私は愛する人のもの 2026年5月20日(水曜 聖書と祈りの会)

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私は愛する人のもの

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 6章1節~3節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 あなたの愛する人はどこへ行ったのですか。/女たちの中で誰よりも美しい人よ。/あなたの愛する人はどこに向かったのですか。/私たちも一緒に探しましょう。
6:2 私の愛する人は自分の園へ/香料の花壇に下りて行きました。/園で群れを飼い、百合を集めるために。
6:3 私は愛する人のもの。/私の愛する人は私のもの。/あの方は百合の中で群れを飼っています。雅歌 6章1節~3節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『雅歌』の第6章1節から3節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 以前にも申しましたが、第5章2節から第6章3節までは一つの大きな纏まりをなしています。ここには、おとめに背を向けて、去って行った若者を、おとめがおとめたちの協力を得て探し出すことが記されています。前回は、第5章9節から16節までを学びましたが、そこには、「あなたの愛する人はほかの人より/どこがまさっているのですか」というおとめたちの質問を受けて、のろけ話をするおとめの言葉が記されていました。そのようなおとめの言葉を受けて、おとめたちはこう言います。第6章1節をお読みします。

 あなたの愛する人はどこへ行ったのですか。女たちの中で誰よりも美しい人よ。あなたの愛する人はどこに向かったのですか。私たちも一緒に探しましょう。

 このおとめたちの言葉は矛盾を孕んでいます。おとめたちは、おとめに「あなたの愛する人はどこへ行ったのですか」「あなたの愛する人はどこに向かったのですか」と問います。おとめたちは、若者を探しているおとめに対して、「どこへ行ったのですか」と問うのです。そのように問いながら、「私たちも一緒に探しましょう」と言うのです。

 2節と3節をお読みします。

 私の愛する人は自分の園へ/香料の花壇に下りて行きました。園で群れを飼い、百合を集めるために。私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの。あの方は百合の中で群れを飼っています。

 驚くべきことに、おとめは若者がどこへ行ったかを答えます。これまでの大騒ぎは何だったのかと思うのですが、おとめは、「私の愛する人は自分の園へ/香料の花壇に下りて行きました」と答えるのです。第5章1節で、花婿は花嫁のことを「自分の園」と呼んでいました(「私の妹、花嫁よ/自分の園に私は来ました」参照)。花嫁であるおとめが園にたとえられていたのです。しかし、第6章2節の「自分の園」は、文字通りの若者の園であると思います。若者の園は、逢い引きの場所であったのでしょう。おとめは、逢い引きの場所を、美しいイメージで、「園」とか「香料の花壇」にたとえるのです。「園で群れを飼い、百合を集めるために」とは、「若者がおとめと戯れるために」という意味です(創世26:8「イサクが妻リベカと戯れていた」参照)。おとめは、「私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの」と言います。ここには、愛する二人が互いを所有していることが記されています。愛する二人は、性的な関係において、互いに独占的な権利を持っているのです。このことは、使徒パウロが、『コリントの信徒への手紙一』の第7章で教えていることでもあります。新約の301ページです。第7章1節から7節までをお読みします。

 さて、そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れないほうがよい。しかし、淫らな行いを避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれに自分の夫を持ちなさい。夫は妻に対して、同様に妻も夫に対してその義務を果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同様に、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っています。互いに相手を拒んではいけません。ただし、合意の上で、祈りに専心するためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないとも限らないからです。もっとも、私は譲歩のつもりで言うのであって、命令するつもりはありません。私としては、皆が私のようであってほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います。

 ここで注目したいのは、4節です。「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同様に、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っています」。このようにパウロが記したのは、「妻は夫のものであり、夫は妻のもの」であるからです。おとめの言葉で言えば、「私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの」であるからです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1041ページです。

 3節の3行目に「あの方は百合の中で群れを飼っています」とあります。これも文字通りの意味ではなく、若者とおとめとの戯れを意味しているようです。おとめは若者を見つけただけではなく、若者と戯れているのです。

 「私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの」というおとめの言葉は、キリストの花嫁である教会の言葉として読むことができます。「私たちは愛する主イエス・キリストのもの。私たちの愛する主イエス・キリストは私たちのもの」であるのです。その場合、私たちに求められるのは、霊的な貞潔です。聖書は、偶像礼拝を姦淫の罪にたとえていますが、私たちは、キリストの花嫁として、キリストだけを礼拝することが求められているのです。より正確に言えば、父と子と聖霊なる三位一体の神だけを礼拝することが求められているのです。

 「私たちは愛する主イエス・キリストのもの。私たちの愛する主イエス・キリストは私たちのもの」。このような関係は、主イエス・キリストが恵みによって造り出してくださった関係であります。『ハイデルベルク信仰問答』の問1は、次のように告白しています。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主/イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって/わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ/髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び/またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

 イエス・キリストは、御自分の尊い血をもって、私たちのすべての罪を償い、悪魔のあらゆる力から私たちを解放してくださいました。そのようにして、イエス・キリストは、私たちを御自分のものとしてくださったのです。私たちのただ一つの慰めは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。この慰めは、私たちの花婿であるイエス・キリストの力強い愛に基づているのです。

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