幸いな人
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 詩編 1編1節~6節
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。詩編 1編1節~6節
聖書と祈りの会では、第一週を「ジュネーブ教会信仰問答の学び」とし、他の週は、旧約聖書の詩編からお奨めをしたいと思います。今日は、詩編第1編から「幸いな人」という題でお奨めをいたします。
詩編第1編は、「神に逆らう者」と「神に従う人」について記しています。「幸いな人」は、言うまでもなく、「神に従う人」のことです。詩編の作者は、私たちを神に従う人となるようにと、力強く招いています。その力強い招きを、ご一緒に聞き取りたいと願っています。
1節から3節までをお読みします。
いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従ってあゆまず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡りくれば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
詩編の作者は、幸いな人がどのような人ではないかのかを消極的に記します。幸いな人とは、神に逆らう者の計らいに従って歩まない人です。ここで「神に逆らう者」と訳されている言葉は、直訳すると「悪しき者」となります。新共同訳聖書は、「悪しき者」を「神に逆らう者」と説明的に意訳しているのです。幸いな人とは、悪しき者の計らいに従って歩まない人であるのです。
また、幸いな人とは、罪ある者の道にとどまらない人です。ここでの「道」は「生き方」を意味しています。また、「とどまる」と訳されている言葉は、直訳すると「立つ」となります。幸いな人とは、罪人の生き方に立たない人であるのです。
さらに、幸いな人とは、傲慢な者と共に座らない人です。「傲慢な者」とは「嘲る者」のことです。傲慢な者は神を無視するだけではなく、神を嘲るようになります。幸いな人は嘲る者と共に座らない人であるのです。
なぜ、悪しき者の計らいに従って歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者と共に座らない人は幸いなのでしょうか?それは、6節にあるように、そのような者の道は滅びに至るからです。私たちが悪しき者の計らいに従って歩み、罪人の道に立ち、嘲る者の座に着くならば、それは私たちの道も滅びに至ることになるのです。ことわざに「朱に交われば赤くなる」とありますように、「人は付き合う人の良し悪しによって善悪のどちらにも感化される」のです。ですから、幸いな人生を歩もうとするならば、悪しき者の計らいに従って歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かないようにすべきであるのです。
次に、詩編の作者は、幸いな人がどのような人であるのかを積極的に記します。幸いな人とは、「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」であるのです。「主の教えを愛し」とありますが、多くの聖書が「主の教えを喜びとし」と訳しています。「主の教え(トーラー)」は「幸いな人生の指針」とも言えます。ですから、主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も口ずさんで思い巡らす人は幸いな人であるのです。そして、そのような人は、ときが巡りくれば実を結び、葉もしおれることのない、流れのほとりに植えられた木にたとえられるのです。このたとえは、主の教えこそ、私たちをいきいきと生かす命の水であることを教えています。詩編の作者は、「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と断言します。そのように、私たちを力強く神に従う道へと招くのです。
4節、5節をお読みします。
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
ここでも「神に逆らう者」とは「悪しき者」のことです。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も口ずさむ人が実を結ぶ流れてのほとりに植えられた木にたとえられたのに対して、悪しき者は風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえられます。悪しき者は何の実りも結ばず、消え去っていくのです。詩編の作者は、実ともみ殻とを分けることから、神様の裁きを連想します。悪しき者は神様の裁きに堪えることができません。なぜなら、神様は悪に対して罰を与える御方であるからです。また、罪ある者は神に従う者の集いに耐えることができません。ここで「神に従う人」と訳されている言葉は、直訳すると「正しい人」となります。新共同訳聖書は「正しい人」を「神に従う人」と説明的に意訳しているのです。罪人は正しい人の集いに耐えることができません。なぜなら、罪人とは神に逆らう人であり、正しい人とは神に従う人であるからです。罪人と正しい人とでは神様に対する方向性が180度違うのです。また、罪ある者が神に従う人の集いに堪えられないのは、何よりもその集いに神様が臨在されるからです。そのことは罪人にとって滅びを予期させる不吉なことであり、耐えられないことであるのです。
6節をお読みします。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
ここでの「神に従う人」は「正しい人」のことです。また、「神に逆らう者」とは「悪しき者」のことです。私たち人間の人生には二つの道しかありません。それは、神に従う道と神に逆らう道です。そして、この二つの道は、一方は命に至る道であり、他方は滅びに至る道であるのです。詩編の作者が、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」と記すとき、その意味するところは、ご自分の民と共にいてくださる神様が、その人の人生を見守ってくださるということです。主はご自分に従う人の人生を万事が益となるように、計らってくださるのです。それゆえ、正しい人、神に従う人は幸いな人であるのです。
私たちがこの詩編を読むとき、自分を悪しき者ではなく正しい者として読むと思います。そして、それは正しいことであるのです。なぜなら、私たちは、イエス・キリストに結ばれている者として聖書を読むからです。イエス・キリストを信じる前は、私たちは悪しき者であり、罪ある者であり、傲慢な者でありました。しかし、イエス・キリストを信じて、正しい者、罪赦された者、心の貧しい人へと変えられたのです。イエス様は、山上の説教において、「幸いなるかな、心の貧しい人たち、なぜなら、天の国はその人たちのものだから」と言われました(マタイ5:3参照)。そのような幸いに私たちは生きる者とされているのです。3節のたとえで言えば、私たちはイエス様によって、命の水の流れのほとりに植えられた木であるのです。
イエス・キリストに結ばれて聖書を読む私たちにとって、「主の教え」とは「主イエスの教え」でもあります。私たちの道を知っておられる主は「主イエス」でもあるのです。そのようなことを心に留めて、私たちは主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も口ずさむ者でありたいと願います。