権威ある新しい教え 2019年11月10日(日曜 朝の礼拝)
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権威ある新しい教え
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 1章21節~28節
聖書の言葉
1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。マルコによる福音書 1章21節~28節
メッセージ
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序
前回、私たちは、イエスさまが四人の漁師を弟子にするというお話を学びました。イエスさまは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、四人の漁師を御自分の弟子とされたのです。弟子とは、イエスさまの後ろに従う者であり、イエスさまの背中を見つめて歩む者であります。弟子に求められることは、先生であるイエスさまがなされることをよく見ることであります。イエスさまは、四人の弟子たちを、神の福音を宣べ伝える者としてすぐに遣わされたのではありません。イエスさまは、弟子たちを従えつつ、神の福音を宣べ伝えられるのです。そのようにして、弟子たちを人間をとる漁師として訓練されるのです。イエスさま御自身が、実は、人間をとる漁師であります。四人の漁師は、イエスさまによって、神の国へとすなどられたわけです。人間をとる漁師であるイエスさまに倣うことによって、四人も人間をとる漁師になるわけです。そのことを踏まえて、今朝は、1章21節から28節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 権威ある者として
イエスさまと弟子たちは、カファルナウムに行きました。カファルナウムは、ガリラヤの北西にある町で、イエスさまのガリラヤ宣教の拠点となった町であります。そのカファルナウムでの安息日の出来事が今朝の御言葉に記されています。イエスさまは、安息日に会堂に入って教え始められました。「安息日」とは、週の七日目、土曜日のことで、あらゆる労働が禁じられていました。十戒の第四戒に次のように記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるからいなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8~11)。この掟に従って、ユダヤ人は週の七日目、土曜日を安息日とし、あらゆる仕事をしないで、休んだのです。会堂に集い、神さまを礼拝することによって、神さまの安息にあずかったのです。安息日の礼拝では、律法と預言者の書が読まれ、その説き明かしがなされました(ルカ4:16~21参照)。説き明かしは、通常は、律法学者によって行われましたが、会堂長が許可したユダヤ人の成人男子ならば、誰でもすることができました。イエスさまは、会堂長の許可を得て、秩序正しく、教え始められたのです(使徒13:15参照)。
ここには、イエスさまの教えの内容については全く記されていません。イエスさまが神の福音を宣べ伝えたことは確かですが、その内容は記されていないのです。しかし、ここには、イエスさまの教えを聞いた人々の反応が記されています。22節です。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。律法学者は、神さまの掟について教える専門家であります。彼らは指導的な立場にあり、権威(人を従わせる権利と力)がありました。しかし、その権威の源は、聖書であり、先祖の言い伝えであったのです。このことは、私のような説教者のことを考えたらよく分かります。私はここで、皆さんを教えています。教えているということは権威があるということです。しかし、その権威の源は、聖書の御言葉にあるわけです。説教者が語る説教に権威があるのは、その説教が聖書の説き明かしであるからです。しかし、イエスさまは違ったわけです。イエスさまのお語りになる言葉そのものに権威があります。律法学者は、記された神の言葉に基づいて語るゆえに権威があります。しかし、イエスさまは、語る言葉そのものに権威があるのです。つまり、イエスさまが語る言葉そのものが神の言葉であったのです。
イエスさまが律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられた具体例を、私たちは、マタイによる福音書の5章に記されている山上の説教の中に見出すことができます。「あなたたちも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ここでイエスさまは、「しかし、わたしは言っておく」と権威ある者として教えているのですね。また、イエスさまは、「はっきり言っておく」と言って教えられました。「はっきり言っておく」と訳されている言葉は直訳すると、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。これもイエスさまが権威ある者として教えられる時の決まった言い回しです。イエスさまは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました(マルコ10:15)。そのようなイエスさまの権威ある教えを聞いて、人々はびっくり仰天したわけです。
