聖書の言葉 1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコによる福音書 1章14節~15節 メッセージ 序 先程は、マルコによる福音書の1章9節から15節までをお読みしました。9節から13節までは、すでにお話していますので、今朝は、14節と15節から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。 1 ヨハネ、捕らえられる 14節に、「ヨハネが捕らえられた後(のち)」とあります。「ヨハネ」とは、荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネのことです。ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後(あと)から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と宣べ伝えました。そのヨハネの言葉どおり、ヨハネが捕らえられた後(あと)で、イエスさまは救い主としての公の活動を開始されるのです。マルコによる福音書は、ヨハネの時とイエスさまの時を区別して記しているのです(ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまの活動を重ねて記している)。 ところで、ヨハネは誰によって捕らえられたのでしょうか。また、どのような理由で捕らえられたのでしょうか。6章17節と18節にこう記されています。新約の72ページです。 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 ここでの「ヘロデ」は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスのことです(ルカ3:1参照、ヘロデ大王の第二子)。ヘロデは、自分の兄弟であるフィリポの妻と結婚したことを、ヨハネから責められて、ヨハネを捕らえ、牢につなぎました。ヨハネという人は、領主ヘロデに対しても、悪いことは悪いと言える勇敢で正しい人であったのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。 ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって、捕らえられたのですが、この背後には、神さまの御計画がありました。そのことは、「捕らえられた」と訳されている言葉(パラディドーミー)が「引き渡される」とも訳されることからも分かります。イエスさまは、9章31節で、弟子たちに、こう言われます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日目に復活する」。ここで「引き渡される」と訳されている言葉は、「捕らえられた」と訳されているのと同じ言葉です。洗礼者ヨハネは「引き渡される」ことにおいても、イエスさまの先駆者であったのです。 2 イエス、ガリラヤで宣教を開始する ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスさまはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられました。 イエスさまは、四十日間の試練の時を終えられて、荒れ野からガリラヤへと行かれました。ガリラヤとは、「周辺の地」という意味で、イスラエルの北の地方です。イエスさまは、荒れ野ではなく、また、神殿のある都エルサレムでもなく、ガリラヤ地方で、神の福音を宣べ伝えられました。神の福音とは、「神さまからの良き知らせ」という意味です。当時の社会において、「王の即位の知らせ」や「戦いの勝利の知らせ」などが「福音」と呼ばれていました。そのことを念頭において、今朝は、1章9節から読んだのです。9節から11節には、イエスさまが神さまによって聖霊を注がれて、メシアとされたことが記されていました。神さまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言によって、イエスさまが神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを宣言されたのです。そして、イエスさまは、40日間、荒れ野でサタンから誘惑を受けられ、勝利されたのです。そのイエスさまが、神の福音を宣べ伝えたのです。ですから、その神の福音には、イエスさまがメシアとされたこと(王の即位)と、イエスさまがサタンの誘惑に勝利されたこと(戦いの勝利)が含まれているのです。イエスさまは、神さまによってメシアとされ、サタンの試練に勝利された者として、神の福音を宣べ伝えたのです(イエスさま御自身が福音の内容)。 3 福音を信じなさい 15節に、イエスさまが宣べ伝えられた神の福音の要約が記されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。私たちは先ず、このイエスさまの宣言を心に刻みたいと思います。イエスさまは、今朝、私たちにも「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われるのです。「時は満ち」とありますが、これは「神さまの時が満ちた」ということです。神さまは、エデンの園で罪を犯したアダムと女に、蛇(悪魔)の頭を打ち砕く女の子孫が生まれることを約束されました(原福音)。そして、その女の子孫が、アブラハムの子孫から生まれ、さらにはユダ族から生まれ、さらにはダビデの家から生まれることを、神さまは長い歴史をかけて、イスラエルに告げて来られたのです。イエスさまは、その神さまの約束の時が満ちたと言われるのです。つまり、イエスさまは、ここで、御自分こそが聖書が預言してきたメシア、救い主であると宣言しておられるのです。 「神の国は近づいた」とありますが、「神の国」とは「神の王国」であり、「神の王的支配」のことです。国と訳される言葉(バシレイア)は、「王国」(kingdom)とも、「王的な支配」(kingship)とも訳されます。約束のメシアであるイエスさまにおいて、神の王国、神の王的な支配が近づいたのです。約束のメシアであるイエスさまにおいて、神の王的支配にあずかることができるほどに、神の国は近づいたのです。それゆえ、イエスさまは、「悔い改めなさい。そして、福音を信じなさい」と言われるのです。「悔い改める」とは、神さまに立ち帰ることです。神さまに立ち帰ること。そして、福音を信じることが、私たちにも命じられているのです。では、「福音」とは、具体的には、どのような「良き知らせ」なのでしょうか。それは、先程も申しましたように、約束のメシアであるイエスさまの出現によって、神の国が近づいたということです。もっと言えば、イエスさまにおいて、神の王国、神の王的な支配が到来したということです。