試練と誘惑 2019年10月20日(日曜 朝の礼拝)

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試練と誘惑

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 1章9節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。ヤコブの手紙 1章9節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(9月15日)、私たちは、1章1節から8節より、疑いながらではなく、神の子としての信仰をもって願うことが大切であること。そのような一つの心で祈るとき、私たちは神の子としての安定した人生を歩むことができることを学びました。

 今朝は、その続きである1章9節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 貧しい兄弟と富んでいる者

 9節から11節までをお読みします。

 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

 ヤコブは、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と記します。ここで「貧しい」と訳されている言葉(タペイノス)は、「へりくだった」とも訳することができます。「貧しい兄弟」は「へりくだった兄弟」でもあるのです。箴言の3章34節に、「主は不遜な者をあざけり/へりくだった人に恵みを賜る」とあります。そのような神さまによる逆転を背景にして、ヤコブは「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と記すのです。へりくだって、神さまだけを頼りとする者を、神さまは終わりの日に高めてくださるのです。

 また、ヤコブは、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」と記します。ここで「富んでいる兄弟」とは記されていないことに注意したいと思います。つまり、「富んでいる者」は必ずしもキリスト者ではないということです。ヤコブは、キリスト者であるかないかに関わらず、富んでいる者に対して、語っているのです。「富んでいる者」とは、「高慢な者」、「富に仕える者」と言い換えることができます。その富んでいる者に、「自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは記すのです。これは、痛烈な皮肉でありますね。なぜなら、「富んでいる者は草花のように滅び去る」ことが誇りに思う理由であるからです。熱風によって草は枯れ、その花が散ってしまうように、富んでいる者も人生の旅路の半ばで消え失せてしまうのです。これは、神にではなく、富に仕える者の末路であります。私たちも神にではなく、富に仕えるならば、このような末路をたどることになるのです。誤解のないように申しますが、富そのものが悪いのではありません。神さまからの賜物として感謝して受けるならば、富は良いものです。けれども、神さまと切り離して、富そのものに依り頼むならば、それは富に仕える偶像崇拝になるのです。富んでいる者は、お金によって、自分の生活を確保できると考えやすいわけです(ルカ12章「愚かな金持ちのたとえ」参照)。しかし、ヤコブは、富に依り頼むならば、人生の旅路の半ばで消え失せてしまうと記すのです。

2 試練と誘惑

 12節から15節までをお読みします。

 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

 ヤコブが「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記すとき、その「試練」とは、父なる神さまが私たちを完全な者とするために与えられる鍛錬のことです(1:2~4参照)。神さまからの試練を耐え忍ぶ人は、神を愛する人として認められ、約束された命の冠をいただくことができるのです。ここで教えられることは、「試練を耐え忍ぶ人は神を愛する人だ」ということです。私たちは神さまを愛するゆえに、その神さまから与えられた試練を耐え忍ぶことができるのです。そして、そのような私たちに、神さまは、命の冠である永遠の命を与えてくださるのです。

 私たちが試練を耐え忍ぶために、ひとつ知っておくべきことがあります。それは、試練は誘惑にもなるということです。13節と14節に、「誘惑」という言葉がありますが、元の言葉は、12節の「試練」と訳されているのと同じ言葉(ペイラスモス)です。神さまから与えられた試練は、しばしば私たちにとって誘惑となるのです。しかし、ヤコブは、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってなりません」と記します。なぜなら、神さまは悪の誘惑を受けるような御方ではなく、御自分でも人を誘惑されないからです。試練と誘惑は、元の言葉は同じであると申しましたが、その目指しているところは全く逆であるわけです。試練は、それを乗り越えさせて、成長させることを目的としてます。他方、誘惑は、罪を犯させて、破滅させることを目的とするのです。このことは、エデンの園での出来事を思い起こすならば、分かりやすいと思います。旧約の3ページをお開きください。神さまは、はじめの人アダムに、一つの掟を与えられました。2章16節と17節にこう記されています。

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

 このような掟を神さまはアダムに与えられたのです。これは、神さまからアダムに与えられた試練(訓練)でありますね。神さまは、アダムが禁じられた木の実を食べないことによって、御自分に従い、命を得ることを望んで、このような掟を与えられたわけです。けれども、この神さまの試練がアダムと女にとっては誘惑となります。それは誘惑者として蛇が登場してくるからです。