2 汚れた霊にとりつかれた男
この人々の中に汚れた霊に取りつかれた男がいました。「汚れた霊」とは「悪霊」のことで、サタンに従う悪の諸霊のことです。私たちは、イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けられたこと。サタンの誘惑に勝利されたことを学びました。そのサタンの手下である悪霊が、男にとりついていたのです。そして、恐怖にふるえながらこう叫ぶのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。この言葉は、男の言葉と言うよりも、男に取りついている悪霊の言葉であります。「我々を滅ぼしに来たのか」とありますから、複数の悪霊が男にとりついていたようです。この悪霊の言葉の背後には、相手の名前や素性を知ることによって、相手を支配できるという考え方があります。例えば、わたしが町を歩いていて、後ろから声をかけられるとします。そのとき、わたしはその声を無視して歩いていくことができます。しかし、「村田さん」と声をかけられれば、止まらざるを得なくなります。さらに、「牧師の村田さん」と言われれば、なおさら止まらざるを得ないわけです。現代社会において個人情報の取り扱いが厳しくなっていますが、それは名前や素性を知られることによって、他人に支配されてしまうからなのですね。ですから、悪霊は、「ナザレのイエス」とイエスさまの名前を呼びまして、「正体は分かっている神の聖者だ」と言って抵抗したわけです。悪霊は、イエスさまの権威が「神の聖者」としての権威であることを見抜いているわけです。
この悪霊の言葉は、読めば読むほど面白い、真理を言い当てている言葉であります。悪霊は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と言いました。「かまわないでくれ」と訳されている言葉は直訳すると、「あなたと私たちと何の関係があるか」となります。確かに、神の独り子であり、新しいアダムであるイエスさまと悪霊との間には何の関係もありません。アダムの子孫であるすべての人間は、悪魔の支配下にありますが、最後のアダムであるイエスさまは、悪魔とは関係のない御方であるのです。また、悪霊は「我々を滅ぼしに来たのか」と言いました。これもそのとおりでありまして、イエスさまは悪魔を滅ぼして、人間を救うために来られたのです(一ヨハネ3:8参照)。イエスさまはそのために、神さまから遣わされた、神の聖者であるのです。「正体は分かっている神の聖者だ」。この悪霊の言葉は、信仰の告白ではありません。悪霊は恐怖からこのように叫んでいるだけであります。そのような悪霊に対して、イエスさまは、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになります。すると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。
3 権威ある新しい教え
このような光景を見て、人々は皆驚いて、こう論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。22節では、律法学者との比較で、イエスさまの権威が強調されていました。ここでは、汚れた霊を従わせるという点において、イエスさまの権威の新しさが強調されています。この「新しさ」は時間的な新しさではありません。質的な新しさ、人々がこれまで出会ったことのない新しさであります。イエスさまは、律法学者とは違う権威のある、悪霊をも従わせる新しい教えを語られたのです。そのようにして、神の国は、安息日のカファルナウムの会堂に、到来したのです。安息日とは、その昔、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚える日でありました(申命記5:14参照)。ユダヤ人は安息日に、神さまの創造の御業と贖いの御業を覚えて、礼拝をささげたのです。その安息日に、イエスさまは、男の人を悪霊の支配から解放されたのであります。安息日にふさわしい出来事が、イエスさまによって為されたのです。そして、そのことは、イエスさまの教えにおいて起こったのです。イエスさまが教えられる中で、汚れた霊は出て行ったのです。そのことは、私たちにおいても当てはまります。神さまによって造らたにもかかわらず、神さまを認めない世は、悪魔の支配下にあります(一ヨハネ5:19参照)。私たちもイエス・キリストを信じる前は、世を支配する悪の諸霊の支配下にいたのです(エフェソ2:1~3参照)。また、イエス・キリストを信じてからも、悪の諸霊が支配する世に住んでいる以上、その影響を受けるわけです。そのような私たちから、イエスさまはどのようにして、悪霊を追い出してくださるのでしょうか。それは、権威ある新しい教えによってであります。先程も申しましたように、説教者はその人自身に権威があるわけではありません。けれども、説教者が説き明かすのは、イエスさまの御言葉であり、権威ある新しい教えであるのです。イエスさまは、説教者を立て、その説教者の語る言葉を用いて、私たちから悪霊を追い出してくださったし、追い出してくださるのです。さらに、イエスさまは、私たちの内に聖霊を住まわせてくださったし、住まわせてくださるのです。神などいないと言っていた人間が、イエス・キリストを信じるようになる。さらには、イエス・キリストを信じて、神さまを父と呼び、賛美して生きるようになる。そのような私たちのただ中に、神の国は確かに到来しているのです。