主よ、義によって導いてください 2019年8月25日(日曜 朝の礼拝)
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主よ、義によって導いてください
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
詩編 5編1節~13節
聖書の言葉
5:1 【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
5:2 主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。
5:3 わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。
5:4 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。
5:5 あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず
5:6 誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。
5:7 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。
5:8 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。
5:9 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
5:10 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
5:11 神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。
5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。
5:13 主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。詩編 5編1節~13節
メッセージ
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今朝は、詩編第5編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩」とあるように、第5編はダビデによって記された詩編です。このとき、ダビデがどのような状況にあったのかは書いてありませんが、詩編そのものから知ることができます。そのことを念頭に置きつつ、読み進めていきたいと思います。
2節から4節までをお読みします。
主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。
ダビデは、「主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください」と祈りだします。「主」とは、その昔、神さまがモーセに示されたヤハウェという御名前で、「わたしはあなたと共にいる」という意味です。ダビデは、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持つ「主」の御名を呼ぶのです。ここで「つぶやき」と訳されている言葉は、別の訳ですと「うめき」となります(聖書協会共同訳参照)。「つぶやき」とは不平不満ではなくて、言葉にならない「うめき」のことです。ダビデは、「私のうめきを聞き取ってください」と祈っているのです(新改訳2017参照)。
ダビデは、主に対して、「わたしの王、わたしの神よ」と呼びかけます。そして、「助けを求めて叫ぶ声を聞いてください」と祈ります。主によって油を注がれ王とされたダビデが、主に対して、「わたしの王、わたしの神よ」と呼びかけるのです。このことは、イスラエルのまことの王は主であること、その主によってダビデは王の務めをゆだねられているに過ぎないことを教えています。王の働きの一つに、民の争いを裁くという働きがありました(サムエル下15:2参照)。民の争いを裁いていたダビデが、ここでは、王である主に、正しい裁きを求めているのです。考えてみますと、私たちは、使徒信条において、主イエス・キリストが、すべての人の裁き主であると告白しています。そもそも、「キリスト」という称号は「油注がれた者」「王」という意味です。では、私たちは、主イエス・キリストに、自分と他人との争いを裁いてくださいと祈っているかと言いますと、あまり祈らないのではないかと思います。そのような私たちに、今朝の御言葉は、王であり、裁き主である主イエス・キリストに、正しい裁きを祈り求めることを教えているのです。
4節に、「朝ごとに」という言葉が二度記されています。朝は、私たちにとって新しい一日の始まりです。その朝ごとに、ダビデは御前に訴え出て、主を仰ぎ、裁きを待ち望んだのです。ここで「訴え出て」と訳されている言葉は、「身を整え」(聖書協会共同訳)とか「備えをして」(新改訳2017)とも訳すことができます。ダビデは、朝が来る度に、主に向かって身を整え、主を礼拝したのです。
5節から8節までをお読みします。
あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず/誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。
