十字架の王イエス 2026年3月29日(日曜 朝の礼拝)
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十字架の王イエス
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 19章16節~27節
聖書の言葉
19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。こうして、人々はイエスを引き取った。
19:17 イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人を、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちはイエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう」と話し合った。それは、/「彼らは私の服を分け合い/衣をめぐってくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。ヨハネによる福音書 19章16節~27節
メッセージ
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序、受難週を迎えて
今週は、教会の暦によると、イエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週です。イエス・キリストは、今からおよそ2000年前の今週の金曜日に十字架につけられ、死んで、葬られました。今朝は、そのことを『ヨハネによる福音書』から教えられたいと願います。
1、自ら十字架を背負うイエス
16節に、「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。こうして、人々はイエスを引き取った」とあります。「ピラト」とは、ローマ帝国の第5代ユダヤ総督であるポンテオ・ピラトのことです。ピラトはローマ帝国の総督ですが、ユダヤ人の指導者たちからイエス様を裁くように求められ、裁きを行いました。ピラトは、イエス様に何の罪をも見いだせませんでした。それで、ピラトはイエス様を釈放しようとするのですが、ユダヤ人たちから、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と言われて、十字架につけるためにイエス様を人々に引き渡したのです(ヨハネ19:12)。こうして、人々はイエス様を引き取ったのです。「人々」とは誰のことでしょうか?それはイエス様を訴えたユダヤ人たちであり、十字架刑を実行するローマ兵たちのことです。ユダヤ人と異邦人(ローマ人)からなるすべての人々のことがここで言われているのです。
イエス様は自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれました。十字架刑に処せられる者は、十字架の横木を処刑場まで背負って行ったと言われます。イエス様も自ら十字架の横木を背負って、処刑場であるゴルゴタへと向かわれました。ここで注意したいことは、イエス様が自ら十字架を背負われたことです。イエス様は積極的に、主体的に十字架の死を遂げようとするのです。イエス様は、十字架の死など死にたくないと思いながら十字架をいやいや背負われたのではありません。イエス様は、十字架の死が父なる神の御心であることを信じて、自ら十字架を背負われたのです。第3章に、イエス様とニコデモとの対話が記されていますが、その14節と15節で、イエス様はこう言われていました。新約の164ページです。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
「人の子」とはイエス様御自身のことです。イエス様は、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、御自分が十字架に上げられることは神の御計画であると言われます。そして、その目的は、神様を信じる者が御自分によって永遠の命を得るためであると言うのです。「永遠の命」とは、すべての罪を赦されて、神様との永遠の愛の交わりに生きるようになることです。イエス様は、御自分が十字架の死を遂げることが神の御計画であり、その目的が御自分を信じる者たちが、永遠の命を持つことであると知っていたのです。そのために、イエス様は、自ら進んで、十字架を背負われて、ゴルゴタへと向かわれるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の202ページです。
2、十字架の王イエス
されこうべの場所に着くと、彼らはイエス様を十字架につけました。ここでも「彼ら」と曖昧に記されています。「十字架につけた」と書いてありますが、これは十字架に磔にしたということです。十字架につけられる者は、裸同然にされ、手首に釘を打ち込まれて、磔にされるのです。ここには記されていませんが、イエス様は激しい痛みにより、叫び声を上げたと思います。また、イエス様と一緒にほかの二人も、イエス様を真ん中にして両側に、十字架につけました。ゴルゴタには、イエス様を真ん中にして、三本の十字架が立てられたのです。このようにして、イエス様は罪のない御方でありながら、罪人の一人に数えられたのです(イザヤ53:12参照)。
ローマの総督であるピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けました。そこには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。この罪状書きは、ピラトにイエス様を訴えたユダヤ人たちへの当てつけですね。ユダヤ人たちは、イエス様をユダヤ人の王と自称する者、ローマ皇帝に背く者として、ピラトに訴えました。当時、紀元1世紀のユダヤの国はローマ帝国の属州であり、自分たちの王を持てませんでした。それで、人々は聖書が預言する約束のメシア(キリスト)、王を待ち望んでいたのです。しかし、ユダヤの指導者たちの判断によれば、イエス様は約束のメシアではない、偽メシアであるのです。それで、ユダヤ人たちは、イエス様をユダヤ人の王と自称する者、皇帝に反逆する者として死刑にするために、ピラトのもとに連れて来たのです。しかし、ピラトは、イエス様を本物のユダヤ人王として扱うのです。そのことは第19章13節から15節にも記されています。
ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私たちには、皇帝の他に王はありません」と言った。
ここで、ピラトは、イエス様をユダヤ人の王として扱っています。そして、イエス様の罪状書きにも「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記すのです。時は過越祭であり、場所は都エルサレムに近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。また、その罪状書きは、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語だけではなく、ローマ人の言葉であるラテン語、世界の共通語とも言えるギリシャ語で書かれていました。このことは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という言葉が、すべての人が読むべき言葉であることを示しています。さらに言えば、イエス様がユダヤ人の王だけではなく、すべての人の王であることを示しています。ここに集っている多くの人は日本人ですが、イエス様は日本人の王でもあるのです。また、フィリピン人や中国人や台湾人の王でもあるのです。
ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言いました。しかし、この祭司長たちの言葉は偽りです。これまで、イエス様の口から「私はユダヤ人の王である」と告げられたことはありません。むしろ、祭司長たちが、イエス様をピラトに引き渡すために、イエス様をユダヤ人の王であると言ったのです(ヨハネ18:33、34参照)。ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。ピラトはローマ帝国の総督としての権威を持ち出すのですが、ここにも私たちは神の導きを見ることができます。神様は、ピラトが書いた罪状書きを通して、十字架につけられたイエスこそ、ユダヤ人の王である、いや全世界の王であることを、すべての人々に公に示されたのです。十字架こそ、「ナザレのイエスが王である」と公に示す玉座、栄光の座であるのです。
3、永遠の大祭司イエス
ローマの兵士たちは、イエス様を十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。しかし、下着は縫い目がなく、上から下まで一枚おりであったので、「これは裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう」と話し合いました。福音書記者ヨハネは、「それは『彼らは私の服を分け合い/衣をめぐってくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった」と記しています。イエス様の身に起こっていることは、聖書に預言されていた神の御計画であるのです。この聖書の御言葉は、『詩編』の第22編19節の御言葉です。第22編はイスラエルの王であるダビデの詩編です。ダビデは預言者でもあったので、来るべきメシア、王の苦しみを預言していたのです。その聖書の預言のとおり、兵士たちはイエス様の服を分け合い、衣をめぐってくじを引いたのです。ここで注目したいことは、イエス様の下着には縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったということです。ここにも、福音書記者ヨハネが伝えたいメッセージが込められています。結論から申しますと、一枚織りの下着は、イエス様が大祭司であることを示しています。『出エジプト記』の第28章に祭司が着る服についての規定が記されています。祭司が着る上着は、一枚織りの布で作るようにと命じられていました(出エジプト28:31、32「エフェド用の長衣を、青一色の布で作りなさい。その真ん中に頭を通す穴を開け、その穴の回りには、襟口のように織物の縁を付けて裂けないようにする」参照)。一世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、大祭司は上着だけではなく、下着も一枚織りの布で作っていました(土戸清著『ヨハネ福音書のこころと思想7』88ページ参照)。ですから、イエス様の下着には縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったことは、王であるイエス様が大祭司でもあることを示しているのです。このことは、『ヨハネによる福音書』がイエス様の死を過ぎ越しの小羊と重ねて記していることと関係があります(18:28、19:14参照)。『ヨハネによる福音書』において、大祭司であるイエス様は、世の罪を取り除く神の小羊として、自らを十字架の上でほふられるのです(ヨハネ1:29参照)。『ヘブライ人への手紙』を読むと、イエス様が永遠の大祭司であると記されています。また、イエス様の十字架の死が永遠の贖いを成し遂げるいけにえであったと記されています。同じことを、『ヨハネによる福音書』も教えているのです。イエス様は私たちの王であり、私たちの大祭司でもあるのです。イエス様は、私たちの大祭司として、御自分の命を十字架の上でささげてくださり、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。
結、「見なさい、あなたの兄弟姉妹です」
十字架の刑は見せしめの刑ですから、1メートルから3メートルほど高いところに磔にされました。その十字架のもとに、4人の女たちが立っていました。その4人とは、イエスの母と母の姉妹とクロパの妻マリアとマグダラのマリアです。イエス様の母の名前が記されていませんが、他の福音書によれば、イエス様の母の名前もマリアでした。イエス様がこのとき33歳だとすれば、母マリアは50歳ぐらいであったと思います。愛する息子が十字架に磔にされて、死のうとしている。その光景を目の当たりにして、マリアは胸がつぶれる思いであったと思います。イエス様は、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われました。それから愛する弟子に、「見なさい。あなたの母です」と言われました。これから死のうとしているイエス様が気にかけられたことは、残された母の行く末であったのです。イエス様は母親を御自分を信じていない弟たちにではなくて、愛する弟子に託されたのです(ヨハネ7:5「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」参照)。そして、イエス様の愛する弟子は、イエス様の御言葉どおり、その時から、イエス様の母を自分の家に引き取ったのです。この愛する弟子も名前が記されていませんが、この福音書を書き記した使徒ヨハネであると考えられています。それにしても、なぜ、イエス様の母も、愛する弟子も名前が記されていないのでしょうか。それは、イエス様の母と愛する弟子が象徴的な意味を持っているからです。イエス様の母は、ユダヤ人でイエス・キリストを信じた弟子たちを象徴しています。他方、愛する弟子は、異邦人でイエス・キリストを信じた弟子たちを象徴しているのです。ユダヤ人と異邦人は、互いに敵対していました。しかし、イエス・キリストは、御自分の十字架のもとで、ユダヤ人と異邦人を和解させてくださり、一つのご自分の教会を造られたのです。私たちも、十字架のもとに集まって、礼拝をささげています。私たちは、イエス・キリストによって、神の家族の一員とされて、イエス・キリストを長兄とする兄弟姉妹とされて、礼拝をささげているのです。イエス・キリストは、今朝、私たちに、「見なさい、あなたの兄弟姉妹です」と言われます。そのようにして、イエス・キリストは、互いに愛し合う群れを、十字架のもとにお造りになるのです。イエス・キリストは、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました(ヨハネ13:34)。この新しい戒めは、十字架につけられたイエス・キリストから与えられた戒めであるのです。