御言葉を行う人 2019年11月17日(日曜 朝の礼拝)

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御言葉を行う人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 1章19節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。ヤコブの手紙 1章19節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(10月20日)、私たちは、神さまの試練が私たちにとって誘惑ともなること。また、神さまは、真理の言葉によって、私たちを生んでくださり、新しい創造の初穂としてくださったことを御一緒に学びました。今朝の御言葉はその続きであります。

1 御言葉を受け入れなさい

 19節から21節までをお読みします。

 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 ヤコブは、「わたしの愛する兄弟たち」と呼びかけ、次のことをよくわきまえるようにと記します。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。ヤコブが「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く・・・しなさい」と記すのは、だれもが人の話を聞こうとせずに、自分の話をしたがるからです。ヤコブは、「だれでも、人の話を先ずよく聞いてから、よく考えて自分の意見を述べなさい」と言うのです。また、ヤコブは、「だれでも・・・怒るのに遅いようにしなさい」と記します。だれもが怒るのに早い、すぐに腹を立ててしまうことをヤコブは知っているのです。私たちも、人の話をよく聞かないで、自分の話をすぐに始めて、怒りを燃え上がらせてしまいます。しかし、先ず相手の話をよく聞いてから、よく考えて話すならば、怒りも穏やかなものとなるのです。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」とは、私たちが実践し、身につけるべき知恵であるのです。

 ヤコブは、「怒るのに遅いようにしなさい」と記す理由として、「人の怒りは神の義を実行しないからです」と記します。しばしば人の怒りは、正義と結びついています。人が怒るのは、正義に反すると思うからです。自分が不当に扱われたと感じるとき、人は怒ります。しかし、人の怒りは、神さまの義、神さまが求めておられる正しいことを実行することはできないのです。人は怒りながら、十戒を守ることはできないのですね。それゆえ、ヤコブはこう記すのです。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」。神さまが求めておられる正しいことを行うために、私たちは、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去ることが先ず求められます。そして、次に、心に植え付けられた御言葉を受け入れることが求められるのです。神さまが福音宣教者を用いて、心に植え付けてくださった御言葉を、私たちは信仰をもって、主体的に受け入れることが求められているのです。ヤコブは、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と記します。「この御言葉」とは、イエス・キリストの福音のことです。イエス・キリストの福音は、私たちの魂を救う力があるのです。あなたがたが聞いたイエス・キリストの福音には、あなたがたの魂を救う力がある。それゆえ、信仰をもって受け入れなさい、とヤコブは記すのです。

2 御言葉を行う人になりなさい

 22節から25節までをお読みします。

 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔をかがみに映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐ忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

 「御言葉を受け入れる」とは、「御言葉を行う人になる」ということです。なぜなら、御言葉は、神の言葉であり、私たちを従わせる権利と力、権威を持っているからです。「御言葉を受け入れている」と言いながら、御言葉を行わないならば、その人は、本当には御言葉を受け入れていないのです。私たちは往々にして、御言葉をただ聞くだけで終わってしまうのです。そして、それにもかかわらず、自分は御言葉を受け入れていると、自分を欺いてしまうのです。

 ヤコブは、御言葉を聞くだけで行わない人を、「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人」に譬えます。ここでのポイントは、「すぐに忘れてしまう」ということです。私たちはだれも自分の顔を、直接、見ることはできません。ですから、鏡に映して自分の顔を見ます(当時の鏡は金属板を磨き上げた物)。しかし、鏡の前から立ち去ると、自分の顔がどのようであったかをすぐ忘れてしまうのです(少なくともヤコブの時代はそうであった)。御言葉を聞いても行わない人は、そのような人であるとヤコブは言うのです。礼拝に出席して、御言葉を聞いても、家に帰ったら御言葉を聞く前と同じ生活をしている。そうであれば、その人は、自分の顔を鏡に映して眺める人に似ているのです。では、どうすれば、私たちは御言葉を忘れずにいることができるのでしょうか。ヤコブはこう記します。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。「自由をもたらす完全な律法」とは、イエス・キリストの福音のことです。使徒パウロも、イエス・キリストの福音を「キリストの律法」と呼んでいます(一コリント9:21「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが」参照)。イエスさま御自身、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と人々を招かれました(当時は成人になることを「律法の軛を負う」と言い表した)。私たちは、パウロの言い回しによれば、キリストの律法の中に生きる者とされています。また、イエスさまの言い回しによれば、イエスさまの軛を負い、イエスさまに学ぶ者とされているのです。そして、ヤコブの言い回しによれば、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、守る者であるのです。私たちは、イエス・キリストによって罪の奴隷状態から自由にされた者として、キリストの律法を一心に見つめ、守ることが求められているのです。ここで「守る」と訳されている言葉(カタメノー)は「傍らに留まる」とも訳せます。人は鏡に映った自分の姿を眺めても、そこを立ち去るとそれがどのようであったかをすぐ忘れてしまいます。けれども、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、その傍らに留まるならば、忘れることはないのです。そして、そのような人こそ、御言葉を行う人であるとヤコブは記すのです。