マルコによる福音書は、この後、イエスさまが悪霊を追い出し、病を癒されたことを記します。それらは、イエスさまにおいて、神の王的な支配が到来していることのしるしであるのです(完成された神の国には悪霊はいないし、病もない)。イエスさまにおいて、神の王的な支配に、今、この地上であずかることができるのです。そして、その鍵となるのが、イエスさまを信じるという「信仰」であるのです。このことをはっきりと教えているのが、5章21節以下に記されている「イエスの服に触れた女」のお話です。5章25節から34節までをお読みします。新約の70ページです。 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 弟子たちが言っているように、群衆がイエスさまに押し迫っていました。ですから、この時、多くの人がイエスさまに触れていたはずです。しかし、出血の止まらない女が触れたとき、イエスさまは御自分の内から力が出て行ったことに気づかれたのです。なぜでしょうか。それは、この女が「イエスさまの服にでも触れればいやしていただける」という信仰をもって触れたからです。それゆえ、イエスさまは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。この女はイエスさまを信じる信仰によって、神の王的な支配にあずかったのです。イエスさまを信じる信仰こそ、神の王的な支配にあずかることができるか、どうかの鍵であるのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。 「福音を信じなさい」という言葉は、直訳すると、「福音の中で信じなさい」となります。岩波書店から出ている『新約聖書』は「福音の中で信ぜよ」と翻訳しています。それは、「福音において提供されているイエス・キリストを信じなさい」ということであります。私たちは成人洗礼を受けたとき、あるいは幼児洗礼を受けた人なら信仰告白をしたとき、六つの誓約をいたしました。その第二の誓約が「悔い改め」であり、第三の誓約が「福音の中で信じる」ことであると言えます。第二の誓約は次のとおりです。「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを、認めますか」。このことを認めて、神さまに立ち帰ること。それが悔い改めであります。この悔い改めに続く、第三の誓約は次のとおりです。「あなたは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みますか」。福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むこと。これが「福音の中でイエス・キリストを信じる」ということです。私たちは、悔い改めて、福音において提供されているイエス・キリストを信じることによって、神の王的な支配にあずかる者となりました。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、イエス・キリストにおいて、神の王的な支配が到来していることの証人であるのです。それゆえ、私たちも大胆に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えることができるのです。イエス・キリストにおいて神の国は確かに来ています。そのことを、イエス・キリストの名においてささげる礼拝において証しすることができるのです。 関連する説教を探す 2019年の日曜 朝の礼拝 『マルコによる福音書』
序
先程は、マルコによる福音書の1章9節から15節までをお読みしました。9節から13節までは、すでにお話していますので、今朝は、14節と15節から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 ヨハネ、捕らえられる
14節に、「ヨハネが捕らえられた後(のち)」とあります。「ヨハネ」とは、荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネのことです。ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後(あと)から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と宣べ伝えました。そのヨハネの言葉どおり、ヨハネが捕らえられた後(あと)で、イエスさまは救い主としての公の活動を開始されるのです。マルコによる福音書は、ヨハネの時とイエスさまの時を区別して記しているのです(ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまの活動を重ねて記している)。
ところで、ヨハネは誰によって捕らえられたのでしょうか。また、どのような理由で捕らえられたのでしょうか。6章17節と18節にこう記されています。新約の72ページです。
実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
ここでの「ヘロデ」は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスのことです(ルカ3:1参照、ヘロデ大王の第二子)。ヘロデは、自分の兄弟であるフィリポの妻と結婚したことを、ヨハネから責められて、ヨハネを捕らえ、牢につなぎました。ヨハネという人は、領主ヘロデに対しても、悪いことは悪いと言える勇敢で正しい人であったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。
ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって、捕らえられたのですが、この背後には、神さまの御計画がありました。そのことは、「捕らえられた」と訳されている言葉(パラディドーミー)が「引き渡される」とも訳されることからも分かります。イエスさまは、9章31節で、弟子たちに、こう言われます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日目に復活する」。ここで「引き渡される」と訳されている言葉は、「捕らえられた」と訳されているのと同じ言葉です。洗礼者ヨハネは「引き渡される」ことにおいても、イエスさまの先駆者であったのです。
2 イエス、ガリラヤで宣教を開始する
ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスさまはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられました。