ここには、ダビデが、主は正しく裁いてくださると信じる根拠が記されています。5節に、「逆らう者」とありますが、元の言葉を見ると「悪」と記されています。主は、悪を喜ぶ神ではないので、悪人は御もとに宿ることは許されないのです。6節に、「誇り高い者」とありますが、これは「驕る者」のことです(聖書協会共同訳)。驕る者とは、自分を神として、人を人とも思わない者のことです。義なる神さまは、悪を喜ばず、悪を行う者を憎まれます。「あなたは偽証してはならない」という掟を与えられた主は、偽って語る者を滅ぼされます。また、「あなたは殺してはならない」という掟を与えられた主は、流血の罪を犯す者を忌み嫌われるのです。ダビデを苦しめていたのは、どうもこのような者たちであったようですね。
悪人は御もとに宿ることを許されないのに対して、ダビデは、主から深い慈しみをいただいて、主の家に入り、聖なる宮にひれ伏し、主を畏れ敬います。ここで「慈しみ」と訳されているヘブライ語は「ヘセド」で、「契約に誠実な神の愛」を表します。ダビデは、主の豊かな慈しみの中で、主の家に入り、主を畏れ敬うのです。このことは、私たちも同じです。私たちもイエス・キリストにおいて示された豊かな慈しみの中、教会に集い、神さまを礼拝しているのです。
「聖なる宮」とありますが、ダビデの時代は、神殿はまだありませんでした。ですから、ここでの「聖なる宮」は、契約の箱が置いてあった天幕のことです。しかし、私たちが忘れてはならないことは、ダビデの詩編は、後の世代によって、神殿で歌われたということです。イスラエルの主を畏れ敬う人々が、ダビデの祈りを自分の祈りとしたということです。
9節から11節までをお読みします。
主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。
9節から11節までは、ダビデの祈りの本体とも言える個所です。ダビデは、「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導いてください」と祈ります。「恵みの御業」と訳されているヘブライ語(ツェダカー)は直訳すると「義」となります。新共同訳聖書は、「義」というヘブライ語を、「恵みの御業」というように説明的に訳しているのです。今朝の説教題を「主よ、義によって導いてください」としましたが、聖書協会共同訳では、そのように翻訳しています。私はこの説教の準備として、いろいろな翻訳聖書を読み比べましたが、9節の御言葉を、新改訳2017は次のように訳しています。「主よ、私を待ち伏せている者がいますから/あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」。その昔、神さまは、アダムの息子であるカインに、「罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める」と警告されました(創世4:7)。それと同じように、ダビデを言葉によって陥れようとする者が待ち伏せているのです。それゆえ、ダビデは、「あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」と祈るのです。これは、私たちが祈るべき祈りでもあります。私たちの周りには、私たちを陥れようとする者や私たちを神さまから遠ざけようとする誘惑があります。それゆえ、私たちも、「主よ、あなたの義によって、私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」と祈るべきであるのです。私たちが「主よ、義によって導いてください」と祈るとき、それはイエス・キリストにおいて示された神の義によってということです。イエス・キリストにおいて示された神の義、それはイエス・キリストを信じる私たちの罪を赦し、正しい者とする神の義であります。そのような義によって、神さまは、私たちを御自分の子として、まっすぐな道に導いてくださっているのです。
10節は、ダビデを陥れようとする者について記しています。彼らはうまいことを言って、その言葉によって、ダビデを陥れようとしていたようです。
11節には、ダビデを陥れようとする者を罪に定めることを願う言葉が記されています。新共同訳聖書は訳出していませんが、原典には11節の最後に、「なぜなら、彼らはあなたに反逆したからです」と記されています。聖書協会共同訳には「彼らはあなたに逆らったのです」、新改訳2017には「あなたに逆らっているからです」、口語訳には「彼らはあなたにそむいたからです」と記されています。つまり、ダビデは、自分を基準にしてではなく、神さまを基準にして裁きを考えているのです。神さまの義によって導かれること、神さまのまっすぐな道を歩むことを願う者として、ダビデは、神さまに背く者に対する滅びを祈り求めているのです。
12節と13節をお読みします。
あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し
/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。
ここでダビデは、主を避けどころとする、すべての人に祈りを広げています。主イエス・キリストを避けどころとする私たちは、喜び祝い、とこしえに喜び歌うことができるのです。「御名を愛する者はあなたに守られ(覆われ)、あなたによって喜び誇ります」とあるように、私たちは、イエス・キリストの義によって覆われた者として、喜び祝うことができるのです(ローマ4:7参照)。13節に、「従う人」とありますが、元の言葉は「正しい人」(ツァディーク)です。主イエス・キリストを避けどころとする私たちは、正しい人と認められ、祝福されているのです。13節の後半に、「御旨のままに、盾となってお守りくださいます」とありますが、この所を直訳すると「大盾のように御旨で私たちを囲う」となります。私たちの体がすっぽり隠れてしまう大きな盾のように、神さまの御旨が私たちを囲んでいるのです。御名を愛する私たちは、神さまの御旨の内に守られているのです(ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」参照)。