正しく裁く神 2019年10月27日(日曜 朝の礼拝)
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正しく裁く神
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- 村田寿和 牧師
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詩編 7編1節~18節
聖書の言葉
7:1 【シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。】
7:2 わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。
7:3 獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。
7:4 わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり
7:5 仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら
7:6 敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。〔セラ
7:7 主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。
7:8 諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。
7:9 主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。
7:10 あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。
7:11 心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。
7:12 正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。
7:13 立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え
7:14 殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。
7:15 御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。
7:16 落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。
7:17 災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。
7:18 正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
詩編 7編1節~18節
メッセージ
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今朝は、詩編第7編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」とあります。「ベニヤミン人クシュ」については、サムエル記にも列王記にも記されていないので、よく分かりません。おそらく、ベニヤミン族出身のサウル王の家臣であったと考えられています。サムエル記上を読みますと、ダビデがサウル王によって命を狙われて、逃亡生活を送ったことが記されています。そのような逃亡生活を背景にして、今朝の御言葉は記されているのです。
2節と3節をお読みします。
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。
ダビデは、「わたしの神、主よ」と呼びかけます。ここで「主」と訳されている言葉は、その昔、ホレブの山で、神さまがモーセに示されたお名前であります。「主」とは、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持つ、ヤハウェというお名前であるのです。その主、ヤハウェを、ダビデは、わたしの神と呼び、避けどころとするのです。ダビデは、わたしの神、主の中に、逃げ込むのです。ここで私たちが思い起こしたいことは、ダビデが主によって油を注がれた者であるということです。サムエル記上の第9章に、サウルがサムエルから油を注がれてイスラエルの王とされたことが記されています。しかし、サウルは、主の命令に従わないので、王失格と判断され、退けられました。そのサウルに代わって王となるべく、サムエルから油を注がれたのがダビデであったのです(サムエル上16章参照)。ダビデは、主に油を注がれた者として、主を避けどころとし、「わたしを助け、追い迫る者から救ってください」と祈るのです。ここでの「追い迫る者」は具体的には、ダビデの命を狙っているサウルとその部下たちのことです。けれども、詩編が世代を越えて、イスラエルの民によって歌われたことを考えるならば、私たちは自分に追い迫る者を当てはめて読むことができるのです。ダビデは、「獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれない」と歌います。ダビデは羊飼いでしたから、獅子が羊を餌食とするのを実際に見たことがありました。そのとき、ダビデは、獅子に立ち向かい、その口から羊を取り戻したのです(サムエル上17:34、35参照)。しかし、ダビデの魂を獅子のように餌食とする者から、奪い返し、助けてくれる者は誰もいないのです。それゆえ、ダビデは「わたしの神、主よ、・・・・・・わたしを助け、追い迫る者から救ってください」と祈るのです。
4節から6節までをお読みします。
わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり/仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら、敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏させても当然です。
ここで、ダビデは自分が潔白であることを証言しています。ベニヤミン人クシュは、「ダビデの手には不正がある。ダビデは仲間に災いをこうむらせている。ダビデは自分を苦しめる者をいたずらに見逃した」と悪い噂を流していたようです。しかし、そのような悪い噂が本当であるならば、敵(サウルとその部下たち)がわたしの魂に追い迫り、追いつき、わたしの命を地に踏みにじり、わたしの誉れを塵に伏させてもかまわないとダビデは言うのです。このような潔白の主張は、ダビデが神さまの裁きを求める布石として記されています。敵の噂が偽りであり、自分が潔白であるがゆえに、ダビデは主の裁きを祈り求めることができるのです。