 3章1節から6節までをお読みします。

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 この蛇の背後には、神の敵であり、堕落した天使である悪魔がいます。悪魔は神さまの御許しの中でしか活動できませんから、神さまは、蛇が活動することを許されたわけです。この蛇の活動も含めて、神さまからの試練であったのです。もちろん、神さまは、アダムが蛇に惑わされることなく、御自分の言葉に従うことを望んで、蛇の活動を許されたわけです(ヨブ1~2章参照)。けれども、蛇はそうではないわけですね。蛇はアダムに禁じられた木の実を食べさせて、堕落させようとするわけです。蛇はアダムではなく、その助け手である女に目をつけました。4節を見ると、蛇は女に神さまの言葉とまったく反対のことを言います。神さまは「食べると必ず死んでしまう」と言われました。しかし、蛇は「決して死ぬことはない」と言うのです。さらには、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言うのです。さて、女は、創り主である神さまの言葉と、野の生き物である蛇の言葉のどちらを信じたでしょうか。当然、造り主である神さまの言葉である思います。しかし、実際は、そうではありませんでした。なぜでしょうか。6節にこう記されています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」。女の心の中は、木の実を食べたい、そして、神さまのようになりたいという欲望で一杯であったのです。そして、その欲望に引かれて、唆されて、誘惑に陥ったのです。つまり、禁じられていた木の実を取って食べたのです。そして、アダムも女の口から蛇の言葉を聞いて、禁じられていた木の実を食べたのです。ここで注意したいことは、蛇は何も命令していないということです。女とアダムは、蛇に命令されたから禁じられた木の実を食べたのではありません。ヤコブが言っているように、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、罪を犯したのです。そして、その罪が死をもたらしたのです。神さまが警告されていたように、人は必ず死ぬ者となったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の421ページです。

 神さまは、私たちを試練に遭わせられますが、誘惑されるような御方ではありません。神さまは、私たちに罪を犯させて、破滅させる目的で試練に遭わせられることはないのです。ですから、神さまに誘惑されていると言って、罪の責任を神さまに負わせることは的外れであるのです。試練が誘惑となるのは、私たち自身の欲望に原因があるわけです。ですから、私たちは自分の欲望を、神さまの御言葉に従って制御しなければならないのです(ローマ7章参照)。

3 造られたものの初穂

 16節から18節までをお読みします。

 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 ヤコブは、「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の源である御父から来る」と記します。この点について、私たちも思い違いをしないようにしたいと思います。私たちに与えられている良い贈り物、完全な賜物はみな、御父からのいただきものであるのです。そうであれば、私たちは誰よりも御父に感謝をささげるべきであるのです。また、いただいたものを御父の御心に添って用いるべきであるのです。

 新共同訳は「光の源である御父」と翻訳していますが、元の言葉を直訳すると「もろもろの光の父」となります。新改訳2017は「光を造られた父」と翻訳しています。御父はもろもろの光を、太陽や月や星を造られた御方であるのです。光の源である御父には、太陽や月や星のように、移り変わりも動きによって生じる陰もありません。太陽は時間によって輝きに変化が生じます。また、月は欠けたり満ちたりします。星は季節によって移動します。しかし、神さまは変わることがないのです。変わることのない、光の源である神さまが、御心のままに、真理の言葉によって、私たちを生んでくださったのです。神さまは、御心のままに、真理の言葉によって、私たちを生んでくださり、私たちの御父となってくださったのです。「真理の言葉」とは、「イエス・キリストの福音」のことです。私たちは、福音が提供するイエス・キリストを信じて、神の子とされました。そのことの背後には、神さまの御意志があるわけです。天地創造の前に、キリストにあって、私たち一人一人を選んでくださったという、神さまの御意志があるのです(エフェソ1:4、5参照)。その神さまの御意志の実現として、私たちはイエス・キリストを信じ、神の子とされたのです(ヨハネ1:12参照)。

 18節の後半に、「それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」とあります。ここでの「造られたものの初穂」とは「新しく造られたものの最初の実り」ということです。イザヤ書の65章で、神さまは、新しい天と新しい地を創造すると言われています。イザヤ書の65章17節から19節までをお読みします。旧約の1168ページです。

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

 このような新しい創造の初穂として、御父は私たちをイエス・キリストの福音によって生んでくださったのです。新約聖書の最後の書物であるヨハネの黙示録21章に、新しい天と新しい地が天から下って来る幻が記されています。私たちは、その新しい天と新しい地の初穂として、今、この地上で、父なる神さまと主イエス・キリストを礼拝しているのです。初穂は、その畑の収穫の保証でもあります。ですから、私たちがささげている礼拝は、新しい天と新しい地が必ず到来することの保証でもあるのです(一コリント15:20「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」参照)。

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