救いと栄光と力とは神のもの 2019年1月20日(日曜 夕方の礼拝)
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救いと栄光と力とは神のもの
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 18章21節~19章5節
聖書の言葉
18:21 すると、ある力強い天使が、大きいひき臼のような石を取り上げ、それを海に投げ込んで、こう言った。「大いなる都、バビロンは、/このように荒々しく投げ出され、/もはや決して見られない。
18:22 竪琴を弾く者の奏でる音、歌をうたう者の声、/笛を吹く者やラッパを鳴らす者の楽の音は、/もはや決してお前のうちには聞かれない。あらゆる技術を身に着けた者たちもだれ一人、/もはや決してお前のうちには見られない。ひき臼の音もまた、/もはや決してお前のうちには聞かれない。
18:23 ともし火の明かりも、/もはや決してお前のうちには輝かない。花婿や花嫁の声も、/もはや決してお前のうちには聞かれない。なぜなら、お前の商人たちが/地上の権力者となったからであり、/また、お前の魔術によって/すべての国の民が惑わされ、
18:24 預言者たちと聖なる者たちの血、/地上で殺されたすべての者の血が、/この都で流されたからである。」
19:1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
19:2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」
19:3 また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
19:4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
19:5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」ヨハネの黙示録 18章21節~19章5節
メッセージ
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序
ヨハネの黙示録18章は、大バビロンであるローマ帝国の滅亡について記しています。1節から8節には、大きな権威をもっている天使と天からの声によって、大バビロンの滅亡が記されておりました。9節から20節には、地上の王たち、地上の商人たち、海で働く者たちの嘆きの言葉によって、大バビロンの滅亡が語られておりました。「不幸だ、不幸だ、大いなる都」という言葉が三度も記されていたのです。今夕の御言葉も、大バビロンの滅亡について記しています。
1 海に投げ込まれた石
ある力強い天使は、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで、「大いなる都、バビロンは、このように荒々しく投げ出され、もはや決して見られない」と言いました。この象徴的な行為は、エレミヤ書51章に記されていることを背景にしています。エレミヤ書の50章、51章には、バビロンに向かって、主がエレミヤを通して語られた御言葉が記されています。エレミヤはバビロンに襲いかかるすべての災いを一巻の巻物に記しました。そして、それをバビロンに行くセラヤという人物に託すのです。エレミヤ書51章61節から64節にこう記されています。
エレミヤはセラヤに言った。あなたがバビロンに到着したとき、注意してこの言葉を朗読し、そして言いなさい。「主よ、あなた御自身がこの場所について、これを断ち滅ぼし、人も獣も住まない永久の廃墟にすると語られました」と。この巻物の朗読を終えたとき、巻物に石を結び付け、ユーフラテス川に投げ込み、そして言いなさい。「このように、バビロンは沈む。わたしがくだす災いのゆえに、再び立ち上がることはない。人々は力尽きる」と。
力強い天使は、このエレミヤ書の記述を背景にしつつ、大バビロンの滅びを預言するのです。このようにして、かつてのバビロン帝国が滅びたように、大バビロンであるローマ帝国も必ず滅びることを天使は告げるのです。
22節と23節には、大バビロンであるローマ帝国の荒廃した有様が記されています。ここも旧約聖書を背景にして記されています。「竪琴を弾く者の奏でる音、歌をうたう者の声、笛を吹く者やラッパを鳴らす者の楽の音は、もはや決してお前のうちに聞かれない」。音楽は心を慰め、喜ばせてくれるものですが、その楽の音は、もはや決して聞かれなくなるのです。イザヤ書の24章は「神の世界審判」について記しています。その7節から9節にこう記されています。
新しい酒は乾き、ぶどうのつるは枯れる。心の朗らかだった人々も皆、ため息をつく。太鼓の音は絶え、陽気な人々の騒ぎは終わり/竪琴の音も絶えた。酒を飲んで歌う人々もいなくなり/甘い酒も、飲んでみれば苦い。
イザヤが預言していたように、大バビロンであるローマの中でも、竪琴の音は絶え、歌う人々はいなくなるのです。そして、このことは「心の朗らかな人々も皆、ため息をつく」とあるように、喜びが失われることを意味しているのです。
続いて、「あらゆる技術を身に着けた者たちもだれ一人、もはや決してお前のうちには見られない。ひき臼の音もまた、もはや決してお前のうちには聞かれない。ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちに輝かない。花婿も花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない」とあります。この所は、エレミヤ書25章10節を背景にしています。ここでは、1節から12節までをお読みします。旧約の1223ページです。
ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年に、ユダの民すべてについてエレミヤに臨んだ言葉。その年バビロンの王ネブカドネツァルの第1年に当たっていた。預言者エレミヤは、ユダの民とエルサレムの住民すべてに次のように語った。「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第13年から今日に至るまで23年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。
