最後の審判 2019年5月26日(日曜 夕方の礼拝)
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最後の審判
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 20章11節~15節
聖書の言葉
20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
20:14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録 20章11節~15節
メッセージ
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序
前回、私たちは、悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれたことを学びました。悪魔は、獣と偽預言者と共に、昼も夜も世々限りなく責めさいなまれることになるのです。今夕の御言葉はその続きであります。
1 最後の審判
11節と12節をお読みします。
わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
ヨハネが見た、大きな白い玉座に座っておられる方とは、神様のことであります。ヨハネは神様の裁きについて記していますが、このところはダニエル書の7章の預言を背景にして記されています。旧約の1392ページ。ダニエル書の7章9節と10節をお読みします。
なお見ていると、王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火/その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。
このダニエル書の預言の成就が、今夕の御言葉に記されているのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の477ページです。
11節の後半に、「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」とあります。裁き主である神様の御前に、天と地はもだえ逃げ去って行きました。(詩114:3、7参照)。それほどのことがこれから起ころうとしているのです。
12節に、「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た」とあります。この「死者たち」は、5節の「その他の死者たち」のことであるようです。4節に、イエスの証しを守り通した者たちが、生き返って、キリストと共に千年の間統治したことが記されていました。これは、殉教者ばかりではなく、死に至るまで信仰を守り通したすべてのキリスト者のことです。私たちは、キリスト者も、そうでない者も、同時に復活すると考えているかも知れません。しかし、ヨハネの黙示録は、キリストの再臨の後に、キリスト者だけが生き返って、キリストと共に千年の間統治することになると記すのです。そして、このことを「第一の復活」と呼び、キリスト者ではない者の生き返りと区別しているのです。5節に「その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった」とあり、7節に「この千年が終わると」とありますから、この死者たちは生き返ったはずです。しかし、今夕の御言葉では、キリストを信じない者たちは、依然として「死者たち」と言われています。生き返ったはずなのに、「死者たち」と呼ばれているのです。それは、聖書が生と死を神様との関係において考えているからです。キリストを信じない者たちは生き返ったとしても、神様との関係において死んだ者たちであるのです(ルカ9:60参照)。
ヨハネは、キリストを信じない者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見ました。「幾つかの書物が開かれた」とありますが、この「幾つかの書物」には、すべての人間の行いの記録が記されています。ですから、キリストを信じない者たちは、これらの書物に書かれていることに基づいて、彼らの行いに応じて裁かれたのです。また、もう一つの書物が開かれました。それは「命の書」であります。命の書とは、天国の住民台帳のことです。この命の書について、ヨハネは「屠られた小羊の命の書」と呼んでいました。13章8節で、ヨハネはこう記していました。「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」。今夕の御言葉で、神様によって裁かれている死者たちは、第一の復活にあずかることのできなかった、獣とその像を拝み、額や手に獣の刻印を受けた者たちであります。そのことは、彼らの名が命の書に記されていないことを示しています。ここで、神様は、もう一つの書物である命の書をも開かれました。それは、行いに応じて裁くという法則とは異なる、恵みによって救うという法則があるからです。もし、私たちが幾つかの書物だけによって裁かれるならば、すなわち、自分の行いに応じて裁かれるならば、私たちも火の池に投げ込まれねばなりません。しかし、天地創造の時から、小羊の命の書に、私たちの名が記されているゆえに、私たちはイエス・キリストにあって、恵みによって救われるのです。「第二の死は何の力もない」と言われる第一の復活にあずかることができるのです。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙の1章4節で、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と記しています。これは、言い換えれば、イエス・キリストを信じる私たちは、天地創造の時に、小羊の書である命の書に名が記されているということです。私たちは、自分の行いについて記されている書物によってではなくて、小羊の命の書に名が記されているゆえに、恵みによって第一の復活にあずかることができるのです。
2 第二の死
13節から15節までをお読みします。
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
海が外に出した死者とは、船が難破して溺れ死んだ者たちのことです。また、死と陰府が外に出した死者とは、陸地で死んだ者たちのことです。13節は、12節の繰り返しのように思えますが、裁かれる死者たちが、至る所で死んだすべての死者たちであることを強調しています。この地上に生まれてきたすべての死者たち、イエスの証しを受け入れなかった者たちは、それぞれ自分の行いに応じて裁かれるのです。
14節に、「死も陰府も火の池に投げ込まれた」とあります。死も、死者が行く場所である陰府も、もともとは神様が造られた良き世界に場所を持ちませんでした。はじめの人アダムが罪を犯したことによって、「死と陰府」がこの世界に入り込んで来たのです(ローマ5:12参照)。その死と陰府を、神様は、火の池に投げ込まれるのです。これは、死の死でありますね。神様の裁きによって、死は死ぬことになるのです。このようにして、最後の敵である死が滅ぼされるのです(一コリント15:26参照)。「この火の池が第二の死である」とあります。「第二の死」とは、火の池で昼も夜も世々限りなく責めさいなむことです。その名が命の書に記されていない者たちは、火の池に投げ込まれ、第二の死を死ぬことになるのです。
私たちが第一の復活にあずかり、第二の死である火の池を免れることができるのは、私たちの行いによるのでは決してありません。神様が、私たちを天地創造の前からイエス・キリストにあって選び、その命の書に名を書き記してくださった恵みによるのです。それゆえ、私たちは、最後の審判においてこそ、父なる神様とイエス・キリストの御名を心からほめたたえることができるのです。