主にある者の人間関係 2026年6月28日(日曜 朝の礼拝)
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主にある者の人間関係
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- 村田寿和 牧師
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コロサイの信徒への手紙 3章18節~4章1節
聖書の言葉
3:18 妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません。
3:20 子どもたちよ、何事につけ両親に従いなさい。それが主に喜ばれることです。
3:21 父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです。
3:22 奴隷たち、何事につけ肉による主人に従いなさい。気に入られようとして、うわべだけで仕えるのではなく、主を畏れる者として真心を込めて従いなさい。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
3:24 あなたがたは、相続にあずかるという報いを主から受けることを知っています。主キリストに仕えなさい。
3:25 不正を働く者はその不正の報いを受けるでしょう。そこに分け隔てはありません。
4:1 主人たちよ、奴隷を正しく公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも天に主がおられるのです。コロサイの信徒への手紙 3章18節~4章1節
メッセージ
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月に一度、主の日の礼拝では、イエス・キリストの使徒パウロが記した『コロサイの信徒への手紙』を読み進めています。今朝は、第3章18節から第4章1節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝の御言葉で、パウロは、夫婦の関係について、親子の関係について、主人と奴隷の関係について教えています。ここで注意したいことは、パウロは弱い立場にある人に先に語りかけているということです。夫婦の関係でしたら、最初に妻に語りかけて、次に夫に語りかけるのです。親子の関係でしたら、最初に子供に語りかけ、次に父親に語りかけるのです。主人と奴隷の関係でしたら、最初に奴隷に語りかけ、次に主人に語りかけます。また、弱い立場にある人ほど、パウロは多くの言葉を語っています。パウロは、奴隷たちに多くの言葉を語っています。そのようなことを念頭において、読み進めていきます。
18節と19節をお読みします。
妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません。
パウロは、家の教会に集う既婚の女性たちに対して、「妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と言います。ここで「従いなさい」と訳されている言葉(ヒュポタッソー)は、「下に配置する」という意味です。夫に従うとは、夫の下に自分を置くことであるのです。そのように自発的に従うことが命じられているのです。パウロは、妻が夫に従う動機付け(モチベーション)を、「主にある者にふさわしく」と記します。「主イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けた者として、妻たちよ、夫に従いなさい」と言うのです。主イエス・キリストは、私たちの下に自らを置いて、私たちに仕えてくださいました。主イエスは、『マルコによる福音書』の第10章45節でこう言われました。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。仕えるために来た主イエス・キリストに結ばれている者として、妻たちよ、夫に従いなさい、とパウロは言うのです。
妻が夫に従うことは、紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界でも教えられていたことでした。ですから、パウロが教えていることは、当時の常識であると言えます。しかし、その動機付け(モチベーション)は違います。主イエスは、自らを私の下に置いて、私に仕えてくださった。その主イエスに結ばれている者として、夫に従うことが求められているのです。自らを低くして、私に仕えてくださった主イエスを思い起こしつつ、夫に従うことが求められているのです。
また、パウロは、家の教会に集う既婚の男性たちに対して、「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません」と言います。ここには「主にある者にふさわしく」という言葉はありませんが、そのことが前提になっています。パウロは、「主イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けた者として、夫たちよ、妻を愛しなさい」と言うのです。ここで「愛する」と訳されている言葉(アガパオ―)の名詞形は神の愛を表す「アガペー」です。イエス様は私たちを罪から贖う代価として、十字架の死を死んでくださいました。イエス様の私たちに対する愛は、十字架の死を自ら死んでくださったことによって示されたのです。その主イエス・キリストの愛を知っている者として、夫たちよ、妻を愛しなさい、とパウロは言うのです(エフェソ6:5参照)。夫は妻を愛するのであって、つらく当たってはならないのです。
