愛する人が戸を叩いている 2026年4月22日(水曜 聖書と祈りの会)

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愛する人が戸を叩いている

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 5章2節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:2 私は眠っていましたが/心は覚めていました。/ほら、聞いてごらん。愛する人が戸を叩いている。/「私の妹、恋人よ、開けてください。/私の鳩、汚れなき人よ。/私の頭は露で/髪は夜露の滴で濡れてしまった。」
5:3 私は衣を脱いでしまいました。/どうして、また着られましょうか。/足を洗ってしまいました。/どうして、また汚せましょうか。
5:4 愛する人は隙間から手を差し伸べました。/私の胸はその方のゆえに高鳴ります。
5:5 私は愛する人に戸を開けようと/起き上がりました。/私の両手から没薬が滴り/没薬が私の指から/かんぬきの取っ手の上へこぼれ落ちます。
5:6 私は愛する人に扉を開きました。/けれども、愛する人は背を向けて/去ってしまった後でした。/あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。/私は捜し求めましたが/あの方は見つかりません。/私は呼び求めましたが/あの方は答えてはくれません。
5:7 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/彼らは私を打ち、傷を負わせました。/私からかぶり物を剥ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。
5:8 エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。/私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。雅歌 5章2節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は『雅歌』の第5章2節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第3章6節から第5章1節までが一つの大きな纏まりであったように、第5章2節から第6章3節までは一つの大きな纏まりです。しかも注意したいことは、この2つの大きな纏まりは時間的に続いていないということです。第3章6節から第5章1節までには、婚礼の日のことが記されていました。若者とおとめは夫婦となって寝床を共にしたのです。しかし、第5章2節以下は、まだ結婚していない若者とおとめのことが記されています。第5章2節から第6章3節までは、一つの大きな纏まりであると申しましたが、そこには、おとめに背を向けて去ってしまった若者をおとめが見いだすことが記されています。今朝は、第5章2節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。ちなみに、2節から8節まではおとめの言葉です。

 2節を読みます。

 私は眠っていましたが/心は覚めていました。ほら、聞いてごらん。愛する人が戸を叩いている。「私の妹、恋人よ、開けてください。私の鳩、汚れなき人よ。私の頭は露で/髪は夜露の滴で濡れてしまった。」

 「私は眠っていましたが、心は覚めていました」という言葉は、これから記されていることが実際に起ったことでなく、おとめの夢であることを暗示しています。あるいは、おとめが浅い眠りにあったことを表しています。おとめは、ゆめうつつの状態にあったのです(「ゆめうつつ」とは「夢とも現実とも区別がつかない状態」のこと)。そのおとめのもとに、愛する人が訪ねてきました。愛する人は、戸を叩いて、こう言います。「私の妹、恋人よ、開けてください。私の鳩、汚れなき人よ。私の頭は露で/髪は夜露の滴で濡れてしまった」。おとめが眠っていた家には、他の家族もいたはずです。その家の戸を叩いて、愛の言葉をささやき、中に入ろうとすることは、現実には考えにくいことです。ですから、私は、これはおとめの空想であると思います。『雅歌』は知恵文学ですから、そこには空想も含まれているのです。

 3節から6節までを読みます。

 私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られましょうか。足を洗ってしまいました。どうして、また汚せましょうか。愛する人は隙間から手を差し伸べました。私の胸はその方のゆえに高鳴ります。私は愛する人に戸を開けようと/起き上がりました。私の両手から没薬が滴り/没薬が私の指から/かんぬきの取っ手の上へこぼれ落ちます。私は愛する人に扉を開きました。けれども、愛する人は背を向けて/去ってしまった後でした。あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。私は捜し求めましたが/あの方は見つかりません。私は呼び求めましたが/あの方は答えてはくれません。

