私を安らかに住まわせてくださる方 2019年5月08日(水曜 聖書と祈りの会)
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私を安らかに住まわせてくださる方
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- 村田寿和 牧師
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詩編 4編1節~9節
聖書の言葉
4:1 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
4:2 呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。
4:3 人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4:4 主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。
4:5 おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ
4:6 ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
4:7 恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
4:9 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
詩編 4編1節~9節
メッセージ
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今日は、詩編4編より、「私を安らかに住まわせてくださる方」という題でお奨めいたします。
1節に「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩」とあります。第4編は、第3編と同じくダビデによって歌われた詩編であるのです。しかし、第4編は、第3編とは違って、どのようなときに歌われた詩編であるのかは記されていません。第3編には「アブサロムを逃れたとき」と記されていましたが、第4編にはそのようなことは記されていません。しかし、詩編そのものから、ダビデがどのような状況にあったのかを知ることはできます。3節に「人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか」とあります。ここから推測すると、ダビデは、人々の中傷によって、名誉を傷つけられ、苦しんでいたようです。そのような状況を念頭において、読み進めて行きたいと思います。
2節をお読みします。
呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。
ダビデは、「呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ」と呼びかけています。「わたしの正しさを認めてくださる神」は、直訳すると「私の義の神」となります。新共同訳聖書は「私の義の神」を「わたしの正しさを認めてくださる神」と説明的に意訳しています。ダビデは人の子らによって中傷され、辱めにさらされていました。しかし、ダビデは、自分の正しさを認めてくださる神様に、「私の義の神よ」と呼びかけるのです。
ダビデは「苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください」と祈ります。新共同訳聖書は「苦難から解き放ってください」と翻訳していますが、この所は過去の出来事として翻訳することができます。「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と翻訳することができるのです(聖書協会共同訳)。このように過去の出来事として翻訳すると、苦難から解き放たれた過去の経験が、今の祈りのを支えていることが分かります。
ダビデにとって、神様が祈りを聞いてくださることは当然のことではありません。それゆえ、ダビデは「呼び求めるわたしに答えてください」、「憐れんで、祈りを聞いてください」と願うのです。ダビデは、神様が祈りを聞いてくださらないのではないかと恐れました。では、私たちはどうでしょうか?私たちもダビデのように、神様は祈りを聞いてくださらないのではないかと恐れなければならないのでしょうか?私たちは幸いなことに、恐れる必要が全くありません。なぜなら、イエス様はヨハネによる福音書の16章23節、24節でこう言われているからです。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。私たちの祈りは、イエス・キリストの名による祈りであるゆえに、必ず聞いていただけるのです。イエス・キリストにあって父となってくださった神様は、私たちを憐れんで、祈りを聞いてくださるのです。そして、神様は、イエス・キリストにあって、私たちを御前に正しいと認めてくださる御方(私の義の神)でもあるのです。
3節から6節までをお読みします。
人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
3節から6節は、ダビデの名誉を辱めにさらす者たちに対する言葉です。ダビデは、人の子らが偽りを語り、自分の名誉を辱めても、主は御自分の慈しみに生きる人を見分けてくださり、祈りを聞いてくださると歌います。人間が偽りを語ることによってダビデの名誉を辱めようとも、主はダビデを正しいと認めてくださり、あらゆる苦難から解き放ってくださるのです。それゆえ、ダビデは人の子らに対して、「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」と勧告するのです。偽りを語ることによってダビデの名誉を辱めることは、主に対する罪であります。なぜなら、ダビデは主によって油を注がれた王であり、主の慈しみに生きる人であるからです。それゆえ、ダビデは自分を中傷する者たちに、「おののいて罪を離れよ」と言うのです。また、ダビデは、「横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ」と記します。ここには、ダビデ自身の経験が反映されているようです。ダビデも主の御前に多くの罪を犯しました。そのとき、ダビデ自身が、夜、横たわって自らの心と語ったのではないかと思います。夜、暗闇の中で横たわるとき、それは私たちにとって、自らと語らう良い機会であるのです。自分の心の声に耳を傾ける良い機会であるのです。そのような自分との語らいのとき、自己反省のときをもって、沈黙に入れとダビデは記すのです。
6節に「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」とあります。ここで「ふさわしい献げ物」と訳されている言葉は「義のいけにえ」となります(聖書協会共同訳)。「義のいけにえ」とは、私たちにとりまして、何よりも神の小羊であるイエス・キリストであります。イエス・キリストは、多くの人の罪を償うために、御自身をいけにえとしてささげてくださいました。「イエス・キリストは、私の罪のために十字架で死んでくださった」と告白するならば、その人は、義のいけにえをささげたことになるのです。そして、復活して、天に上げられた主イエスに依り頼む者となることができるのです。
7節から9節までをお読みします。
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
「恵みを示す者があろうか」の「恵み」と訳されている言葉は「良い」という言葉(トーブ)です(創世1:31参照)。ですから、新改訳2017は、次のように翻訳しています。「多くの者は言っています。『だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか』と」。それは言うまでもなく、イスラエルと共におられる神、主であります。「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」。このダビデの祈りは、大祭司アロンの祝祷からの引用です(民数6:25)。ダビデは、大祭司の祝祷を引用することにより、主こそがすべての人に良い目を見させてくださる御方であると答えるのです。
多くの人が求める良い目を見るとはどのようなことでしょうか。そのことが8節に具体的に記されています。麦とぶどうを豊かに取り入れることができる。これこそ、良い目であり、喜ばしいことです。しかし、ダビデは、それにもまさる喜びを/わたしの心に与えてくださいと祈るのです。そして、その喜びは、平和のうちに身を横たえて眠ることができる喜びであるのです。「主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます」(聖書協会共同訳)と告白することのできる平和と結びついた喜びであるのです。
このような平和と結びついた喜びを、私たちは、イエス・キリストによって与えられます。イエス様は、ヨハネによる福音書の14章27節、28節でこう言われます。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとへ行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」。また、16章22節で、イエス様はこのようにも言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。神様がイエス・キリストにあって、私たちと和解し、私たちを神の子としてくださっている。そのような平和と喜びを、私たちは与えられているのです。それゆえ、私たちは、麦とぶどうの豊かな収穫にまさって喜び、平和のうちに身を横たえて眠ることができるのです。私たちは横たわって、自分の心に神様の言葉を語ってあげることができるのです。自分の心に「あなたは赦されているよ。あなたは、神様の愛する子とされているのだよ」と語りかけてあげることができるのです。そして、主にある平安のうちに眠ることができるのです。