ここで、パウロが語りかけているのは、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた夫婦です。夫婦で洗礼を受けてキリスト者となった。では、夫婦の関係はどのように変わるのか。パウロは、「妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはなりません」と言うのです。ここで注意したいことは、妻と夫との間に、主イエス・キリストがおられるということです。妻は、主にある者にふさわしく、夫に従う。夫は、主にある者にふさわしく、妻を愛する。そのように、主にあって、夫婦の絆が強められるのです。
20節と21節をお読みします。
子どもたちよ、何事につけ両親に従いなさい。それが主に喜ばれることです。父親たち、子供たちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです。
パウロは、家の教会に集う子供たちに対して、「子どもたちよ、何事につけ両親に従いなさい。それが主に喜ばれることです」と言います。イエス・キリストを信じた両親に連れられて子供たちも礼拝に出席していたのです。この子供たちも、主イエス・キリストに結ばれる洗礼、幼児洗礼を受けていたと思われます。ここで「従いなさい」と訳されている言葉(ヒュパクオー)は、聞く(アコウオー)から派生した動詞です。ですから、「聞き従う」と訳した方がよいと思います。「妻たちよ、夫に従いなさい」と「子供たちよ、両親に従いなさい」では、元の言葉では違う言葉が用いられているのです。「夫に従いなさい」は、自らを夫の下に置いて、自発的に従うということでした。夫と妻は対等なパートナーですが、家庭の秩序を保つために、妻は夫に従いなさいという感じですね。しかし、子供の場合は、両親の権威の下に生れてくるわけです。それで、パウロは、「子供たちよ、何事につけ両親に聞き従いなさい」と言うのです。ここでも、パウロは主に結ばれた者としての動機付け(モチベーション)を語ります。主イエス・キリストに喜んでいただくために、子供たちは、両親に聞き従うべきであるのです。なぜなら、両親に権威を与えているのは、主イエス・キリストであるからです(第5戒「あなたの父と母を敬え」参照)。子供たちは、両親に聞き従うことによって、主イエス・キリストに喜んでいただくことができるのです。また、両親に権威を与えているのが、主イエス・キリストであるならば、「何事につけ」の内容が主の御心に適った事であることが分かるのです。主にあって親の権威は相対化されるのです(カルヴァン著『信仰の手引き』渡辺信夫訳、26、27頁参照)。
また、パウロは、両親に、特に父親にこう言います。「父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです」。ここでパウロが「父親たち」に呼びかけているのは、父親が子供の教育の責任を負っているからです。子供に善と悪の判断を教えるのは父親の役割であるのです。それでパウロは、「父親たち、子どもたちをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです」と記すのです。このところを岩波書店から出ている『新約聖書』は次のように訳しています。「父親たちよ、あなたがたの子供たちに〔ああしろ、こうしろと〕口やかましく言い立ててはいけない、彼らが意気消沈しないようにするために」。父親は、子供たちがいじけないように、意気消沈しないように育てなくてはならないのです。それは言い換えれば、子供を一人の人間として重んじて育てるということです。主から授かった子供として、主に喜ばれる者として育てることが両親に求められているのです。
22節から25節までをお読みします。
奴隷たち、何事につけ肉による主人に従いなさい。気に入られようとして、うわべだけで仕えるのではなく、主を畏れる者として真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、相続にあずかるという報いを主から受けることを知っています。主キリストに仕えなさい。不正を働く者はその不正の報いを受けるでしょう。そこに分け隔てはありません。
