新しい天と新しい地 2019年6月23日(日曜 夕方の礼拝)
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新しい天と新しい地
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 21章1節~8節
聖書の言葉
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」ヨハネの黙示録 21章1節~8節
メッセージ
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序
19章11節以下に、イエス・キリストの再臨の幻が記されていました。再臨されたイエス・キリストは、獣と偽預言者を、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれました(19:20参照)。また、イエス・キリストは御自分の民と千年の間統治した後、悪魔を火と硫黄の池に投げ込まれました(20:10参照)。そして、イエス・キリストは、すべての死者たちを、裁かれたのです。神様は、小羊の命の書に記されていない者たちを、その行いに応じて裁き、火の池に投げ込まれるのです。
今夕の御言葉はその続きであります。
1 新しい天と新しい地
21章1節と2節までをお読みします。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
ヨハネは、「新しい天と新しい地を見た」と記します。「新しい天と新しい地」については、旧約聖書のイザヤ書65章17節に記されています。そのところを開いて、読んでみたいと思います。旧約の1168ページ。イザヤ書65章17節から20節までをお読みします。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむ者として創造する。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
主は、預言者イザヤを通して、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言われていました。その主の御言葉が実現する幻を、ヨハネは見たのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の477ページです。
ヨハネが見た、新しい天と新しい地は、「最初の天と最初の地は去って行き」とありますように、私たちが住んでいる世界とは質的に異なる新しい世界であります。また、「もはや海もなくなった」と記されているように、新しい世界には海はないようです。「新しい世界には海がない」と聞くとがっかりする人もいるかも知れません。どうして、新しい世界には海がないのでしょうか。ある書物は、このように説明していました。「海は嵐と危険をはらんでいるので、不安の象徴である。したがって、新しい天地の平和と秩序を両立できない海は完全に消え失せる」(フランシスコ会聖書脚注)。20章13節に「海は、その中にいた死者を外に出した」とあるように、海で遭難して死んだ人たちが沢山いました。そのような死の領域とも言える海は、新しい世界にはもはやないのです。
更にヨハネは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神様のもとを離れ、天から下って来るのを見ました。新しい世界に、新しい神の都、新しいエルサレムが神のもとから下って来るのです。新しいエルサレムは、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて」いたと記されています。「夫」とは主イエス・キリストのことですね。ですから、新しいエルサレムは天上の教会であるとも言えます。ヨハネは、第4章と第5章で、天上の礼拝の様子を記していました。天上では、神様と小羊であるイエス・キリストが、天使たちによって、また、天に召された聖徒たちによって礼拝されているのです(7章も参照)。その天上の教会とも言える新しいエルサレムが、神のもとを離れて天から下って来るのをヨハネは見たのです。
3節と4節をお読みします。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
ここには、私たちが新しい天と新しい地であずかることができる、このうえない祝福が記されています。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」。この祝福は、旧約聖書のレビ記の26章11節、12節に約束されておりました。レビ記26章11節、12節にはこう記されています。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」。また、エゼキエル書の37章27節にもこう記されています。「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。このような預言が、新しいエルサレムにおいて実現することになるのです。しかも、これまでにないほどの親しいかたちで実現することになるのです。神様が、私たちと共にいてくださり、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。そのような親しい交わりが、新しいエルサレムにおいて実現するのです(イザヤ25:8参照)。
新しい天と新しい地には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と記されています。なぜなら、新しい天と新しい地には、もはや罪がないからです。人間を惑わせていた獣や偽預言者や悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれたこと。また、獣とその像を拝んでいた者たちが、自分の罪に従って裁かれたことは、新しい天と新しい地になるための準備、罪の大掃除であると言えるのです。ですから、新しい天と新しい地にはもはや罪はありません。罪がないということは、その報酬である死もありません。また、罪を源とする悲しみも嘆きも労苦もないのです。それゆえ、ペトロは、その第二の手紙で、「義の宿る新しい天と新しい地」と言っているのです。新しい世界は罪がない世界です。もっと言えば、罪を犯すことができない世界なのです。それは、はじめの人アダムにあって、創造の状態から堕落し、罪をもって生まれ、日々罪を犯している私たちには想像することもできない新しい世界であるのです。
2 万物を新しくする神
5節から7節までをお読みします。
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
「玉座に座っておられる方」とは、神様のことです。神様は、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われます。神様は、新しい天と新しい地を創造されることにより、万物を新しくされます。そして、これらの言葉は、神様の御言葉であるゆえに、信頼でき、また真実であるのです。
また、神様は「初めであり、終わりである」方として、「事は成就した」と言われます。この「事」とは、神様が聖書において約束しておられたすべての事です。イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いは、新しい天と新しい地において完全に成就するのですね。
6節の後半に、「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」とあります。「渇いている者」とは、神様との交わりに渇いている者ということです。神様は、御自分との交わりに渇いている者たちに、命の水の泉から価なしに、無償で飲ませてくださいます(イザヤ55:1参照)。そのように、神様の救いは、一方的な無償の恵みであるのです。7節の「勝利を得る者」とは、死に至るまでイエス・キリストの証しを守りとおした者たちのことです。イエス・キリストの証しを守りとおしたキリスト者は、キリストにあって勝利し、キリストと共に、新しい天と新しい地を受け継ぐことになるのです(ローマ8:17参照)。7節の後半に、「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」とあります。3節では、「神が人と共に住み、人は神の民となる」とありましたが、7節後半では、神の「子となる」と記されています。イエス・キリストにあって、私たちは神様を父とする親しい交わりに生きることができるのです。
3 おくびょうな者に対する報い
8節をお読みします。
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。
これは、私たちに対する警告の言葉でありますね。イエス様も、このような警告の言葉をお語りになりました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とイエス様は言われました(マタイ7:21)。それと同じような警告の言葉がここに記されているのです。「おくびょうな者」とは、イエス・キリストを信じていながら、人々を恐れて信仰を曲げてしまうことのことです。また、「不信仰な者」とは、「不忠実な者」のことで、イエス様に忠実ではない者のことです。また、「忌まわしい者」とは、神様が忌み嫌われる者のことで、神でないものを神とする者のことです。人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者については、説明する必要はないと思います。ここには、おくびょうな者、不忠実な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者と、七つあげられています。そして、この七つすべてを、一言でいうと「うそを言う者」となるのです。「うそを言う者」とは、「偽り者」ということです。つまり、神の都、新しいエルサレムには、本物しか入ることはできないということですね。では、本物とはどのような者を言うのでしょうか。それを知る手がかりが、先程引用したイエス様の御言葉にあります。イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われました。イエス様を「主よ、主よ」と呼びながら、イエス様において示された天の父の御心を行わない。それは、偽り者であります。それに対して、イエス様を「主よ、主よ」と呼び、イエス様において示された天の父の御心を行う人が本物であるのです。ですから、私たちに求められることは、勇気を出して、イエス・キリストへの信仰を言い表し、忠実に、父なる神様の掟に従うことであるのです。私たちは、神の掟を守り、イエス・キリストの証しを守りとおす本物のキリスト者として、地上の生涯を全うしたいと願います。