イエスさまは、四十日間の試練の時を終えられて、荒れ野からガリラヤへと行かれました。ガリラヤとは、「周辺の地」という意味で、イスラエルの北の地方です。イエスさまは、荒れ野ではなく、また、神殿のある都エルサレムでもなく、ガリラヤ地方で、神の福音を宣べ伝えられました。神の福音とは、「神さまからの良き知らせ」という意味です。当時の社会において、「王の即位の知らせ」や「戦いの勝利の知らせ」などが「福音」と呼ばれていました。そのことを念頭において、今朝は、1章9節から読んだのです。9節から11節には、イエスさまが神さまによって聖霊を注がれて、メシアとされたことが記されていました。神さまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言によって、イエスさまが神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを宣言されたのです。そして、イエスさまは、40日間、荒れ野でサタンから誘惑を受けられ、勝利されたのです。そのイエスさまが、神の福音を宣べ伝えたのです。ですから、その神の福音には、イエスさまがメシアとされたこと(王の即位)と、イエスさまがサタンの誘惑に勝利されたこと(戦いの勝利)が含まれているのです。イエスさまは、神さまによってメシアとされ、サタンの試練に勝利された者として、神の福音を宣べ伝えたのです(イエスさま御自身が福音の内容)。
3 福音を信じなさい
15節に、イエスさまが宣べ伝えられた神の福音の要約が記されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。私たちは先ず、このイエスさまの宣言を心に刻みたいと思います。イエスさまは、今朝、私たちにも「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われるのです。「時は満ち」とありますが、これは「神さまの時が満ちた」ということです。神さまは、エデンの園で罪を犯したアダムと女に、蛇(悪魔)の頭を打ち砕く女の子孫が生まれることを約束されました(原福音)。そして、その女の子孫が、アブラハムの子孫から生まれ、さらにはユダ族から生まれ、さらにはダビデの家から生まれることを、神さまは長い歴史をかけて、イスラエルに告げて来られたのです。イエスさまは、その神さまの約束の時が満ちたと言われるのです。つまり、イエスさまは、ここで、御自分こそが聖書が預言してきたメシア、救い主であると宣言しておられるのです。
「神の国は近づいた」とありますが、「神の国」とは「神の王国」であり、「神の王的支配」のことです。国と訳される言葉(バシレイア)は、「王国」(kingdom)とも、「王的な支配」(kingship)とも訳されます。約束のメシアであるイエスさまにおいて、神の王国、神の王的な支配が近づいたのです。約束のメシアであるイエスさまにおいて、神の王的支配にあずかることができるほどに、神の国は近づいたのです。それゆえ、イエスさまは、「悔い改めなさい。そして、福音を信じなさい」と言われるのです。「悔い改める」とは、神さまに立ち帰ることです。神さまに立ち帰ること。そして、福音を信じることが、私たちにも命じられているのです。では、「福音」とは、具体的には、どのような「良き知らせ」なのでしょうか。それは、先程も申しましたように、約束のメシアであるイエスさまの出現によって、神の国が近づいたということです。もっと言えば、イエスさまにおいて、神の王国、神の王的な支配が到来したということです。マルコによる福音書は、この後、イエスさまが悪霊を追い出し、病を癒されたことを記します。それらは、イエスさまにおいて、神の王的な支配が到来していることのしるしであるのです(完成された神の国には悪霊はいないし、病もない)。イエスさまにおいて、神の王的な支配に、今、この地上であずかることができるのです。そして、その鍵となるのが、イエスさまを信じるという「信仰」であるのです。このことをはっきりと教えているのが、5章21節以下に記されている「イエスの服に触れた女」のお話です。5章25節から34節までをお読みします。新約の70ページです。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
弟子たちが言っているように、群衆がイエスさまに押し迫っていました。ですから、この時、多くの人がイエスさまに触れていたはずです。しかし、出血の止まらない女が触れたとき、イエスさまは御自分の内から力が出て行ったことに気づかれたのです。なぜでしょうか。それは、この女が「イエスさまの服にでも触れればいやしていただける」という信仰をもって触れたからです。それゆえ、イエスさまは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。この女はイエスさまを信じる信仰によって、神の王的な支配にあずかったのです。イエスさまを信じる信仰こそ、神の王的な支配にあずかることができるか、どうかの鍵であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。
「福音を信じなさい」という言葉は、直訳すると、「福音の中で信じなさい」となります。岩波書店から出ている『新約聖書』は「福音の中で信ぜよ」と翻訳しています。それは、「福音において提供されているイエス・キリストを信じなさい」ということであります。私たちは成人洗礼を受けたとき、あるいは幼児洗礼を受けた人なら信仰告白をしたとき、六つの誓約をいたしました。その第二の誓約が「悔い改め」であり、第三の誓約が「福音の中で信じる」ことであると言えます。第二の誓約は次のとおりです。「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを、認めますか」。このことを認めて、神さまに立ち帰ること。それが悔い改めであります。この悔い改めに続く、第三の誓約は次のとおりです。「あなたは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みますか」。福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼むこと。これが「福音の中でイエス・キリストを信じる」ということです。私たちは、悔い改めて、福音において提供されているイエス・キリストを信じることによって、神の王的な支配にあずかる者となりました。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、イエス・キリストにおいて、神の王的な支配が到来していることの証人であるのです。それゆえ、私たちも大胆に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えることができるのです。イエス・キリストにおいて神の国は確かに来ています。そのことを、イエス・キリストの名においてささげる礼拝において証しすることができるのです。