パウロは、家の教会に集う奴隷たちに対して、「奴隷たち、何事につけ肉による主人に従いなさい」と言います。ここで「従いなさい」と訳されている言葉(ヒュパクオー)で「聞き従う」とも訳せる言葉です(「両親に従いなさい」と同じ言葉)。「肉による主人」とは、まことの主人であるイエス・キリストと区別するためのものです。パウロは、第3章10節と11節でこう記していました。「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。そこには、もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです」。奴隷であっても、自由人であっても、真の知識に達する道は同じ、イエス・キリストであるのです。奴隷も、自由人も、イエス・キリストを信じて、まことの神を知る知識に到達したのです。奴隷の内にも、自由人の内にも、キリストはおられるのです。ですから、奴隷も、自由人も、イエス・キリストを長兄とし、神様を父とする神の家族、主にある兄弟姉妹であるのです(奴隷が奴隷ではない自分でいられる居場所)。では、パウロは、奴隷たちに、「肉による主人に従う必要はない」と語ったかと言えば、そうではないのです。むしろ、「主を畏れる者として真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」と言うのです。それは、肉の主人の主人がイエス・キリストであるからです。天地万物を治めておられる主イエス・キリストは、肉の主人をも治めておられる。それゆえ、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた奴隷は、主イエス・キリストに対してするように、真心を込めて肉の主人に従うことが命じられているのです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた奴隷にとって、肉の主人に仕えることが、天におられる主イエス・キリストに仕えることであるのです。私たちが、世界のあらゆる領域に主イエス・キリストの支配を認めて、それぞれの働きに励むならば、私たちはそれぞれの働きを通して、主イエス・キリストに仕えることができるのです(創立20周年宣言「神中心的・礼拝的人生観」、マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)。
紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界に生きる奴隷は、財産を持つことができませんでした。しかし、主イエス・キリストは、ご自分に仕える奴隷たちに、その報いとして、天の御国を受け継がせてくださいます。「あなたがたは、天の御国を受け継ぐという報いを主キリストから受けることを知っているのだから、主キリストに仕えなさい。主キリストに仕えるように、肉の主人に仕えなさい」とパウロは言うのです(新共同訳参照)。また、パウロは、肉の主人に不正を働くことは、天の主人であるイエス・キリストに不正を働くことでもあると言います。神の御子イエス・キリストは人を偏り見るような御方ではありません(申命10:17「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく」参照)。弱い立場にいる奴隷であっても、不正を働くならば、その報い(罰)を受けることになるのです。
第4章1節をお読みします。
主人たちよ、奴隷を正しく公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも天に主がおられるのです。
パウロは、家の教会に集う奴隷を所有する人たちに対して、「主人たちよ、奴隷を正しく公平に扱いなさい」と言います。紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界において、奴隷は「生きた所有物」「生きた道具」と見なされていました。奴隷は人間扱いされていなかったのです。しかし、パウロは、奴隷を神のかたちに似せて造られた人間として、正しく公平に扱いなさいと言うのです(創世1:27参照)。また、その動機付けとして、「知ってのとおり、あなたがたにも天に主がおられるのです」と言うのです。「天に主がおられる」の「主」は、「主人たち」と訳されているのと同じ言葉(キュリオス)です。主人たちにも天に主人がいる。それは奴隷たちの主人でもある主イエス・キリストであるのです。パウロは、奴隷たちに、「不正を働く者はその不正の報いを受けるでしょう。そこに分け隔てはありません」と言いましたが、このことは、主人たちにも当てはまります。主人たちが、奴隷を不正に扱うならば、天の主人イエス・キリストは、主人たちの不正な行いに対して、報い(罰)をお与えになるのです。
今朝の説教題を「主にある者の人間関係」とつけました。主にある妻と主にある夫の間には、主イエス・キリストがおられます。そのような信仰が妻が夫に従うことの動機付けとなり、夫が妻を愛することの動機付けとなります。また、主にある子供たちと主にある両親の間にも、主イエス・キリストがおられます。そのような信仰が子供が両親に従うことの動機付けとなり、父親が子供をいらだたせないことの動機付けとなります。さらに、主にある奴隷と主にある主人の間にも、主イエス・キリストがおられます。奴隷の上にも、主人の上にも、天の主人イエス・キリストがおられるのです。そのような信仰が奴隷が肉の主人に真心を込めて従うことの動機付けとなり、主人が奴隷を正しく公平に扱うことの動機付けとなるのです。
主イエス・キリストに結ばれているという信仰は、私たちにとってのあらゆることの動機付けとなります。私たちは、主にある者としてふさわしく、主に喜ばれるために、主から受ける報いに期待して、歩んでいきたいと願います。