人を分け隔てしてはならない 2019年12月08日(日曜 朝の礼拝)

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人を分け隔てしてはならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 2章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。ヤコブの手紙 2章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ヤコブの手紙2章1節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 人を分け隔てしてはならない

 1節から4節までをお読みします。

 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

 ヤコブは、この手紙を読んでいる私たちに、「わたしの兄弟たち」と呼びかけ、「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と記します。なぜなら、「わたしたちの主イエス・キリスト」は、人を分け隔てしない御方であるからです。イエスさまは、徴税人や罪人と呼ばれる人々とも食事を共にされました。そのようなイエスさまを栄光の主と信じるならば、私たちは、決して、人を分け隔てしてはならないのです。

 ヤコブは、私たちが人を分け隔てする具体例を2節以下に記しています。ここで、一つ注意したいことは、当時の礼拝が、家に集まって、ささげられていたということです。私たちのように、礼拝施設としての教会堂が建てられるのは、ローマ帝国においてキリスト教が公認された4世紀以降であります。当時は、信徒の家に集まって、礼拝をささげていたのです。いわゆる家の教会であったのです。その集まりに、二人の人が入って来ました。一人は、金の指輪をはめた立派な身なりの人です。そして、もう一人は、汚らしい服装の貧しい人です。自分の家を会場として提供しているあなたは、この二人を席へと導かなくてはなりません。さて、あなたはどうするでしょうか。このような問いは、礼拝施設である教会堂で礼拝をささげている私たち、また、席がまだまだ空いている私たちには、難しくありません。「どうぞ、自由にお座りください」と言えばいいのです。しかし、家の教会では、椅子の数は限られています。さて、あなたはどうするでしょうか。おそらく、私たちも、立派な身なりの人に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と案内し、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うのではないでしょうか。そうであれば、ヤコブは、「あなたたがは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになる」と言うのです。ここで「誤った考え」と訳されている言葉は、「悪い考え」とも訳せます。私たちが人を分け隔てするのは、私たちの悪い考えに基づいて判断をくだした結果であるのです。ここで、私たちが注意したいことは、このヤコブの言葉が、主にある兄弟姉妹たち、栄光の主イエス・キリストを信じる者たちに対して記されているということです。しかも、人を分け隔てすることが、教会の集まり、礼拝において起こっているということです。人を分け隔てしないイエス・キリストを栄光の主と仰ぐ礼拝において、私たちが人を分け隔てしているならば、私たちは、自分の悪い考えに基づいて判断しているのです。

2 神は世の貧しい人をあえて選ばれた

 5節から7節までをお読みします。

 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。

 ここには、「誤った考えに基づいて判断を下したことになる」理由が記されています。世の常識からすれば、立派な身なりの人に特別に目を留めてよい席に案内し、貧しい人には立っているように言うことは、必ずしも誤った考えとは言えません。席は限られているのですし、立派な身なりの人が教会員となれば、経済的にも助かるからです。しかし、イエス・キリストを栄光の主と仰ぐ私たちにとって、そのことは、悪い考えに基づいた判断であるのです。なぜなら、神さまは、世の貧しい人たちをあえてお選びになり、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となされたからです。神さまは、貧しい者たちをあえてお選びになる。このことは、旧約のイスラエルの民においても言えます。申命記の7章6節から8節までをお読みします。旧約の292ページです。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたがたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 このように、主は、どの民よりも貧弱であったイスラエルをあえてお選びになりました。ですから、主がイスラエルを御自分の宝の民とされたのは、イスラエルがふさわしかったからではありません。どの民よりも貧弱であったイスラエルが神の民とされたのは、神さまの愛と契約に対する真実のゆえであるのです。

 神さまは、貧しい者をあえてお選びになられた。このことは、新しいイスラエルであるキリストの教会においても同じです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の1章26節から31節で次のように記しています。新約の300ページです。

 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 このように、神さまは、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者をあえてお選びになりました。ここで、忘れてはならないことは、私たちもそのような者であったということです。世の無に等しい私たちを神さまはお選びになりました。それは、私たちが自分を誇ることなく、主イエスを誇るためであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の422ページです。

 神さまは、世の貧しい人たちをあえてお選びになり、信仰に富ませ、御自分を愛する者に約束された国を受け継ぐ者としてくださいました。しかし、教会において、貧しい人が辱められているとヤコブは告発するのです。神さまは、貧しい人をお選びになり、信仰に富ませ、愛して、神の国を受け継ぐ者とされました。しかし、神の民である教会の交わりにおいて、その貧しい人が軽んじられ、辱めを受けているのです。これではいけないわけですね。神さまが選び、愛しておられる人を、私たちが軽んじて、辱めるようなことがあってはならないのです。

