塩味の効いた快い言葉で 2026年7月26日(日曜 朝の礼拝)

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塩味の効いた快い言葉で

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 4章2節~6節

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4:2 たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。
4:4 また、私が語るべきしかたで語って、この秘義を明らかにすることができるように祈ってください。
4:5 時をよく用い、外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい。
4:6 いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか、分かるでしょう。コロサイの信徒への手紙 4章2節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『コロサイの信徒への手紙』の第4章2節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 2節をお読みします。

 たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい。

 このパウロの言葉は、私たちが祈りを忘れてしまう危険があることを前提にしています。私たちは、神様に祈ることを忘れて、神様に感謝せず、霊的に眠りこけてしまう恐れがあるのです。そのような私たちに、パウロは、「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい」と言うのです。「祈り」とはイエス・キリストの執り成しに基づく父なる神との交わり(対話)です。そのことは、私たちが祈りにおいて、「天の父なる神よ」と呼びかけ、感謝と願いを、「イエス・キリストの御名」によってささげていることからも分かります。イエス・キリストを信じている私たちは、今すでに、神の国に入っており、永遠の命を持っています。私たちは、イエス・キリストにあって神の命と恵みの支配に入れられており、イエス・キリストにあって父なる神との永遠の愛の交わりに生きる者とされています。そうであれば、私たちは父なる神に、たゆまず祈りをささげるべきであるのです。私たちが神様に思いを深めるとき、私たちは神様から与えられている恵みに感謝することができます。神様は、私たちを愛して御子イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架の死に引き渡されました。神様は、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちを罪の奴隷状態から贖い出して、自由な者としてくださいました。神様は、イエス・キリストにあって、私たちのすべての罪を赦し、御前に正しい者、神の子としてくださいました。神様は、イエス・キリストを通して、神の霊(聖霊)を与えてくださり、私たちが神様を愛し、御言葉に従うことができるようにしてくださいました。神様は、キリストの教会をたてて、礼拝を一緒にささげる、主にある兄弟姉妹を備えてくださいました。そして、神様は今日も、私たちを礼拝へと招いてくださったのです。このように、神様に思いを深めるならば、私たちはいただいている恵みを覚えて、感謝することができるのです。

 「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい」。このことは、主イエス・キリストが弟子たちに言われたことです。『ルカによる福音書』の第21章34節から36節までをお読みします。新約の150ページです。

 二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる。その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

 ここで注意したことは、いつも目を覚まして祈ることの目的が、「人の子の前に立つことができるように」と記されていることです。私たちがいつも目を覚まして、祈るべきであるのは、天から再び来られるイエス・キリストの御前に立つことができるようにするためであるのです。イエス様は、世の終わりの日に、天から再び来られます。しかし、その日がいつであるかは、誰も知りません。ただ父なる神だけが御存じであるのです(マルコ13:32参照)。ですから、イエス様は、御自分を「盗人」にたとえて、「人の子は思いがけない時に来る」と教えられたのです(ルカ12:39、40参照)。それゆえ、私たちは、自分が生きている間に、イエス・キリストが来ることを期待して、目を覚まして祈るべきであるのです。そうは言っても、2000年近く経っても来ていないのだから、私が生きている間は来ないのではないかという思うかも知れません。しかし、私たちが、死を通して、天におられるイエス・キリストのもとに行くことは確かなことです(二コリント5:8「願わくは、この体という住みかをから離れて、主のもとに住みたいと思っています」参照)。そして、私たちは、自分がいつ死を通して、天におられるイエス・キリストのもとに行くのかも分からないのです。そうであれば、私たちはやはり、「たゆまず祈り、感謝して、目を覚ましている」べきであるのです。私たちがたゆまず祈り、感謝して、目を覚ましていることは、主イエス・キリストにお会いするための備えであるのです。このことは主の日の礼拝にも言えます。私たちは主の日の礼拝をささげることによって、主イエス・キリストにお会いするための備えをしているのです。

 「たゆまず祈りなさい。感謝のうちに、目を覚まして祈りなさい」。このように言われても、「何を祈ればよいのか」と疑問に思うかも知れません。そのような私たちに、主イエス・キリストは、「主の祈り」を教えてくださいました。『ルカによる福音書』の第11章1節から4節までをお読みします。新約の126ページです。

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。』」

 私たちは、イエス様が教えてくださった主の祈りを規範として、たゆまず祈り、感謝し、目を覚ましていたいと願います(ウェストミンスター小教理問答の「問99 神は、わたしたちの祈りを指導するために、どのような規範を与えておられますか。答 神の御言葉全体が、祈りについてわたしたちを指導するのに有用です(特に詩編)。しかし、指導の特別な規範は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です」参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の364ページです。

 第4章3節と4節をお読みします。 

 同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。また、私が語るべきしかたで語って、この秘義を明らかにすることができるように祈ってください。