7節から10節までをお読みします。
主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。
ダビデは、自分の身の潔白を主張した後で、主に裁きを祈り求めます。諸国の民を裁かれる主に、「お前は正しい、とがめるところはない」と宣言してくださいと願うのです。イエス・キリストの使徒パウロの教えに親しんでいる私たちは、このダビデの祈りに戸惑うかも知れません。といいますのも、神さまに裁かれるならば、だれも正しい人はいないと、パウロは教えているからです。しかし、ここでダビデが祈り求めているのは、悪い噂を流して自分を破滅させようとするベニヤミン人クシュと自分との間の裁きであります。諸国の民を裁かれる主、ヤハウェが、自分と敵との間を裁いてくださり、自分のことを正しいと宣言してくださることをダビデは祈り求めているのです(C・S・ルイス「我々は神の裁きを刑事裁判の被告の立場で考えるが、詩人は民事裁判の原告の立場で神の裁きを求める。」、ルカ18章の「やもめと裁判官のたとえ」参照)。神さまは、心とはらわたを調べる御方であるゆえに、正しく裁くことがおできになります。神さま御自身が裁きの基準となる正しい御方であるのです(正しい神の御意志の表れが律法)。それゆえ、神さまは、御自分に逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、御自分に従う者を固く立たせてくださるのです。ダビデが、「お前は正しい、とがめるところはない」と宣言していただけるのは、ダビデが主に従う者であるからです。このことは、私たちにおいても言えます。神さまの法廷において、私たちが「お前は正しい、とがめるところはない」と言っていただけるのは、主イエス・キリストに従う者であるからなのです。神さまは、主イエス・キリストを信じる私たちを正しい者として受け入れてくださるのです(ローマ3:22参照)。
11節から17節までをお読みします。
心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え/殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。
ダビデは「心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾」と歌いました。私たちがこのように歌うことができるのは、主イエス・キリストのゆえでありますね。神さまは、心のまっすぐな人、イエス・キリストを救ってくださいました(死者の中からの復活)。また、神さまは、私たちに、イエス・キリストを信じるまっすぐな心を与えてくださいました。それゆえ、私たちも、「神はわたしの盾」と言えるのです。神さまは、私たちの盾となって、私たちを守ってくださる御方であるのです。
12節に、「正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神」とあります。正しい裁き主である神さまは、人間の日ごとの罪に目を留められて憤られる御方であるのです。そのような御方として、神さまは、イスラエルに裁判についての掟を与えられました(出エジプト23:1~3、6~9、申命16:18~20、19:15~21)。神さまの御心は、イスラエルの民が律法に基づいて正しい裁きを行い、御自分の正義が行われることであったのです。このことは、現代の日本社会においても、原則としては当てはまります。日本の憲法と法律が神さまの御心にそったものである限りにおいて、神さまは、地上の裁判制度を通して、日ごとに裁きをしておられるのです。神さまは、医療を通して癒しの業をされているように、裁判制度を通して裁きの業をされているのです。そのように考えるならば、私たちにとって、神さまの裁きは、より身近になると思います。もちろん、地上の裁判において、必ずしも正しい判決が下されるわけではありません。しかし、だからこそ、私たちは、地上の裁判を超えた神さまの裁き、世の終わりになされる主イエス・キリストの正しい裁きを待ち望むのです。
13節から17節までは、神さまに立ち帰らない者に対して、神さまが戦士として裁かれること、さらには、悪しき者が自分の悪によって滅びることが記されています。ダビデが描く裁き主は、剣を鋭くし、炎の矢を射かけられる戦士であるのです。これは、申命記の32章に記されている主のお姿でもあります。申命記の32章39節から42節までをお読みします。旧約の335ページです。
しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけて/きらめく剣をとぎ、手に裁きを握るとき/わたしは苦しめる者に報復し/わたしを憎む者に報いる。わたしの矢を血に酔わせ/わたしの剣に肉を食らわせる。殺された者と捕らえられた者の血を飲ませ/髪を伸ばした敵の首領の肉を食らわせる。
このように裁き主である神さまは、剣を手にし、矢を射かけられる戦士、まさに万軍の主であられるのです(神さまは警察であり、裁判官であり、刑の執行者でもある)。そして、このようなお姿は、世を裁かれるために来られる再臨の主イエス・キリストのお姿でもあるのです。ヨハネの黙示録19章11節から16節までをお読みします。新約の475ページです。
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されている。
このように、ヨハネの黙示録は、再臨の主イエス・キリストを戦士として描くのですね。ここで一つ注意したいことは、13節にあるように、再臨のイエス・キリストが、血に染まった衣を身にまとっているということです。この血は、敵の返り血ではありません。この血は、十字架の上で流された御自身の血であります。イエスさまは、御自分の民の罪を担って、十字架の上で血を流してくださいました。それゆえ、イエスさまは、御自分を信じる私たちを、最後の審判において、「お前は正しい。とがめるところはない」と公に宣言してくださるのです(私たちの贖い主が私たちの裁き主である)。主イエス・キリストの再臨と最後の審判によって、神さまの正しさは、完全に実現することになるのです(二ペトロ3:13「義の宿る新しい天と地」参照)。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の840ページです。
18節をお読みします。
正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
ダビデは、自分と敵との間を裁いて、救ってくださる主に感謝をささげ、主の御名をほめ歌いました。私たちも、イエス・キリストにあって、正しい者とされているゆえに、主に感謝をささげ、主の御名をほめ歌うことができます。たとえ今、悪い者によって苦しめられていたとしても、世の終わりの神さまの正しい裁きを信じて、主の御名をほめたたえることができるのです。