主が支えていてくださる 2019年3月27日(水曜 聖書と祈りの会)
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主が支えていてくださる
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- 村田寿和 牧師
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詩編 3編1節~9節
聖書の言葉
3:1 【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】
3:2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3:3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ
3:4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。
3:5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ
3:6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
3:7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。
3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ
詩編 3編1節~9節
メッセージ
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今日は、詩編第3編より、「主が支えていてくださる」という題でお奨めいたします。
1節に「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。「ダビデ」とは、紀元前1000年頃に活躍したイスラエルの王様です。ダビデについてはサムエル記上の16章から列王記上の2章に渡って記されています。ダビデが息子のアブサロムから逃れたことについては、サムエル記下の15章から18章に渡って記されています。アブサロムは自ら王となり、父親であるダビデを殺そうとします。ダビデは、息子アブサロムを避けるために、エルサレムを出発するのです。そのようなときに歌った賛歌が第3編であるのです。
2節、3節をお読みします。
主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい/多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。
ダビデは「主よ」と呼びかけます。ここでの「主」は出エジプト記の3章で、神様がモーセにお示しになった「ヤハウェ」という御名前です。「ヤハウェ」とは「わたしはあなたがたと共にいる」という意味でありました。ダビデはイスラエルの民と共におられる神に「主よ」と呼びかけるのです。そして、ダビデにとって、主は、自分の頭に油を注ぎ、イスラエルの王としてくださった御方であるのです。前回、私たちは第2編を学びましたが、ダビデは主から油を注がれたメシア、王であるのです。その主に、ダビデは祈るのです。第3編は9節からなる短い詩編ですが、「主(ヤハウェ)」という言葉が6回も記されています(2、4、5、6、8、9節)。ダビデは、「わたしはあなたと共にいる」という主、ヤハウェという御名を何度も呼ぶのです。
サムエル記下の15章12節には、「アブサロムのもとに集まる民は次第に数を増した」と記されています。そのことを背景にしつつ、ダビデは、「主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか」と歌うのです。また、サムエル記下16章7節、8節には、サウル家の一族であるシムイがダビデを呪ったことが記されています。そのシムイのように、多くの者がダビデに立ち向かい、「彼に神の救いなどあるものか」と言っていたのです。これは、信仰者として、まことにつらいことですね。そのような窮状(困り果てている状態)を、ダビデは主に訴えるのです。
4節、5節をお読みします。
主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。
ここには、主に対するダビデの信仰が歌われています。多くの者がダビデに立ち向かい、「彼に神の救いなどあるものか」と言ったとしても、ダビデは、主の御名を呼び、「あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方」と言うのです。アブサロムから逃れたとき、「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行」きました(サムエル下15:30)。そのダビデの頭を主が高くあげてくださるのです。
多くの者から「彼に神の救いなどあるものか」と言われても、ダビデは、「主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます」との信仰を言い表すのです。聖なる山とはエルサレムのことです。エルサレムには、神様の臨在を表す契約の箱があります(サムエル下15:25参照)。それゆえ、ダビデは、主が聖なる山から答えてくださると歌うのです。
6節、7節をお読みします。
身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。
6節の「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます」という言葉から、第3編は「朝の祈り」と呼ばれています。このとき、ダビデは困難な状況にありました。ダビデを苦しめる者の数は増し、多くの者がダビデに立ち向かっていたのです。しかも、息子からダビデは命を狙われていたのです。しかし、そのような状況においても、ダビデは平安に眠ることができました。それは、主が支えてくださっているという信仰によるものです。ダビデは、主が自分を囲む盾であることを信頼しているゆえに、「いかに多くの民に包囲されても、わたしは決して恐れません」と歌うのです。
8節、9節をお読みします。
主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。
ここでダビデは、主に戦ってくださるよう祈っています。ダビデは、主が油を注がれたメシア、王であるからです。主が油を注がれたダビデに立ち向かうことは、主に立ち向かうことであるのです。それゆえ、ダビデは、「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください」と祈るのです。
9節の「救いは主のもとにあります」とは、ダビデの信仰告白です。多くの人から「彼に神の救いなどあるものか」と言われたダビデが、「救いは主のもとにある」と告白するのです。そして、事実、主はダビデをエルサレムへ再び戻してくださったのです(サムエル下20:3参照)。9節の後半には、イスラエルの王として民のうえに主の祝福を求める言葉が記されています。民を祝福したのは祭司だけではありません。王も民を祝福したのです(サムエル下6:18参照)。「あなたの祝福があなたの民の上にありますように」。苦しみの訴えから始まった詩編は、このように神の民の祝福を祈り求めて閉じられるのです。
今日、特に注目したいことは、ダビデが多くの人から「彼に神の救いなどあるものか」と言われたにもかかわらず、ダビデが主に信頼し、祈って歩んだことです。ダビデは、羊の群れを飼う者であった自分をイスラエルの王としてくださった主をよく知っていました。ダビデは、苦難の中にあっても、主を自分の神として信頼し、祝福を求めることができたのです。私たちも苦しみの中にあるとき、「私に神の救いなどないのではないか」と考えてしまうことがあるかも知れません。しかし、それでも、私たちは主の御名を呼びたいと思います。私たちの苦しみよりも更に大きな苦しみを味わってくださった主イエスの御名を呼びたいと思います。主イエスが死んで復活してくださった。そして、私たちと共にいてくださり、支えていてくださる。そのことに信頼して、私たちも身を横たえて眠り、目覚める者でありたいと願います。
新約聖書の使徒言行録の12章に、ペトロがヘロデによって牢に捕らえられ、明日には処刑されるというお話が記されています。そこには、「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」と記されています(使徒12:6)。ペトロは、明日処刑されるのに、なぜ、眠ることができたのでしょうか。それは、死者の中から復活された主イエスがペトロを支えていてくださったからです。ペトロは、詩編第3編のダビデと同じ信仰をもって、身を横たえて眠っていたのです。主イエスが必ず起き上がらせてくださることを信じて、身を横たえて眠ることができたのです。