私の魂の愛する人 2026年3月11日(水曜 聖書と祈りの会)

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私の魂の愛する人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 3章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 夜ごとに寝床で/私の魂の愛する人を探しました。/あの方を探しましたが、見つかりません。
3:2 「さあ起き出して/町を、通りや広場を巡りましょう。/私の魂の愛する人を探しましょう。」/私はあの方を探しましたが/見つかりません。
3:3 町を巡る夜警たちが私を見つけました。/「私の魂の愛する人を/あなたがたは見かけましたか。」
3:4 彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。/この方を抱き締めました。もう離しません。/私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。
3:5 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。/愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。雅歌 3章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は『雅歌』の第3章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節と2節をお読みします。

 夜ごとに寝床で/私の魂の愛する人を探しました。あの方を探しましたが、見つかりません。「さあ起き出して/町を、通りや広場を巡りましょう。私の魂の愛する人を探しましょう。」私はあの方を探しましたが/見つかりません。

 1節と2節は、おとめの言葉です。時は夜です。おとめと若者はまだ結婚しておらず、別々の家で生活しています。おとめにとって、夜は若者に会えない時間です。現代であれば、電話やメールで連絡を取れますが、当時はそのようなものはありません。おとめは夜ごとに寝床で、愛する人を探すのですが、見つかりません。それで、起き出して、町を、通りや広場を巡って愛する人を探しに行きます。このことが実際に起こったことなのか、それともおとめの空想であるのかは解釈が分かれます。私はおとめの空想であると解釈しています。街灯のない夜の町をおとめが一人で巡り歩くことは考えにくいからです。雅歌は詩(うた)ですから、そこにはおとめが空想したことも記されているのです。もちろん、おとめが愛する人に会いたいあまりに、常識に反して、夜の町を巡り歩いたとも解釈できます。おとめの愛する人への思いが、常識に反する行動へと駆り立てたとも解釈できるのです。

 3節と4節をお読みします。

 町を巡る夜警たちが私を見つけました。「私の魂の愛する人を/あなたがたは見かけましたか。」彼らに別れを告げるとすぐ/私の魂の愛する人は見つかりました。この方を抱きしめました。もう離しません。私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします。

 3節と4節も、おとめの言葉です。おとめは、夜の町を巡って、愛する人を探しますが、見つかりません。逆におとめは、町を巡る夜警たちに見つかりました。おとめは夜警たちにこう尋ねます。「私の魂の愛する人を/あなたがたは見かけましたか」。このように尋ねることによって、おとめは自分が愛する人を探して町を巡り歩いていることを夜警たちに伝えるのです。ここには夜警たちの答えは記されていません。おそらく、おとめは夜警たちの答えを待たずに彼らと別れてしまったのでしょう。すると、すぐおとめの愛する人は見つかりました。若者もおとめに会うために町を巡り歩いていたのでしょうか。ともかく、おとめは愛する人を見つけたのです。おとめは若者を抱きしめて、「もう離しません。私の母の家に/私を身ごもった人の部屋にお連れします」と言います。当時は、結婚の日に、若者がおとめを自分の家に連れて行きました。しかし、ここではその逆で、おとめが若者を自分の母の家に連れて行くというのです。おとめは愛する人と今すぐにでも結婚したいのです。ここでもおとめは、愛する人を思うあまり、常識に反したことをしようとするのです。

 5節をお読みします。

 エルサレムの娘たちよ/ガゼルや野の雌鹿にかけて私に誓ってください。愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと。

 5節は若者の言葉です。おとめは若者を抱き締めて、すぐにでも自分の母の家に連れていき、結婚したい、肉体関係を持ちたいのですが、若者は慎重です。若者は、エルサレムの娘たちに、「愛が望むまで目覚めさせず、揺り起こさないと」と誓うように願うのです。若者は正式な結婚まで、おとめとの関係を純潔に保ちたいのです。

 今朝の御言葉には、「私の魂の愛する人」という言葉が四回記されています。「私の魂の愛する人」とは、神学的に言えば、主なる神のことです。なぜなら、『申命記』の第6章4節と5節にこう記されているからです。「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」。このように、私の魂の愛する御方は、主なる神であるのです。また、私の魂の愛する御方は、主イエス・キリストでもあります。今朝の御言葉は、『ヨハネによる福音書』の第20章に記されている復活の主イエスとマリアとの対話を思い起こさせます。新約の205ページです。第20章11節から18節までをお読みします。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を来た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」マリアは、園の番人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、主から言われたことを伝えた。

 おとめが若者を探し求めたように、マリアはイエス様の遺体を探します。しかし、マリアが見つけたのは復活されたイエス様でした。復活されたイエス様は、「マリア」と彼女の名前を呼ぶことによって、出会ってくださったのです。マリアは、「ラボニ」「私の先生」と言って、イエス様にすがりつきました。17節に、「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから」とありますが、新共同訳では、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と翻訳しています。新共同訳の翻訳ですと、マリアはイエス様にすがりついているのです。ちなみに、「すがりつく」とは、「頼りに思って、離れまいとする。自分の支えとして、しっかりつかまえる」という意味です(広辞苑)。おとめは、愛する人を抱きしめて、「もう離しません」と言いました。そのおとめのように、マリアはイエス様にすがりつくのです。しかし、イエス様は、「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言うのです。『使徒言行録』の第1章に、復活されたイエス様が弟子たちの前で、天に上げられ、雲に包まれて見えなくなったことが記されています。マリアがすがりついていては、イエス様は天の父なる神のもとへ昇っていけないわけです。イエス様が天の父なる神のもとへ昇ることによって、弟子たちにもう一人の弁護者である聖霊が遣わされます。そして、イエス様と父なる神が私たちの内におられるという親しい交わりが実現するのです(ヨハネ14:20、23参照)。十字架と復活の主であるイエス・キリストは、父なる神の右に座しておられます。また、御言葉と聖霊において、私たちの内にもおられます。そのような主イエス・キリストを、私たちは信仰の腕で抱きしめて、「もう離しません」と誓いを立てたいと願います。

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