信仰と愛と希望をもって生きる 2026年1月04日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。テサロニケの信徒への手紙一 1章3節

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序、年間テーマと年間聖句

 私たちの教会では、年間テーマと年間聖句を定めて歩んでいます。今年、2026年の年間テーマは「信仰と愛と希望を持って生きる」、年間聖句は「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです」(テサロニケの信徒への手紙一1章3節)です。今朝は、新年最初の礼拝ですので、年間聖句である『テサロニケの信徒への手紙一』の第1章3節を中心にして、お話しいたします。

1、キリスト者の徳である信仰と希望と愛

 年間テーマを「信仰と愛と希望を持って生きる」としましたが、「信仰と希望と愛を持って生きる」という順番の方が馴染みがあると思います。と言いますのも、使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第13章13節で、こう記しているからです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」。信仰と、希望と、愛、この三つは、イエス・キリストを信じる者であれば、誰にでも与えられている徳、品性であります。そのことを聖書を開いて確認したいと思います。新約の311ページです。『コリントの信徒への手紙一』の第12章31節後半から第14章1節前半までをお読みします。

 そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル、たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛が無ければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。愛を追い求めなさい。

 使徒パウロは、第12章から「聖霊の賜物」について記しました。それぞれの信徒に与えられている賜物を、キリストの体である教会のために用いるようにと記してきたのです。コリントの教会では、人間には分からない言葉、異言の賜物が重んじられていました。しかし、パウロは第12章31節で、「もっと大きな賜物を熱心に求めなさい」と言うのです。では、このもっと大きな賜物とは何でしょうか。それは、第14章1節後半に記されている「霊の賜物、特に預言するための賜物」であります。このように見てくると、第13章31節後半から第14章1節前半までは、挿入されている文書であることが分かります。パウロは、聖霊の賜物について語る前に、聖霊の結ぶ実である徳、品性について語るのです(ガラテヤ5:22「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり」参照)。信仰と希望と愛、この三つは聖霊の結ぶ実であり、キリスト者であれば誰もが持っている徳、品性であります。信仰と希望と愛、この三つの徳、品性は、神に対する徳、品性であります。私たちは神を信じ、神に望みを置き、神を愛しているのです。また、信仰と希望と愛は、神の御子イエス・キリストに対する徳、品性であります。私たちはイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに望みを置き、イエス・キリストを愛しているのです。キリスト者とは、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに望みを置き、イエス・キリストを愛する者であるのです。キリスト者には、信仰と希望と愛という徳、品性が与えられているのです。パウロは、13節で、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」と記しています。それは「愛」の中に、「すべてを信じ、すべてを望み」ということが含まれているからです。4節から7節は「愛についての定義」と言えますが、7節に、「すべてを信じ、すべてを望み」と記されています。信仰も希望も愛を源としているのです。それゆえ、信仰と希望と愛の中で、最も大いなるものは愛であるのです。

 

2、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐

 今朝の御言葉に戻ります。新約の366ページです。

 第1章1節から10節までをお読みします。

 パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。恵みと平和があなたがたにありますように。 

 私たちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからです。私たちがあなたがたのところで、あなたがたのためにどのように振る舞ったかは、ご存じのとおりです。そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちと主に倣う者となりました。こうして、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。主の言葉が、あなたがたのところから出て、マケドニアやアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところに伝わっているので、私たちはもう何も語る必要はありません。

 私たちがどのように受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来たるべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。

 長く読みましたが、3節に、信仰と愛と希望について記されています。パウロは、テサロニケの信徒たちの信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐を思い起こして、神様に感謝をささげているのです。テサロニケの信徒たちの「信仰の働き」とは何でしょうか?それは、彼らが聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主イエス・キリストを信じて、生けるまことの神に仕えるようになったということです。私たちも、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主イエス・キリストを信じて、生けるまことの神に仕えています。私たちは、イエス・キリストの復活を祝って週の初めの日ごとに集まり、礼拝をささげています。そのようにして、私たちは生けるまことの神様に仕えているのです。

 では、テサロニケの信徒たちの「愛の労苦」とは何でしょうか?それは神様への愛と隣人への愛から、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるための労苦です。8節に、「主の言葉が、あなたがたのところから出て、マケドニアやアカイアに響き渡った」とあるように、テサロニケの信徒たちは、パウロたちから伝えられた福音を、愛の労苦によって宣べ伝えたのです。私たちも主の日の礼拝を中心にして、イエス・キリストの福音を宣べ伝えています。そのために礼拝に出席し、祈りと献金をささげています。そのようにして、私たちも愛の労苦を積み重ねているのです。

