影の実体であるキリスト 2026年2月22日(日曜 朝の礼拝)
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影の実体であるキリスト
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- 村田寿和 牧師
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コロサイの信徒への手紙 2章16節~19節
聖書の言葉
2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはなりません。
2:17 これらは、来るべきものの影であり、実体はキリストにあります。
2:18 あなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、不利な判断を下されてはなりません。彼らは、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけで、
2:19 頭であるキリストにしっかりと付くことをしません。この頭が基になり、体全体は節と節、筋と筋によって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。コロサイの信徒への手紙 2章16節~19節
メッセージ
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月に一度、第四週の礼拝において、『コロサイの信徒への手紙』を読み進めています。前回(1月25日)学んだ、第2章13節から15節にこう記されていました。「あなたがたは過ちによって、また肉に割礼を受けずに死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました」。キリストは十字架の死と復活によって、支配と権威、この世のもろもろの霊力に勝利してくださいました。そのようにして、コロサイの信徒たちをこの世のもろもろの霊力の支配から解放して、自由な者としてくださったのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
16節と17節をお読みします。
だから、あなたがたは食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはなりません。これらは、来たるべきものの影であり、実体はキリストにあります。
「だから」とありますが、これは「あなたがたはこの世のもろもろの霊力の支配から解放されて、自由な者とされたのだから」という意味です。16節は、コロサイの教会を惑わせていた偽教師たちの教えを念頭に置いて記されています。偽教師たちは、ある食べ物やある飲み物を禁じていたようです。また、偽教師たちは、祭りや新月や安息日といった暦を守っていたようです。この偽教師たちの教えの背景には旧約聖書の掟があると考えられています。偽教師たちの教えは、いろいろな宗教の要素が混ざり合った混交宗教であると考えられていますが、その中にユダヤ教の要素も含まれていたのです。旧約聖書の『レビ記』の第11章には、食べてよい生き物と食べてはいけない生き物のリスト、いわゆる「食物規定」が記されています。また、『民数記』の第6章には、「主に献身したナジル人(びと)はぶどう酒と麦の酒を飲んではならない」と記されています。旧約聖書には、ある食べ物とある飲み物を禁止する掟があるのです。また、暦についても、『民数記』の第28章には、安息日や新月(毎月一日)や祭りの日(過越祭、七週祭など)に、神様にいけにえを献げるようにと記されています。このような食物規定や暦の規定を守るように、偽教師たちは教えていたのです。そして、食物規定や暦の規定を守らないコロサイの信徒たちを偽教師たちは批評していたのです。しかし、パウロは、「キリストによってこの世のもろもろの霊力から解放されて、自由にされたあなたがたは、食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはならない」と言うのです。なぜなら、「これらは、来たるべきものの影であり、実体はキリストにある」からです。食物規定や暦の規定は、来たるべきもの、キリストを指し示す影であり、その本体であるキリストによって無効とされたのです(ヘブライ10:1、9参照)。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、食物規定や暦の規定を守っていないわけです。ウェストミンスター小教理問答の問59は、「神は、七日(なのか)のどの日を、週ごとの安息日に指定されましたか」と問い、次のように告白しています。「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日(ななにち)を週ごとの安息日に指定されました。そしてそれ以降は、世の終わりまで継続して、週の第一日を安息日に指定されました。これがキリスト教安息日です」。ウェストミンスター小教理問答によれば、「主の日はキリスト教安息日である」のです。しかし、そうは言っても、私たちは律法に記されているように、安息日を守っていません(出エジプト35:2、3「その日に仕事をする者はすべて死ななければならない。あなたがたの住まいのどこであっても、安息日には火をたいてはならない」参照)。イエス・キリストを信じる私たちは、影ではなく、本体であるキリストにあって、食物規定や暦の規定から自由な者とされているのです。このことは、イエス・キリストご自身が教えられたことでもあります。『マルコによる福音書』の第7章には、イエス・キリストが食物規定を廃止されたことが記されています。新約の73ページです。第7章14節から23節までをお読みします。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
イエス様は、「外から入って来る食べ物は人を汚すことはできない。それは人の心に入るのではなく、腹に入り、外(便所)に出されるからだ」と言われました。このように、イエス様は、すべての食べ物を清いものとされたのです。つまり、イエス様は食物規定を廃止されたのです(使徒10:15「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」も参照)。
