あなたはわたしの愛する子 2019年9月08日(日曜 朝の礼拝)
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マルコによる福音書 1章9節~11節
聖書の言葉
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。マルコによる福音書 1章9節~11節
メッセージ
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序
今朝は、マルコによる福音書の1章9節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 イエス、洗礼を受ける
前回、私たちは、洗礼者ヨハネの活動について学びました。ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4節)。また、ヨハネはこのようにも宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。このように、ヨハネは、自分の後から力ある方、聖霊で洗礼をお授けになる方が来られると宣べ伝えたのです。そして、そのころイエスさまが、ガリラヤのナザレからヨルダン川のヨハネのもとに来たのです(ヨハネ3:23によれば、ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた)。ガリラヤとは「周辺の地」という意味で、イスラエルの北の地方です。また、「ナザレ」という村は、旧約聖書に一度も出てこない小さな無名の村でした(聖書地図「6新約時代のパレスチナ」参照)。そのガリラヤのナザレからイエスさまは出て来られたのです。イエスさまはガリラヤ地方のナザレ村の出身であるのです。当時は、出身地と名前を結びつけて呼んでおりました。イエスさまでしたら、「ナザレのイエス」と呼んだわけです。ですから、ここでマルコは、イエスさまを正式に紹介しているわけです。
イエスさまは、洗礼者ヨハネのうわさを聞いて、ガリラヤのナザレから出て来られたのだと思います。イエスさまは、洗礼者ヨハネのことを主の道を整える使者であると理解されて、御自分の時が来たことを悟られたのだと思います。それで、ヨルダン川のヨハネのもとに来たのです。イエスさまは、そこで何をされたのか。イエスさまは、「わたしこそ、ヨハネが宣べ伝えていた力ある者である」と言われたのではありません。イエスさまは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのです。マルコは、イエスさまがヨハネに罪を告白したとは記していません。けれども、イエスさまはヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられたのです。
このことが教会において、大きな問題となったわけですね。なぜなら、教会の信仰によれば、イエスさまは罪のない御方、何一つ罪を犯したことがない御方であるからです。ヨハネの手紙一の3章5節にはこう記されています。「御子には罪がありません」。また、ヘブライ人への手紙4章15節にはこう記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。そもそも、十字架の贖いは、イエスさまが罪のない御方、罪を犯したことのない御方であることを前提としているわけです。しかし、イエスさまは、ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられたのです。
このことを正しく理解するための一つの手がかりがマタイによる福音書に記されています。それは、イエスさまがヨハネを説得して、洗礼を受けられたというものです。マタイによる福音書の3章13節から15節にこう記されています。新約の4ページです。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
マタイは、イエスさまがヨハネを説得して、洗礼を受けたのだと記しています。今朝の御言葉で、マルコは、イエスさまとヨハネのこのようなやり取りを記していませんが、私たちはこのようなやり取りがあったことを補って、イエスさまがヨハネから洗礼を受けられたことを理解したいと思います。イエスさまは、罪のない御方であるにも関わらず、私たち罪人の一人として、ヨハネから洗礼を受けられたのです。イエスさまは、そのことを神さまの御心に適った正しいことであると判断されたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。
2 天が裂けて
イエスさまが水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になりました。そして、イエスさまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたのです(新改訳2017「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」参照)。マルコによる福音書によれば、ここに記されている光景や声は、イエスさまだけが見て、また聞いたようです。イエスさまの個人的な体験として記されているようです。このような記述は、旧約聖書に出て来る預言者の召命物語を思い起こさせます。例えば、イザヤ書6章には、イザヤが預言者として召されたお話が記されています。また、エレミヤ書1章には、エレミヤが預言者として召されたお話が記されています。さらにエゼキエル書1章には、エゼキエルが預言者として召されたお話が記されています。特に、エゼキエル書では、天が開かれたことが記されています。実際に確認しましょう。旧約の1296ページ。エゼキエル書1章1節から3節までをお読みします。
第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第5年の、その月の5日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
このように、天が開かれるとは、神さまの顕現に接することであり、神さまの直接の介入を表しているのです。
また、「天が裂ける」ことは、イザヤが預言していたことでもありました。旧約の1165ページです。少し長いですが、イザヤ書63章7節から19節までをお読みします。
わたしは心を留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。そのとき、主の民は思い起こした。昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか/聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ/民の前で海を二つに分け/とこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが/彼らは荒れ野を行く馬のように/つまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように/主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き/輝く名声を得られた。どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
19節の後半に、「どうか、天を裂いて降ってください」とあります。このイスラエルの祈りに答えて、神さまは天を裂いて、聖霊をイエスさまのもとに降されたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の61ページです。
3 あなたはわたしの愛する子
イエスさまは、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのを御覧になりました(雷のようにではなく、やさしい仕方で)。これは、イエスさまが、神さまによって、直接、聖霊を注がれたということです。このようにして、神さまはイエスさまを、油注がれた王、メシアとされたのです。このことは、天からの声によって、宣言されていることでもあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この天からの声を理解する手がかりが、旧約聖書に三つあります。
一つは、創世記の22章2節の御言葉です。旧約の31ページです。創世記22章には、神さまがアブラハムを試されたお話が記されています。神さまはアブラハムにこう命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。ここから私たちは、「愛する子」が「独り子」でもあることが分かるのです。
二つ目は、詩編の第2編7節の御言葉です。旧約の835ページです。詩編第2編は、王の任職の詩編と言われています。その7節にこう記されているのです。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」。このように王に任職した者は、神の子と宣言されたのです。
三つ目は、イザヤ書の42章1節の御言葉です。旧約の1128頁です。イザヤ書には、主の僕の預言が四つ記されています。42章はその最初の預言です。そこにはこう記されています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す」。「わたしが選び、喜び迎える者」こそ、「わたしの心に適う者」であるのです(新改訳では「わたしはあなたを喜ぶ」と訳されている)。
このように、旧約聖書の御言葉を背景にして、天からの声を解釈すると、イエスさまが神さまの独り子であり、王であり、主の僕であることが分かるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声は、イエスさまが神の独り子であり、王であり、主の僕であることを私たちに教えているのです。イエスさまは、そのようなメシア、救い主であるのです。
先程、わたしは、イザヤ書には「主の僕の預言」が四つあると申しました。その中で最も有名なのは、イザヤ書53章であります。そこには、多くの人の罪を自ら担う主の僕の姿が記されています。そして、ここに、罪のないイエスさまが、洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられた理由があるのです。イエスさまは、多くの人の罪を担う主の僕として、ヨハネから洗礼を受けられたのです。
今朝の御言葉で、イエスさまに起こった出来事は、イエスさまの名によって洗礼を受けた私たちにも起こった出来事であると言えます。もちろん、私たちは天が裂けて、霊が鳩のように降って来たのを見たわけではありません。また、天からの声を直接聞いたわけでもありません。しかし、イエス・キリストの名によって洗礼を受けた私たちも聖霊を与えられ、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という御言葉を自分に対する御言葉として聞いたのです。洗礼を受けるとは、水と霊によって新しく生まれることです(ヨハネ3:3、5参照)。私たちが水と霊によって新しく生まれた時、神さまは、「あなたはわたしの愛する子だ。わたしはあなたを喜ぶ」と言ってくださったのです。ですから、私たちは、神さまを「アッバ、父よ」と呼んで祈ることができるのです。また、自分自身を喜んで生きることができるのです。