 では、テサロニケの信徒たちの「希望の忍耐」とは何でしょうか?それは、世の終わりに、主イエス・キリストが天から再び来てくださり、私たちの救いを完成してくださるという希望に基づく忍耐です。10節にあるように、テサロニケの信徒たちは、御子が天から来るのを待ち望んでいました。御子イエスこそ、神が死者の中から復活させた御方であり、来るべき神の怒りから私たちを救ってくださる御方であるのです。なぜ、御子イエスは、来たるべき神の怒り、最後の審判において罪人にくだる神の怒りから私たちを救うことができるのか。それは、イエス・キリストが御自分の民に代わって、十字架のうえで、神の怒りを受けて死んでくださったからです。さらには、神様がイエス・キリストを死者の中から三日目に栄光の体で復活させられたからです。それゆえ、天から再び来られるイエス・キリストは、最後の審判において、私たちを神の怒りから救うことができる御方であるのです。そのイエス・キリストが天から再び来られるのを、テサロニケの信徒たちは待ち望んで、人々からの迫害(仲間外れにされたり、悪口を言われること)を耐え忍んでいたのです。私たちも、主イエス・キリストが天から再び来られるのを待ち望んでいます。天におられるイエス・キリスト、天から来られるイエス・キリストに希望を置いて、私たちも苦しみを耐え忍んで、信仰生活を、また教会生活を続けているのです。

 パウロは、「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしている」と記しました。このテサロニケの信徒たちの姿に、私たちは、自分自身の姿に重ねることができます。私たちはイエス・キリストの教会として、これまでも、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐に生きてきました。そして、これからも、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐に生きていきたいと思います。それは、私たちの主であるイエス・キリストが、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐に生きられた御方であるからです。パウロは、6節で、テサロニケの信徒たちが、「私たちと主に倣う者となった」と記しています。そのことは、パウロも、そして、主イエス・キリストも、信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐に生きたことを教えています。先程私は、信仰と希望と愛は、キリスト者すべてに与えられている徳、品性であると申しました。それは、イエス・キリストが信仰と希望と愛の人であったからです。イエス・キリストは信仰と希望と愛をもって、十字架の死を遂げてくださったのです。

3、キリスト教の三要文である使徒信条、十戒、主の祈り

 今年の年間テーマを「信仰と愛と希望を持って生きる」とし、年間聖句を『テサロニケの信徒への手紙一』の第1章3節としました。ここには、「信仰と愛と希望」という順番に対する私のこだわりがあります。なぜ、私が「信仰と愛と希望」という順番にこだわるのかと言うと、使徒信条と十戒と主の祈りという順番に私がこだわっているからです。信仰と愛と希望、このキリスト者の三つの徳は、キリスト教会が大切にしてきた三つ文書、三要文(さんようもん)と結びつけて理解されます。三要文とは、使徒信条と十戒と主の祈りのことです。キリスト教会は、信仰を使徒信条に結びつけて、愛を十戒に結びつけて、希望を主の祈りに結びつけて理解してきました。私たちは神を信じる者として使徒信条を告白し、神を愛する者として十戒を朗読し、神に希望を置く者として主の祈りを祈るのです。使徒信条と十戒と主の祈り、この三つの文書を、どのような順序で唱えるべきであるのか。私が教えられ、信じるところでは、使徒信条、十戒、主の祈りの順番で唱えるのが良いと思います。私たちはイエス・キリストを信じる者として使徒信条を告白し、使徒信条を告白する者として十戒を朗読し、十戒を朗読する者として主の祈りを祈るのです(何を信じているか。信じた者としてどのように生きるか。信じて生きる者として何を祈るか)。私たちは何を信じているかを使徒信条によって言い表し、信じる者としてどのように生きるかを十戒によって言い表し、言い表したとおりに信じて生きることができないゆえに主の祈りを祈るのです。なぜ、十戒を朗読した後で、主の祈りを唱えるのがよいかと言えば、私たちは十戒を完全に守ることができないので、主の祈りにおいて、「我らの罪を赦したまえ」と祈る必要があるからです。私たちの教会では、月に一度、第一主日において、使徒信条を告白し、十戒を朗読し、主の祈りを祈ります。現在は、使徒信条と十戒と離れて、礼拝の終わりのあたりで、主の祈りを祈っていますが、3つの文書は、続けて唱える方がよいと思います。そのとき、私たちは、自分たちが信仰と愛と希望を持って生きていることをはっきりと知ることができるのです。私たちは、使徒信条を告白し、十戒を朗読し、主の祈りを祈りながら、信仰と愛と希望を持って、新しい年を歩んでいきたいと願います。

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