 では、私たちが目を留めて、よい席を案内した富んでいる人は、どのような者なのでしょうか。ヤコブは、「富んでいる者こそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また、彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」と記します。富んでいる者は、権力もあるようです。富んでいる者は、キリストを信じる者をひどい目にあわせたり、キリストの御名を冒涜していました。そのような者だからこそ、機嫌を損ねてはならないと、よい席を勧めたのかも知れません。しかし、そのような富んでいる者を教会において重んじるならば、誤った考えに基づいて判断したことになるわけですね。礼拝において崇められているイエス・キリストの名を冒涜するような者を、教会は重んじてはならないのです。私たちは、イエス・キリストを栄光の主と信じる神の民として、神さまの考えに基づいて判断しなければなりません。そして、それが私たちにとっての正しい判断であるのです。

3 最も尊い律法

 8節から11節までをお読みします。

 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。

 ここでは、人を分け隔てすることが、悪い考えに基づく判断であることを、律法に照らし合わせて、論証しています。8節に、「最も尊い律法」とありますが、元の言葉を直訳すると「王の律法」となります。5節に、「御自身を愛する者に約束された国」とありましたが、この「国」は「王国」のことです。神の王国の王の律法、それが、レビ記の19章18節に記されている「隣人を自分のように愛しなさい」という掟であるのです(マタイ22:39も参照)。ヤコブは、人を分け隔てする者は、この王の律法に違反していると言うのです。それは、裏を返せば、「隣人を自分のように愛するならば、私たちは、人を分け隔てすることはない」ということです。どうすれば、私たちは、差別を無くすことができるのでしょうか。それは、私たちが自分を愛するように、隣人を愛することによってであるのです。

 ヤコブは、10節と11節で、それぞれの戒めが一体的な関係にあることを教えています。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪とされるのです。律法は神さまの御意志の表れです。多くの律法があっても、その源は神さまの御心であるゆえに、一体的であるのです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。どちらの掟も、神さまの御心から出て来たものです。ですから、姦淫はしなくても、人殺しをすれば、私たちは律法の違反者になるのです。私たちは、姦淫も人殺しもしていなくとも、人を分け隔てするならば、「隣人を自分のように愛しなさい」という王の律法を背く、違犯者であるのです。

4 憐れみは裁きに打ち勝つ

 12節と13節をお読みします。

 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

 「自由をもたらす律法」については、1章25節にも記されていました。「自由をもたらす律法」とは意訳でありまして、直訳すると「自由の律法」となります。「自由の律法」とは、前にもお話したように、「キリストの律法」「キリストの軛」のことです(一コリント9:21、マタイ11:29参照)。私たちは、キリストの律法によっていずれは裁かれるのです。それは、言い換えれば、救われた者としてどのように生きたかが裁かれるということです。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、罪に定められ、滅ぼされるということはありません。けれども、救われた者として、どのように語り、ふるまったかが問われるのです。私たちはキリストの律法の中に生き、キリストの軛を負う者として、裁きの座に立つことになるのです(二コリント5:10参照)。「隣人を自分のように愛しなさい」という自由の律法・王の律法によって裁かれる者として、私たちは人を分け隔てしてはならないのです。

 13節に、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」と記されています。貧しい人を辱めることは、その人に憐れみをかけないということです。ここで思い起こすべきは、マタイによる福音書の25章に記されている、「栄光のイエスさまがすべての民族を裁く」という預言です。マタイによる福音書の25章31節から46節までをお読みします。新約の51ページです。

 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人は永遠の命にあずかるのである。」

 ここで、永遠の命にあずかる人と、永遠の罰を受ける人との違いは何でしょうか。それは、イエスさまの兄弟である小さな者に憐れみの業をしたか、しなかったということです。このことを念頭に置きつつ、ヤコブは、「憐れみは裁きに打ち勝つのです」と記しているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の423ページです。

 ヤコブが「憐れみは裁きに打ち勝つ」と記すとき、その「憐れみ」は、私たちが生まれながらに持っている憐れみではありません。私たちを憐れんでくださったイエス・キリストが、聖霊において私たちの内に実を結んでくださる憐れみです。私たちが、イエス・キリストに憐れんでいただいたことを、本当に知るときに、私たちも憐れみの業に生きることができるようになるのです(ルカ10章、「善いサマリア人のたとえ」参照)。「憐れみは裁きに打ち勝つ」。その憐れみとは、私たち一人一人に注がれている神さまの憐れみであります。さらには、神さまの憐れみに生きる、私たちの憐れみであるのです。

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