 パウロは、「同時に、私たちのためにも祈ってください」と記します。ここでの「私たち」は、パウロとその仲間たちのことです。具体的に言えば、この手紙の共同発信人であるテモテ(1:1)とコロサイの信徒たちに福音を宣べ伝えたエパフラス(1:9)たちのことです(コロサイ4:7~14参照)。パウロは、第1章3節と4節でこう記していました。「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対してあなたがたが抱いている愛について、聞いたからです」。このように、パウロたちは、コロサイの信徒たちのために祈っていたのです。そして、この手紙を結ぶに当たって、「私たちのためにも祈ってください」と言うのです。パウロたちは、コロサイの信徒たちの祈りを必要としていたのです。なぜなら、パウロが取り組んでいる福音宣教は、究極的に言うと神の業であるからです。それゆえ、パウロは、「神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができるように」祈ってほしいと言うのです。「御言葉のための門を開く」とは、イエス・キリストの福音を信じる人が起こされて、福音宣教が前進することを意味します。そして、そのためには、パウロたちがキリストの秘義を明らかに語ることが必要であるのです。神様は、キリストの秘義を語るパウロたちを用いて、福音宣教を前進させてくださるのです。では、キリストの秘義とは、何でしょうか。第1章26節と27節で、パウロは、こう記していました。「永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です」。神の秘義とは、キリストにあって、すべての人が神の栄光にあずかることができるというキリストの秘義です。ユダヤ人だけではなく、異邦人であっても、イエス・キリストを信じるならば、神の栄光にあずかることができる。なぜなら、十字架の血潮によって私たちを贖い、天に上げられた栄光の希望であるイエス・キリストは御言葉と聖霊において、私たちの内におられるからです。このキリストの秘義を、私たちも、使徒パウロから教えられたのです。

 パウロは、第4章3節後半で、「私は、このために牢につながれているのです」と記しています。パウロは、牢獄の中から、この手紙を記しています。そのパウロが願ったことは、「牢から出られるように祈ってほしい」ということではありませんでした。パウロは、「私が語るべきしかたで語って、この秘義を明かにすることができるように祈ってください」と言うのです。福音のために牢につながれていたパウロが願ったこと、それは、「福音の真理をいよいよ明かに語ることができますように」ということであったのです。

 このことは、説教者である私の願いでもあります。どうぞ、私の牧師としての働きのために、特に、御言葉の奉仕のために祈っていただきたいと心から願います。水曜日の祈祷会では、私の牧師としての働きのために祈ってくださいます。それは私にとっての支えであり、励ましとなっています。

 5節と6節をお読みします。

 時をよく用い、外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい。いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどのように答えるべきか、分かるでしょう。

 パウロは、「時をよく用いなさい」と言います。聖書によれば、時は神様が造られた被造物です。『創世記』の第1章1節に、「初めに神は天と地を創造された」とあるように、神様は天地万物を時と共に、時の中に造られたのです。また、神様は、すべてを時に適って麗しくお造りになりました(コヘレト3:11参照)。『コヘレトの言葉』の第3章1節にあるように、「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事には時がある」のです。知恵の教師であるコヘレトは、「黙すに時があり、語るに時がある」と記しています。同じことが、イエス・キリストの福音を伝える時においても言えるわけです。私たちがイエス・キリストの福音を伝えるにも、ふさわしい時があるのです(新改訳2017「機会を十分に活かし」参照)。

 また、パウロは、「外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい」と言います。ここでの「外部の人」とは教会の外の人のことです。パウロは、外部の人に対して、神を畏れる知恵をもって振る舞うようにと言うのです(新共同訳 箴1:7「主を畏れることは知恵の初め」参照)。

 さらに、パウロは、「いつも、塩味の効いた快い言葉で語りなさい」と言います。ここで、「いつも」と記されていることに注意したいと思います。イエス・キリストを伝えるときだけではなくて、私たちは、いつも、塩味の効いた快い言葉を語るように命じられているのです。「塩味の効いた快い言葉」とは、「イエス・キリストの弟子にふさわしい親切な言葉」のことです(マタイ5:13「あなたがたは地の塩である」、新改訳2017「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」参照)。私たちは、いつも、イエス・キリストの弟子にふさわしい親切な言葉を語るように命じられているのです。私たちが外部の人に対して、知恵をもって振る舞い、キリストの弟子にふさわしい親切な言葉を語るならば、外部の人の方から私たちに質問してきます。そのとき、私たちは相手の質問によく耳を傾けて、一人一人にふさわしい言葉で答えればよいのです。 

 この具体例を、私たちは『使徒言行録』の第16章に記されているフィリピの看守とパウロとのやりとりに見ることができます。新約の241ページです。第16章25節から31節までをお読みします。

 真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させ、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

 ここでパウロは、一方的に、頭ごなしに、「主イエスを信じなさい」と言ったのではありません。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」という看守の質問に答えて語ったのです。そして、この看守の質問を引き出したのは、パウロたちの神を畏れる振る舞いとキリストの弟子にふさわしい親切な言葉であったのです。

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