子に口づけせよ 2019年3月20日(水曜 聖書と祈りの会)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

子に口づけせよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 2編1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。
2:2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
2:3 「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。
2:4 天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り
2:5 憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。
2:6 「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」
2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
2:8 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。
2:9 お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」
2:10 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。
2:11 畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。
2:12 子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。詩編 2編1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は詩編第2編より「子に口づけせよ」という題でお奨めをいたします。

 前回学んだ詩編第1編は、詩編全体の序文と言えますが、詩編第2編も第1編と合わせて、詩編の序文であると言われます。第2編が第1編と一つであると言われるのは、12節に「いかに幸いなことか」と記されているからです。第1編と第2編は、「いかに幸いなことか」という言葉に囲まれる一つの詩編であると考えられるのです。そのようなことを念頭に置く時、第1編の「神に逆らう者」の規模が大きく広がっていることが分かります。第2編は、神に逆らう者として「地上の王たち」について記すのです。

 1節から3節までをお読みします。

 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか/「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。

 ここで「国々」と訳されている言葉(ゴイーム)は異邦人とも訳せる言葉です。ですから、ここでの「国々」はまことの神を知らない、イスラエル以外の国々であり、「人々」はまことの神を知らない人々のことです。また「声をあげるのか」と訳されている言葉(ハーガー)は、第1編2節で「口ずさむ」と訳されていたのと同じ言葉です。正しい人が主の教えを口ずさむのに対して、異邦の人々は空しいことをつぶやき、主に逆らうのです。

 この詩編は、イスラエルが諸外国を支配していることを前提にして記されています。そして、「なにゆえ」という問いを二度繰り返すことによって、地上の王たちと支配者たちが、主と主の油注がれた方に逆らう様を記すのです。「油注がれた方」と訳されている言葉は「メシア」であり、ギリシャ語に訳すと「キリスト」になります。イスラエルでは、王が即位するとき、頭に油を注ぐ儀式をしました。それゆえ、イスラエルでは王が「主によって油を注がれた方」と言われたのです。地上の王と支配者たちは、主と主のメシアに逆らい、枷と縄に象徴される隷属から自由になろうとするのです。

 4節から6節までをお読みします。

 天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」

 「天を王座とする方」とは、主、ヤハウェのことです。ここには、主は天の王座についておられる王たちの王、主たちの主であるという信仰があります。主はご自分とご自分のメシアに逆らう者たちを笑われます。そして、嘲り、憤って、彼らにこう宣言されるのです。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた」。シオンとは「エルサレム」のことです。イスラエルの都エルサレムで、神様が自ら王を即位させた。この王とは、誰のことでしょうか。私はソロモンのことであると考えたいと思います。そうしますと、2節の「主の油注がれた方」はダビデであると言えます。偉大な王の死は、従属国にとって、反逆を企てる絶好の機会でありました。しかし、天を王座とする主は、ダビデに代わる王としてソロモンを、聖なる山シオンで、自ら即位させられるのです。

 7節から9節までをお読みします。

 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」

 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた」の「わたし」は主によって即位させられた王のことです。ここでは、王の口を通して、主によって王が立てられたこと。主によって国々を相続地として与えられることが語られています。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」。この御言葉の背景には、古代オリエント世界の考え方、王は神の子であるという考え方があります。イスラエルでは、この考え方を養子にするということによって取り入れたのです。「今日」とありますように、神様の契約に基づいて、王は神の子とされるのです。そして、このことは、主がダビデに約束しておられたことでありました。サムエル記下の7章に、いわゆるダビデ契約が記されています。そこで、主はダビデにこう言われました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(サムエル下7:12〜14)。主はダビデに約束されていたように、その身から出た子孫であるソロモンをご自分の子、王とされたのです。主は、ソロモンに、地の果てまで領土として与えると約束されます。そして、そのことは、「鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕く」とあるように、武力によって成し遂げられるのです。

 10節から12節までをお読みします。

 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び踊れ。子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。

 ここには、地上の王たちに対する服従の勧告が記されています。地上の王たちの目には、イスラエルの王は他の国々の王と変わらないように映るかも知れません。しかし、イスラエルの王は、天を王座とする主が即位させた王であるのです。天を王座とする主は、イスラエルの王によって、この地上を支配されるのです。そのことを目覚めて、悟るようにと、詩編の作者は記すのです。

 畏れ敬って主に仕えることは、政治的な意味だけではなく、宗教的な意味も含まれています。ですから、続けて「おののきつつ、喜び躍れ」と記されているのです。主に仕えること、それは主が即位させた王である子に口づけすることでもあります。ここでの口づけは「親愛と服従のしるし」です。主の憤りを招き、道を失うことがないように、すべての王とその支配のもとにあるすべての人々が、子に口づけすべきであるのです。それこそ、主を避けどころとすることであり、幸いなことであるのです。

 第2編は、メシアの詩編、王の詩編と言われます。この詩編は、ユダ王国において王が即位するときに歌われた詩編であると考えられています。しかし、お気づきになったと思いますが、この詩編はユダ王国の現実とは程遠い内容の詩編です。イスラエルは小国であり、その歴史において諸国を支配するようなことはありませんでした。まして、地の果まで領土としたことなどなかったのです。ご存知のように、ユダ王国は、バビロン帝国に滅ぼされ、バビロン捕囚から解放された後も、長い間王を持つことができませんでした。しかし、それでも第2編は歌われ続けたのです。主がメシア、王を即位させてくださるという約束、また預言として歌われ続けたのです。そのような期待の中で、イエス様が生まれ、活動されたのですね。そのような期待の中で、福音書は記され、イエス様こそ、神の子であり、メシアであると伝えているのです(マタイ3:17、17:5参照)。しかし、ユダヤの最高法院は、イエス様を偽メシアと判断し、死刑を宣告して、ローマ人の手に引き渡してしまいました。それは、イエス様が武力をもって、国々を支配するメシア、王ではなかったからです。しかし、主はイエス様を十字架の死から復活させることによって、この方こそ、イスラエルのメシア、王であることを宣言されたのです(使徒13:33、ローマ1:4参照)。神の子であるイエス・キリストに口づけすることこそ、燃え上がる主の怒りを避ける唯一の道であります(一テサロニケ1:10参照)。私たちは、私たちの罪のために死んでくださり復活されたイエス・キリストを信じることによってのみ、主を避けどころとすることができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す