/あなたを支配するものは恵みの業。あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と/城門は「栄誉」と呼ばれる。太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。

 19節に、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる」とあります。このイザヤ書の預言の成就として、ヨハネは、「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」と記しているのです。イザヤはシオンの栄光について預言しましたが、その預言は、新しいエルサレムにおいて、実現することになるのです。新しいエルサレムは、神と小羊の栄光に輝く都であるのです。

 24節をお読みします。

 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。

 この御言葉も、先程お読みしたイザヤ書60章の3節と5節後半を背景にして記されています。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。「海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる」。このイザヤ書の預言の成就として、ヨハネは、「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」と記すのです。ここでの、都の光の中を歩く諸国の民は、イエス・キリストを信じる諸国の民のことです。イエス・キリストを信じる諸国の民が都の光の中を歩くのです。また、自分たちの栄光を携えて都に来る「地上の王たち」も、イエス・キリストを信じる王たちのことです。彼らは地上で築いた栄光を携えて都に来ることにより、神と小羊とに栄光を帰するのです。ある人は、「地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」という御言葉から、イエス・キリストを信じなかった王たち、獣を拝んだ王たちにも、都に入るチャンスが残されていると申します。しかし、そうではありません。なぜなら、27節に、こう記されているからです。「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」。それゆえ、自分たちの栄光を携えて、都に来る「地上の王たち」は、小羊の命の書に名が書いてある「地上の王たち」であるのです。

3 諸国の民の栄光と誉れとを携えて

 25節と26節をお読みします。

 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。

 この御言葉も、イザヤ書60章の11節を背景にして記されています。「あなたの城門は常に開かれていて/昼も夜も閉ざされることはなく/国々の富があなたのもとにもたらされ/その王たちも導き入れられる」。このイザヤ書の預言の成就として、ヨハネは、「都の門は、一日中決して閉ざされない」と記すのです。そして、その理由を、「そこには夜がないからである」と記します。この御言葉は、ゼカリヤ書14章7節を背景にしています。 そこにはこう記されています(旧約1494ページ)。「しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある」。このゼカリヤ書の預言の成就として、ヨハネは、都には「夜がないからである」と記すのです。夜は悪霊が力を振るう時と考えられていました(ルカ22:53参照)。ですから、新しいエルサレムには夜がないのです(新しい天と新しい地に海がないのと似ている。海は混沌の死の領域)。

 26節に、「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」とあります。ここでの「人々」「諸国の民」は、先程も確認しましたように、小羊の命の書に名が書かれている人々であり、諸国の民です。その諸国の民が、栄光と誉れとを携えて都に来る。このことは何を教えているのでしょうか。それは、諸国の民が築き上げてきたそれぞれの文化や文明は無駄になることはないということです。天のエルサレムにおいて、私たちは、もう一度石器時代から始めるのではありません。諸国の民は、栄光と誉れと言える文化や文明を携えて、新しいエルサレムに来るのです。新しいエルサレムにおいて、諸国の民の文化や文明は罪から清められて、新しく用いられるのです。「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われた方は、諸国の民の文化や文明をも新しくされるのです。

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