 愛する人が戸を叩いて、「開けてください」と願うのですが、おとめは、いろいろな理由をつけて、開けようとしません。ここにはおとめの恥じらいが記されているのかも知れません。あるいは、愛する人を焦らしているのかも知れません。すると、愛する人は扉の隙間から手を差し伸べました。この隙間は、訪ねて来た人が誰であるかを見るための隙間であるようです。その隙間に手を差し伸べて、愛する人はおとめを求めるのです。このような光景は、客観的に見ると恐ろしい光景ですが、それが愛する人であれば、話は別です。知らないおじさんが隙間から手を差し伸ばしてきたのなら、おとめは恐怖を覚えたはずです。しかし、愛する人が隙間から手を差し伸べるのを見て、おとめの胸は高鳴るのです。おとめは愛する人に戸を開けようと起き上がりました。「私の両手から没薬が滴り、没薬が私の指からかんぬきの取っ手の上へこぼれ落ちます」とありますから、おとめは香料をつけて、愛する人に会う準備をしていたようです。おとめがなかなか扉を開けなかったのも、愛する人に会う準備をしていたためかも知れません。ともかく、おとめは愛する人に扉を開くのです。けれども、愛する人は背を向けて、去ってしまった後でした。「あの方の言葉で、私は気が遠くなりました」とありますが、愛する人は、背を向けて去る前に、言葉を残していったようです。愛する人は、おとめに何と言って去って行ったのでしょうか。記されていないので分かりませんが、それを知る手がかりが、8節にあると思います。8節で、おとめはエルサレムの娘たちにこう言います。「エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると」。このおとめの言葉から推測すると、愛する人は、戸を開けてくれないおとめに対して、「あなたは私のことを本当に愛しているのか」と言ったと思われます。「あなたは私のことを本当に愛しているのか」。その若者の言葉を聞いて、おとめは気が遠くなったのです。そして、愛する人を捜しに行くのです。街頭のない夜の町を、おとめが一人で出歩くことは考えにくいのですが、おとめは愛する人を捜し求めます。しかし、愛する人は見つかりません。呼び求めても答えはないのです。

 7節を読みます。

 町を巡る夜警たちが私を見つけました。彼らは私を打ち、傷を負わせました。私からかぶり物を剥ぎ取ったのは/城壁の見張りたちでした。

 夜警たちは、おとめのことを娼婦であると勘違いしたようです(箴7章参照)。それで、夜警たちはおとめのかざり物を剥ぎ取って、乱暴するのです。夜中におとめが一人で外出することには、このような危険が伴うのです。しかし、おそらく、このこともおとめの空想なのだと思います。

 8節を読みます。

 エルサレムの娘たちよ/私に誓ってください。私の愛する人を見つけたら/私が愛に病んでいる、と伝えると。

 おとめは、エルサレムの娘たちに呼びかけます。それは、助けを求める言葉でもなく、夜警たちから受けた被害を訴える言葉でもありません。おとめは、「私の愛する人を見つけたら、私が愛に病んでいると伝えると誓ってほしい」と言うのです。おとめは、愛する人を焦らして、なかなか戸を開けなかったことを後悔しているのです。

 今朝の御言葉は、私たちに、『ヨハネの黙示録』の第3章20節の御言葉を思い起こさせます。新約の444ページです。そこで、イエス様はこう言われます。

 「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」

 イエス様は、無言で扉を叩いているのではなくて、言葉を発しながら扉を叩いていたことが分かります。今朝の御言葉で、おとめの愛する人は、「私の妹、恋人よ、開けてください。私の鳩、汚れなき人よ」と言いながら、戸を叩いていました。イエス様も私たちに対する愛の言葉を語りながら、私たちの心の扉を叩いているのです。イエス様は、「私の目にはあなたは高価で尊い。私は、命を捨てるほどに、あなたを愛している」と言いながら、私たちの心の扉を叩き続けているのです。若者は背を向けて、去ってしまいました。しかし、イエス様は、私たちが扉を開けるまで、忍耐してくださいます。なぜなら、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」からです(一コリント13:7)。愛の特質の最たるものは、忍耐強いことであるのです(一コリント13:4)。 

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