キリストの霊による心の割礼 2026年1月25日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
キリストの霊による心の割礼
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コロサイの信徒への手紙 2章11節~15節
聖書の言葉
2:11 あなたがたはキリストにあって、手によらない割礼を受けました。それは肉の体を脱ぎ捨てること、すなわち、キリストの割礼です。
2:12 あなたがたは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
2:13 あなたがたは過ちによって、また肉に割礼を受けずに死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。
2:14 数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。
2:15 こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。コロサイの信徒への手紙 2章11節~15節
メッセージ
関連する説教を探す
先程は、『コロサイの信徒への手紙』の第2章6節から15節までを読んでいただきました。前回(12月28日)は、6節から10節までを学びましたので、今朝は11節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
11節をお読みします。
あなたがたはキリストにあって、手によらない割礼を受けました。それは肉の体を脱ぎ捨てること、すなわち、キリストの割礼です。
「手によらない割礼」とありますが、偽教師たちは「手による割礼」についてコロサイの信徒たちを批評していたようです(コロサイ2:16参照)。「手による割礼」とは、神様がアブラハムとその子孫に命じられた、男子の包皮の一部を切り取る割礼のことです。手による割礼については、『創世記』の第17章に記されています。旧約の20ページです。第17章9節から14節までをお読みします。
神はアブラハムに言われた。「あなたと、あなたに続く子孫は、代々にわたって私の契約を守らなければならない。私とあなたがた、およびあなたに続く子孫との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたがたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない。包皮に割礼を施しなさい。これが私とあなたがたとの間の契約のしるしとなる。あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける。家で生まれた者、また、あなたの子孫ではないが、外国人から銀で買い取ったすべての者がそうである。あなたの家で生まれた者、またあなたが銀で買い取った者は必ず割礼を受けなければならない。私の契約は、あなたがたの体に記された永遠の契約となる。包皮に割礼を施さない無割礼の男子、その者は民の中から絶たれる。その者は私の契約を破ったからである。」
この主の御言葉に従って、アブラハムの子孫であるユダヤ人の男子は生まれて八日目に割礼を受けたのです。ユダヤ人にとって割礼は、神様との契約のしるしであったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の362ページです。
この手紙の受取人であるコロサイの信徒たちは、ユダヤ人ではなく異邦人(外国人)でした。ですから、コロサイの信徒たちは、包皮の一部を切り取る割礼を受けていませんでした。しかし、パウロは、「あなたがたはキリストにあって、手によらない割礼を受けました。それは肉の体を脱ぎ捨てること、すなわちキリストの割礼です」と言うのです。「肉の体を脱ぎ捨てる」とは、どういう意味でしょうか。それを知る手がかりが、第3章9節と10節にあります。「互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです」。ここに、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」とあるように、「肉の体を脱ぎ捨てる」とは「はじめの人アダムに連なる自己中心的な古い人を脱ぎ捨てる」ということです。私たちは、キリストの割礼によって、はじめの人アダムに連なる自己中心的な古い人を脱ぎ捨て、最後のアダムであるイエス・キリストに連なる神中心的な新しい人を着たのです。では、「キリストの割礼」とは何でしょうか。それは、キリストの霊による心の割礼のことです。キリストの割礼がキリストの霊による心の割礼であることは、『ローマの信徒への手紙』の第2章に記されています。新約の270ページです。第2章25節から29節までをお読みします(ローマの教会は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる。ここでパウロはユダヤ人キリスト者を念頭に置いて語っている)。
(ユダヤ人である)あなたが律法を行うなら、割礼は役にも立つでしょう。しかし、律法に背くなら、あなたの割礼は割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、受けたと見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字と割礼とがありながら、律法に背いているからです。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。
29節に、「文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」とあります。コロサイの信徒たちは、また、私たちは肉の割礼を受けてはいません。しかし、キリストの霊による心の割礼を受けたのです。キリストの霊による心の割礼を受けることによって、アダムに連なる古い人を脱ぎ捨て、キリストに連なる新しい人を着たのです。「霊によって心に施された割礼」については、『申命記』の第10章に記されています。旧約の282ページです。第10章12節から16節までをお読みします(申命記は、イスラエルの新しい世代が約束の地カナンに入る前になされたモーセの告別説教)。
イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。見よ、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。ただ、主はあなたの先祖にのみ心をかけて愛され、後に続く子孫であるあなたがたを、すべての民の中から今日あるように選ばれた。だから、あなたがたがの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならない。
ここでモーセは、イスラエルの民に「あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならない」と警告しています。ここでは、イスラエルの民が自分で心の包皮に割礼を施すことが命じられているように読むことができます。しかし、第30章6節には、主がイスラエルの民の心に割礼を施してくださると記されています。旧約の313ページです。文脈としては、神様の掟に背いて呪いを受けた後での立ち返りについて記している箇所です。第30章6節にこう記されています。
あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。
パウロは、このモーセの言葉を受けて、キリストの霊による心の割礼について記したのです。「あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる」。この約束の実現として、私たちは手によらない割礼、キリストの霊による心の割礼を受けたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の362ページです。
12節をお読みします。
あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させて神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
キリストの割礼とは、キリストの霊による心の割礼ですが、そのしるしはキリストの名による洗礼であります。私たちはキリストの霊による心の割礼を受けたしるしとして、キリストの名による洗礼を受けたのです。当時の洗礼は、全身を水の中に沈める仕方で行われました。イエス・キリストの名によって、水の中にドボンと頭の先まで沈み、そして、ザバッと水の中から出てくる。それによって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活したことを表したのです。同じことが頭に水を注ぐ洗礼においても言えます。私たちはキリストの名による洗礼を受けたことによってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。「キリストと共に復活させられた」とはどのような意味でしょうか。それは、復活したキリスト共に生きる者となったということです。私たちは、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、復活したキリストと共に歩んでいます。そのことをパウロは、「キリストと共に復活させられた」と言っているのです。イエス・キリストは死者の中から朽ちることのない栄光の体で復活させられました。そのような意味で、私たちは復活したわけではありません。私たちの体は朽ちて衰える弱い体です。しかし、復活したキリストと共に生きる者として、私たちはイエス・キリストの復活の命にあずかっているのです。そのような意味で、私たちは、キリストと共に復活させられたのです。
13節から15節までをお読みします。
あなたがたは過ちによって、また肉に割礼を受けずに死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除かれたのです。こうして、神はもろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものになさいました。
ここでの「あなたがた」は、イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前のコロサイの信徒たちのことです。かつてのコロサイの信徒たちは過ちによって、また肉に割礼を受けずに神様との関係においては死んだ者たちでした(ルカ15:32参照)。同じことが、イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前の私たちにも言えます。私たちも過ちによって、また肉に割礼を受けずに神様との関係においては死んだ者たちであったのです。しかし、神様は、そのような私たちにキリストの霊による心の割礼を施してくださり、そのしるしとしてキリストの名による洗礼を授けてくださいました。そのようにして、私たちを復活したキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださったのです。ここでパウロが「私たちのすべての過ちを赦してくださいました」と記していることに注意したいと思います。神様から過ちを赦していただいたのは、異邦人であるコロサイの信徒たちだけではなくて、ユダヤ人であるパウロたちも同じであるのです。神様は、「数々の規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた借用書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです」。「数々の規則」とは、神の戒めである律法のことです。律法は神の御意志の表れであり、良いものです。しかし、罪をもって生まれてくる人間は神の律法を守ることができないので、律法は私たちの罪を訴えるものとなるのです。「借用書」とありますが、罪は神様に対する負い目、負債と考えられていました(ルカ11:4参照)。神様によって造られ、生かされている人間は、神の御心に従う義務を負っているのです。しかし、人間は神の御心を行わず、かえって背いているので、神様に対して払いきれないほどの負債をかかえているのです(マタイ18:24「一万タラントン(一タラントンは6000デナリ)の借金をしている家来」参照)。しかし、神様は、その罪の借用書を破棄して、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。神様は、愛する御子イエス・キリストを十字架に磔にすることにより、私たちのすべての過ちを赦してくださいました。私たちの主であり、王であるイエス様は、私たちのすべての過ちを担って、その贖いとして、十字架の死を遂げてくださったのです。
神様は、十字架の死を遂げたイエス・キリストを、死者の中から三日目に、栄光の体で復活させ、天にあげられました。そのようにして、神様は、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって彼らを勝利の行進に従えて、公然とさらしものにされたのです。「もろもろの支配と権威」とは「この世のもろもろの霊力」のことです(コロサイ2:8参照)。偽教師たちは、「キリストはこの世のもろもろの霊力の一つに過ぎない」と教えていました。しかし、パウロは、「神様はイエス・キリストを十字架の死からの復活させ、天に上げことによって、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストにあって勝利の行進に従えて、公然とさらしものにした」と言うのです。このパウロの言葉の背景には、戦いに勝利したローマ帝国の将軍が、敵を武装解除し、その敵を捕虜として勝利の行進に従えて公然とさらしものにしたことがあります(凱旋行進、戦勝パレード)。偽教師たちは、イエス・キリストがこの世のもろもろの霊力の一つであると教えていました。しかし、この世のもろもろの霊力は、キリストの勝利の行進に従う無力なものであるのです。私たちが生きている現代の日本社会にも、この世のもろもろの霊力が働いています。しかし、私たちは、神様がイエス・キリストを十字架の死から復活させ、天に上げることにより、もろもろの霊力の武装を解除して、キリストの勝利の行進に従えて公然とさらしものにしたことを心に留めたいと思います。私たちは、キリストの霊によって心の割礼を受け、そのしるしとしてキリストの名によって洗礼を受けた者として、復活して今も生きて働いておられるイエス・キリストと共に歩んでいきたいと願います(ウェストミンスター小教理問答の問23によれば、キリストは今も私たちの贖い主として、預言者、祭司、王の職務を遂行しておられる)。