イエス・キリストの再臨 2019年3月17日(日曜 夕方の礼拝)
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イエス・キリストの再臨
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 19章11節~16節
聖書の言葉
19:11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
19:12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
19:13 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
19:15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
19:16 この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。ヨハネの黙示録 19章11節~16節
メッセージ
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序 イエス・キリストの再臨
今夕の御言葉には、イエス・キリストが天から再び来られる、再臨の幻が記されています。私たちは、世の終わりがイエス・キリストの再臨によってもたらされると信じておりますが、今夕の御言葉は、その幻が記されているのです。世の終わりに、イエス様が天から再び来てくださることは、イエス様ご自身が弟子たちに教えられたことでありました。ルカによる福音書21章25節から28節までをお読みします。新約の152ページです。
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
このイエス様の御言葉の背景には、旧約聖書のダニエル書7章の預言があります。旧約の1393ページです。ダニエル書7章13節、14節をお読みします。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。
このダニエル書の預言を背景にして、イエス様は、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」と言われたのです。そして、今夕の御言葉で、ヨハネは、イエス様が「人の子」として、世を裁くために来られる幻を見るのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。新約の475ページです。
1 白馬に乗るキリスト
19章11節、12節をお読みします。
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
このとき、ヨハネは地上にいたようです。ヨハネは、地上で天が開かれているのを見ました。すると、白い馬とそれに乗っておられる方が見えたのです。この白い馬に乗っておられる方は、イエス・キリストであります。天から再び来られるイエス・キリストは白い馬に乗って来られるのです。「白」は「天上の色」であり、「勝利の色」です。また、「馬」は「軍馬」であり、戦うための乗り物です。再臨のキリストが「白い軍馬」に乗って来られることは、このお方がどのようなお方として来られるかを象徴的に示しています。かつて、イエス・キリストは、ろばに乗って、エルサレムに入られました。イエス様は、ろばに乗る、柔和な王として、エルサレムに入城されたのです。しかし、再臨のイエス・キリストは、白い軍馬に乗る、戦う王として来られるのです。「誠実」および「真実」と呼ばれるイエス様は、正義をもって裁き、また戦われるのです。このイエス様において、旧約聖書の預言は実現することになるのです。例えば、詩編96編13節に次のように記されています。「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる」。旧約聖書が預言していた「主の日の預言」は、主イエス・キリストが再び来られ、正義をもって裁き、戦われることによって実現するのです。
12節に、「その目は燃え盛る炎のようで」とありますが、これは1章14節に記されていたことでもあります。1章12節以下に、「天上におられるキリストの姿」が記されていますが、天上のキリストの「目はまるで燃え盛る炎」と記されていました。ちなみに、そこには、「口からは鋭い両刃の剣が出て」いたとも記されています。ヨハネは、白い馬に乗っている方がイエス・キリストであるとはっきり記しませんが、これまで用いてきた呼び名や描写を用いて、白い馬に乗っているお方がイエス・キリストであると記しているのです。イエス・キリストの頭には多くの王冠がありました。この多くの王冠は、イエス・キリストの地位と権力を象徴しています。イエス・キリストは「王たちの王」として、その頭に多くの王冠をかぶっていたのです。また、この方には、「自分のほかはだれも知らない名」が記されていました。このことは、このお方が、誰によっても支配されない絶対的な主権を持っておられることを教えています。人に名前を知られることは、その人に支配される可能性を生じさせます。しかし、イエス様は、自分のほかだれも知らない名を持っており、誰にも支配されない絶対的な主権をもっておられるのです。
2 血に染まった衣をまとうキリスト
13節から16節までをお読みします。
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
白い馬に乗っているイエス・キリストは、血に染まった衣を身にまとっています。この「血」については、二つの解釈があります。一つは、イエス様が十字架で流された御自分の血であるという解釈です。もう一つは、イエス様が滅ぼされる敵の血であるという解釈です。わたしは、イエス様が十字架で流された御自分の血であると解釈したいと思います。なぜなら、ヨハネは、天上のイエス・キリストを「屠られたような小羊」と記していたからです(黙示5:6参照)。また、イエス・キリストは、十字架の上で、御自分の血を流すことによって、悪魔に勝利されたからです。天から白い馬に乗って来られるイエス・キリストの衣が、御自分の血に染まっていることは、私たちに大切なことを思い起こさせます。それは、この方が、私たちの罪のために、十字架の上で死んでくださったお方であるということです。イエス・キリストは十字架の上で血を流すことによって、私たちの救いを成し遂げてくださいました。そして、その救いを完成するために、再び天から来てくださるのです(ヘブライ9:28参照)。
「その名は『神の言葉』と呼ばれた」とありますが、このことは、イエス・キリストが、正義をもって裁きをされることと関係しています。イエス・キリストが正義をもって裁かれるとは、神の言葉、神の正義をもって裁かれるということです。神の言葉と呼ばれるイエス・キリストの裁きは、神の裁きであるのです。
14節に、「天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた」とあります。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」と言われたとおり、イエス様は、天使たちの軍勢を引き連れて、まさに万軍の主として来られるのです(ルカ21:27)。しかし、この「天の軍勢」の武器については何も記されていません。また、この「天の軍勢」が戦ったとも記されていません。戦われるのは、指揮官であるイエス・キリストおひとりなのです。イエス様は、口から出る鋭い剣で諸国の民を打ち倒されます。また、自ら鉄の杖で彼らを治められます。これらのことは、旧約聖書の預言の成就でもあります。イザヤ書11章は、「平和の王」についての預言していますが、その4節にこう記されています。「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」。また、詩編2編は、「王の即位」の詩編ですが、その8節、9節にこう記されています。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」。これらの預言を成就するお方として、イエス様は、御自分の口から出る鋭い剣で諸国の民を打ち倒し、鉄の杖で彼らを治められるのです。
15節の後半に、「この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」とあります。ぶどう酒の搾り桶については、14章にも記されていました。この背景には、イザヤ書63章の御言葉があること、ぶどう酒の搾り桶を踏む行為が神様の報復を表すことは、前に言ったとおりです。今夕、注目したいことは、この搾り桶を踏まれるのが、再臨のイエス・キリストであることです。しかも、イエス・キリストは、全能者である神の激しい怒りを込めて搾り桶を踏まれるのです。そのことは、何を意味しているのかと言いますと、イエス・キリストこそ、神その方であるということです。16節に、「この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」とあります。「王の王、主の主」とは、もう少し正確に翻訳すると「王たちの王、主たちの主」となります。「王たちの王、主たちの主」。この称号は、旧約聖書の申命記で、神様が御自分について用いられたものです。申命記の10章17節にこう記されています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の主、偉大にして畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」。神様こそ、王たちの王、主たちの主であります。それと同じ名が、イエス・キリストの衣と腿の辺りに記されているのです。
結 イエス・キリストの裁きは神の裁きである
今夕の御言葉を読んで教えられることは、イエス・キリストの裁きは、神の裁きそのものであるということです。イエス・キリストは神の言葉であり、神の義をもって裁かれます。イエス・キリストは、神の怒りを込めて搾り桶を踏まれるのです。そして、この方は、「王たちの王、主たちの主」であられるのです。それゆえ、イエス・キリストの裁きは、神の裁きそのものであるのです(ヨハネ5:19~30参照)。