私の魂の愛する羊飼い 2026年2月04日(水曜 聖書と祈りの会)

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私の魂の愛する羊飼い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
雅歌 1章5節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:5 エルサレムの娘たちよ/私は黒くて愛らしい。/ケダルの天幕のように/ソロモンの幕布のように。
1:6 私を見つめないでください。/日に焼けたので、私は黒いのです。/兄弟たちが腹を立て/私にぶどう畑を見張らせたのです。/けれども、自分のぶどう畑は見張りませんでした。
1:7 私の魂の愛する人、教えてください。/あなたはどこで群れを飼うのですか。/真昼には、どこで群れを伏させるのですか。/どうして私は、あなたの仲間の群れのそばで/ベールで身を隠す女のようになるのですか。
1:8 女たちの中で誰よりも美しい人よ/もしあなたが知らないのなら/羊の群れの足跡をたどり/羊飼いたちの住みかのそばで/あなたの子山羊を飼いなさい。雅歌 1章5節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『雅歌』の第1章5節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 5節と6節をお読みします。

 エルサレムの娘たちよ/私は黒くて愛らしい。ケダルの天幕のように/ソロモンの幕布のように。私を見つめないでください。日に焼けたので、私は黒いのです。兄弟たちが腹を立て/私にぶどう畑を見張らせたのです。けれども、自分のぶどう畑は見張りませんでした。

 おとめは、「エルサレムの娘たちよ」と呼びかけます。5節と6節は、「エルサレムの娘たち」に対するおとめの言葉です。おとめは、「私は黒くて愛らしい」と言います。新共同訳聖書では、「わたしは黒いけれども愛らしい」と翻訳していました。ここで用いられているヘブライ語の接続詞は、「そして」とも「しかし」とも訳せます。ですから、文法としては、「私は黒くて愛らしい」とも「私は黒いけれど愛らしい」とも訳すことができます。順接に訳すか、逆接に訳すかは、文脈によって判断することになります。私は文脈から判断すると、逆接に訳した方がよいと思います。おとめは、「わたしは黒いけれども愛らしい」と言っているのです。なぜなら、6節に「私を見つめないでください。日に焼けたので、私は黒いのです」と記されているからです。おとめは日に焼けて肌が黒くなったことを恥ずかしく思っているのです。当時は日焼けしていない白い肌が美しいとされていたようです。しかし、おとめは日焼けして黒くなったにもかかわらず、愛らしいのです。そのことをおとめは、「ケダルの天幕のように/ソロモンの幕布のように」とたとえます。「ケダル」とはアブラハムとハガルの間に生まれたイシュマエルの子孫で、アラビアの遊牧民のことです。ケダルは黒い山羊の皮で作った天幕に住んでいました。おとめは、自分の日焼けして黒くなった肌を黒い山羊の皮で作った「ケダルの天幕」にたとえるのです。また、おとめは、自分の愛らしさを「ソロモンの幕布」にたとえます。「ソロモンの幕布」とは神殿で用いられた綺麗な幕布(カーテン)のことです。ケダルの天幕とソロモンの幕布は、黒いけれども愛らしいおとめを表しているのです。

 6節で、おとめは、日に焼けて黒くなった理由を語ります。「兄弟たちが腹を立て/私にぶどう畑を見張らせたのです」。ここでの「兄弟たち」は元の言葉を直訳すると「私の母の息子たち」となります。おとめと血の繋がった兄たちのことが言われているのです。『創世記』を読むと、兄が妹の結婚に深く関わっていたことが分かります。『創世記』の第24章に、「イサクとリベカの結婚」のお話しが記されています。そこでは、リベカの兄であるラバンが妹の結婚を取り仕切っています。このように兄たちは妹の結婚に責任を追っていたのです。なぜ、おとめの兄たちは腹を立てて、おとめにぶどう畑を見張らせたのでしょうか。それを知る手がかりが第8章8節と9節に記されています。旧約の1044ページです。

 私たちの妹は幼く、乳房もありません。この妹が求愛されたとき/何をしてあげればよいでしょう。彼女が城壁ならば/その上に銀の胸壁を建てましょう。彼女が扉ならば/その上にレバノン杉の板を張りめぐらしましょう。

 兄たちは、妹であるおとめが色気づいたのに腹を立てて、ぶどう畑の見張りをさせたようです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1035ページです。

 おとめはぶどう畑の見張りをしたために、日に焼けて黒くなってしまいました。そのことをおとめは、「自分のぶどう畑は見張りませんでした」と言うのです。ここでの「ぶどう畑」は「女性としての魅力」のことです。おとめは家族のぶどう畑を見張ることにより、当時の社会で美しいとされていた白い肌を守ることができなかったのです。

 7節をお読みします。

 私の魂の愛する人、教えてください。あなたはどこで群れを飼うのですか。真昼には、どこで群れを伏させるのですか。どうして私は、あなたの仲間の群れのそばで/ベールで身を隠す女のようになるのですか。

 おとめは、「私の魂の愛する人」に呼びかけます。ここでの魂(ネフェシュ)は存在そのものを意味します。「私が心から愛する人」というような意味です。おとめの愛する人は、羊飼いであるようです。羊飼いは真昼の暑さを避けて、日陰に群れを伏させ休みます。その休んでいる若者におとめは会って、戯れたいのです(創世26:8「イサクが妻のリベカと戯れていた」参照)。しかし、おとめには、若者がどこで群れを伏させているのか分かりません。それで、「どうして私は、あなたの仲間の群れのそばで/ベールで身を隠す女のようになるのですか」と言うのです。「ベールで身を隠す女」とは娼婦のことです。『創世記』の第38章に、「ユダとタマル」のお話しが記されています。そこには、タマルがベールをかぶって身を覆い、娼婦を装ったことが記されています。おとめは、娼婦のように道端で若者を待つことはしたくないのです。

 8節をお読みします。

 女たちの中で誰よりも美しい人よ/もしあなたが知らないのなら/羊の群れの足跡をたどり/羊飼いたちの住みかのそばで/あなたの子山羊を飼いなさい。

 ここには、「エルサレムの娘たち」「おとめたち」の言葉が記されています。おとめは、5節で、「エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれども愛らしい」と言いました(新共同訳)。それに答えて、おとめたちは、「女たちの中で誰よりも美しい人よ」とからかうのです。また、おとめたちは、おとめの愛する羊飼いを探すためのヒントを語ります。「羊の群れの足跡をたどって行きなさい」と言うのです。また、おとめたちは、娼婦に間違えられたくなければ、あなたの子山羊を連れていけばよいと言うのです。「あなたの子山羊を飼いなさい」。この言葉には「愛する人と戯れなさい」という意味も込められています。このように、エルサレムの娘たちは、おとめをからかうのです。

 今朝の御言葉を神学的に解釈すると、おとめの魂の愛する羊飼いは、私たちにとってイエス・キリストであると言えます。なぜなら、イエス・キリストは、『ヨハネによる福音書』の第10章でこう言っているからです。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10、11)。良い羊飼いであるイエス・キリストは、どこで御自分の羊たちを伏させ、休ませてくださるのでしょうか。それは、御自分の名によって二人または三人が集まる礼拝においてです。私たちが、イエス・キリストを探す必要はありません。私たちがイエス・キリストの御名によって集まる只中に、イエス・キリストは御言葉と聖霊において臨在してくださるのです。良き羊飼いであるイエス・キリストの方から、私たちのもとを訪れてくださるのです。良い羊飼いであるイエス・キリストは、御自分の羊である私たちを、御言葉と聖霊によって養い、休ませてくださるのです。

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