彼は言った。『立ち返って、悪の道と悪事を捨てよ。そうすれば、主がお前たちと先祖に与えられた地に、とこしえからとこしえまで住むことができる。他の神々に従って行くな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造った物でわたしを怒らせるならば、わたしはお前たちに災いをくだす。しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。お前たちは自分の手で造った物をもって、わたしを怒らせ、災いを招いた。』
それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルに命じて、北の諸部族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、ひき臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえの荒れ地とする。
10節に、「わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、ひき臼の音、ともし火の光を絶えさせる」とあります。この所を背景にして、今夕の御言葉は記されているのですが、ここで注意したいことは、この裁きの言葉がユダ王国の人々に告げられている点です。「そこ」とは「エルサレム」なのですね。このことは、神様がすべての民を裁かれるお方であることを私たちに思い起こさせます。私たちキリスト者も、神様に裁かれるのです。しかし、私たちキリスト者にとって、神様の裁きは滅びではなく、救いであります。それは、イエス・キリストが、私たちの滅びを十字架の死によって引き受けてくださったからです。イエス様が、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって罪の刑罰としての死を死んでくださったゆえに、私たちは、神様の裁きによって、正しい者と公に宣言されるのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。新約の474ページです。
23節の後半と24節に、神様の裁きによって、大バビロンが廃虚となる理由が記されています。ここには、大きく3つの理由が記されています。一つは、ローマの商人たちが地上の権力者となったことです。このことは、ローマの社会が富を重んじる社会であったことを示しています。富は人をうぬぼれさせ、高慢にします。それゆえ、イエス様は、弟子たちに、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたのです(マタイ6:24)。富は、神様に取って代わる偶像になりやすいのです。そのような誘惑に、私たちもさらされているのです。
二つ目は、ローマの魔術によって、すべての国の民が惑わされたことです。ここでの「魔術」は、ローマ皇帝の像を拝ませたことを指しています。ローマ皇帝は、忠誠の証として、自分の像を拝むことを強制しました。そのようにして、ローマ帝国は、すべての国の民を惑わしたのです。
三つ目は、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、ローマで流されたからです。これは、二つ目の理由と関係しています。預言者たちと聖なる者たちとは、イエス・キリストを信じる者たちのことです。彼らは、ローマ皇帝の像を拝むことを拒否しました。それゆえ、キリスト者たちは迫害され、殺されたのです。ローマにおいて、多くの正しい者の血が流されたのです。
2 救いと栄光と力とは神のもの
19章では、場面が地上から天上へと移っています。その後、ヨハネは、大群衆の大声のようなものを聞きました。この大群衆は、無数の天使たちのようです。天において無数の天使たちはこう言いました。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである」。ハレルヤとは、ヘブライ語の音をギリシャ語で写した言葉です。「ハレル」とは「ほめたたえよ」という意味で、「ヤァ」とは「ヤハウェ」という神様の御名前を短縮したものです。ですから、「ハレルヤ」とは「ヤハウェをほめたたえよ」という意味であります。旧約聖書の詩編には、「ハレルヤ」という言葉が何度も記されています(詩146~150参照)。しかし、新約聖書には、「ハレルヤ」という言葉はここにしか出てきません。それで、ある人(佐竹明)は、次のように言っています。「ハレルヤはバビロンの滅亡というクライマックスにおいてこそ発せられるべき最高の声と見なされていた。バビロンの滅亡こそは、ハレルヤと叫ぶに値する決定的な出来事であった」。バビロンの滅亡の預言、その幻を受けて、天では御使いたちが、「ハレルヤ」「主をほめたたえよ」と大声で叫ぶのです。
続けて、御使いたちは、「救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」と言います。これは、勝利の宣言です。「救いと栄光と力とは、ローマ帝国のものではなく、わたしたちの神のものだ」こう言うのですね。2節に「その裁きは真実で正しい」とあります。私たちが生きている世界は不正がまかり通る世界でありますが、世の終わりには、神様の真実で正しい裁きが行われるのです。その時、神様は、地上を堕落させた大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐をしてくださるのです。3節に、「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る」とありますように、神様は、大バビロンを永遠に滅ぼされるのです。
この天使たちの声に、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神様を礼拝して、こう言いました。「アーメン、ハレルヤ」。「アーメン」もヘブライ語の音をギリシャ語で写した言葉です。アーメンは、「本当です」とか「そのとおりです」という意味です。二十四人の長老と四つの生き物も天使たちの言葉に同意して、神様をほめたたえたのです。そして、地上で神を畏れて生きる私たちにも、神をほめたたえよと促すのです。神様は世界を真実に正しくお裁きになる。そのことが私たちにとってのハレルヤとなるのです。そのようにして、私たちは、この地上で、神様をほめたたえることができるのです。