 ここでヤコブは、「自由をもたらす完全な律法」と「鏡」を対応するものとして記しています。鏡は私たちの生まれつきの顔を映し出しますが、自由をもたらす完全な律法(イエス・キリストの福音)は、キリストによって贖われ、神の子とされた私たちの姿を映し出します。私たちは、そのような者として御言葉を行うのです。つまり、私たちは自由な者とされた感謝と喜びから、また、父なる神さまへの愛から御言葉を行うのです。そして、私たちは、御言葉を行うからこそ、神さまの祝福を受けることができるのです。コヘレトの言葉の8章12節に、「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になる」と記されています。それと同じことが、御言葉を行う人にも言えるのです。御言葉を行う人は、その行いによって神さまからの祝福を受けることができるのです。

3 清く汚れのない信心

 26節と27節をお読みします。

 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 私たちが自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味であるとヤコブは記します。これは、心を刺す厳しい言葉ですね。「舌を制する」とは、19節の「話すのに遅く」を受けています。舌を制することができず、相手の話をよく聞く前から、話し出したり、怒りにまかせて罵詈雑言を浴びせるようでは、そのような人の信心は無きに等しいのです。また、「自分の心を欺く」とは、22節の「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」を受けています。御言葉を行わないで、聞くだけで終わっているならば、それは御言葉を本当には聞いていないのに聞いたと、自分を欺いているのです。そのような人の信心も空しいものであるのです。私たちは、教会に熱心に集い、礼拝をささげております。しかし、その私たちが、話すのに早く、怒るのに早く、御言葉を聞くだけで行わないならば、私たちがささげる礼拝は空しいものだとヤコブは言うのです。

 では、神の御前に清く汚れのない信心とは、どのようなものなのでしょうか。ヤコブはふたつのことを記しています。一つは、みなしごや、やもめが困っているときに世話をすることです。「みなしご」と「やもめ」は旧約聖書において、社会的弱者の代表であります。社会的弱者である、「みなしご」と「やもめ」が困っている時に世話をすることが私たちに求められているのです。それは、神さまがそのような御方であるからです。申命記の10章17節にこう記されています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」。このような神さまを御父と呼ぶ者として、私たちは社会の中で弱い立場にある人が困っているならば、世話をすべきであるのです。

 二つ目は、「世の汚れにそまらないように自分を守ること」です。これは一言で言えば、自分を聖別することです。神さまは、イスラエルの民に、「あなたたちは聖なるものとなりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と言われました(レビ19:2)。聖なる者となること。そのことが、イエス・キリストにあって神の民とされた私たちにも求められています。「世の汚れにそまらないように自分を守ること」。このヤコブの言葉は、世が神さまに敵対する、罪に汚れた領域であることを前提にしています。私たちは世に暮らしながら、世の汚れにそまらないように、自分を守らねばならないのです。そのために、私たちは、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、その傍らに留まり続けねばならないのです。すなわち、毎日、御言葉を読み、神さまに祈りをささげねばならないのです。週一回だけ、礼拝のときだけ聖書を読むのでは、世の汚れに染まらないように自分を守ることはできません。私たちは、毎日、御言葉に親しみ、祈りをささげて歩んでいきたいと願います。そのようにして、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、御言葉を行う幸いな人生を歩んでいきたいと願います。

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