また、『マルコによる福音書』の第2章には、イエス・キリストが安息日の主であることが記されています。新約の63ページです。第2章23節から28節までをお読みします。
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなく空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。エブヤタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」また、彼らに言われた。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
イエス様は、「人の子は安息日の主でもある」と言われました。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。イエス様こそ、私たち人間の心と体と魂を休ませてくださる安息日の主であるのです。それゆえ、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と今もすべての人を招いておられるのです(新共同訳 マタイ11:28)。
このように、イエス・キリストは食物規定を廃止され、御自分こそが安息日の主であると宣言されました。このイエス・キリストにあって、旧約聖書の食物規定と暦の規定は廃止されたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の363ページです。
18節と19節をお読みします。
あなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、不利な判断を下されてはなりません。彼らは、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけで、頭であるキリストにしっかりと付くことをしません。この頭が基になり、体全体は節と節、筋と筋によって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
ここでもパウロは、偽教師たちのことを念頭において記しています。偽教師たちは自分を卑下して、天使を礼拝していました。ここでの「天使」は「この世のもろもろの霊力」の一つです。偽教師たちはイエス・キリストだけではなく、この世のもろもろの霊力の一つである天使をも礼拝していたのです。そのようにして、自分たちはへりくだった者、謙遜な者であると主張していたのです。偽教師たちにとって、キリストだけではなく、天使をも礼拝することは、へりくだりのしるしであったのです。しかし、それは偽りの謙遜に過ぎないのです(新共同訳参照)。「このような偽教師たちから、あなたがたは不利な判断を下されてはならない」とパウロは言います。なぜなら、偽教師たちは、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないからです。偽教師たちは使徒たちが伝えたイエス・キリストの福音ではなく、自分たちが幻で見たことを頼りにしていました。偽教師たちの教えはいろいろな宗教の要素を混ぜ合わせた混交宗教であると考えられていますが、その中には密儀宗教の要素も含まれていたのです。偽教師たちは神秘的な体験を頼りとし、肉の思いによっていたずらに誇っていたのです。「肉の思い」とは、はじめの人アダムに連なる古い人の思い、自己中心的な思いのことです。偽教師たちは、自分の業を、また自分の体験を拠り所として、誇っていたのです。そのような偽教師たちを、パウロは、「頭であるキリストにしっかりと付いていない」と言います。「しっかりと付く」と訳されている言葉(クラテオー)は、「しっかり結びつく」とも訳せます(新改訳2017「かしらにしっかり結びつくことをしません」参照)。頭であるキリストにしっかり結びついているかどうか、この点がとても大切であるのです。パウロは、第1章18節で、「御子はその体である教会の頭です」と記しました。頭であるイエス・キリストにしっかり結びついているかどうか、そこに、私たちがキリストの体である教会に属しているかどうかが掛かっているのです。
キリストの体である教会は、頭であるキリストから命を受けて、体全体は節(ふし)と節、筋(すじ)と筋によって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長していきます(「基づいて」と訳されているギリシャ語はエクス、英語ではフローム)。ここで大切なことは次の2つです。1つは、キリストの体である教会を育む命は、頭であるイエス・キリストから与えられるということです。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第15章で、こう言われました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」。同じように、キリストの体である教会を育む命は、頭であるイエス・キリストから与えられるのです。2つ目の大切な点は、キリストの体である教会は互いに支え合い、結び合わされながら成長していくということです。偽教師たちは、食べ物や暦のことで、兄弟姉妹を裁いていました。また、天使を礼拝する自分たちを謙遜な者と呼び、幻で見たことを誇っていました。そのような偽教師たちの教えは、どのような交わりを形づくるでしょうか?それは互いを裁き合って優劣をつけ、排除する交わりです(一コリント12:12~27参照)。しかし、そのような交わりは頭であるキリストにしっかり結びついていない交わりであり、キリストの体である教会の交わりとは言えません。なぜなら、体は頭(あたま)の命令に従うものであるからです。頭(かしら)であるキリストの命令に従うからこそ、教会はキリストの体であると言えるのです。イエス・キリストは、「小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」と言われました(マタイ18:14)。また、イエス・キリストは、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました(ヨハネ13:34)。このイエス・キリストの御言葉に従う者たちこそ、キリストの体である教会であるのです。私たちは頭であるキリストにしっかり結びついたキリストの体として、互いに支え合いながら、神に育てられて成長していきたいと願います。