私は苦しむ者、貧しい者 2025年12月14日(日曜 夕方の礼拝)
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私は苦しむ者、貧しい者
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- 村田寿和 牧師
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詩編 40編1節~18節
聖書の言葉
40:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
40:2 私は耐えて主に望みを置いた。/すると主は私に向かって身を乗り出し/私の叫びを聞いてくださった。
40:3 主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて/私の足を岩の上に立たせ/歩みを確かなものとし
40:4 私の口に新しい歌を/我らの神への賛美を授けてくださった。/多くの人はこれを畏れ、主に信頼する。
40:5 幸いな者/主を頼みとする人/ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人。
40:6 わが神、主よ、あなたは多くのことを/奇しき業と計らいを/私たちのために成し遂げられた。/あなたに並ぶ者はありません。/私がそれを語り伝えようにも/おびただしくて数えきれません。
40:7 いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず/私の耳を開いてくださった。/焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも/あなたは求められなかった。
40:8 その時、私は言いました。/「御覧ください。私は来ました/私のことが記された巻物の書を携えて」と。
40:9 わが神よ/私は御旨を行うことを喜びとしてきました。/あなたの律法は私の胸の内にあります。
40:10 大いなる集会で私は義を告げ知らせました。/決して唇を閉じません。/主よ、あなたはそれをご存じです。
40:11 私はあなたの正義を心の中に秘め置かず/大いなる集会にあなたの真実と救いを語り/あなたの慈しみとまことを隠しませんでした。
40:12 主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。/あなたの慈しみとまことが/絶えず私を守ってくださるように。
40:13 数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。/それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。
40:14 主よ、お願いです、私を救い出してください。/主よ、急いで助けてください。
40:15 私の命を奪おうと狙う者が皆、恥を受け/辱められますように/私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。
40:16 私を「あはは、あはは」とはやす者が/自ら恥を受け、うろたえますように。
40:17 あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「主は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。
40:18 私は苦しむ者、貧しい者。/わが主が顧みてくださるように。/あなたこそわが助け、わが救い。/わが神よ、ためらわないでください。
詩編 40編1節~18節
メッセージ
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今夕は、『詩編』の第40編から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌」とあるように、第40編は、ダビデが歌った詩編です。そのことを前提にしてお話しします。
第40編は、大きく2つに分けることができます。それは、2節から11節までと12節から18節までです。2節から11節には、ダビデがかつて体験した主の救いと感謝が記されています。12節から18節までは、ダビデが今体験している苦しみからの救いの願いが記されています。ダビデは、主がかつて救ってくださった体験に基づいて、今の苦しみから救ってくださいと主に願っているのです。このような大きな枠組みを念頭に置いて読み進めていきます。
2節から4節までを読みます。
私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向かって身を乗り出し/私の叫びを聞いてくださった。主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて/私の足を岩の上に立たせ/歩みを確かなものとし/私の口に新しい歌を/我らの神への賛美を授けてくださった。多くの人はこれを畏れ、主に信頼する。
このとき、ダビデは死の危険に直面していたようです。3節の「滅びの穴、泥沼」は、死者の領域である陰府を象徴しています。ダビデは、瀕死の重病であったのかも知れません。そのような苦難の中でダビデは耐えて主に望みを置きました。ダビデは切に、主を待ち望んだのです(新改訳2017参照)。ここでの「主」は、その昔、ホレブの山でモーセに示された神のお名前です。「私はあなたと共にいる」という約束を含んだ、ヤハウェと発音されたであろうお名前です(出エジプト3:12参照)。その主にダビデは望みを置き続けたのです。すると主は、ダビデに向かって身を乗り出し/ダビデの叫びを聞いてくださったのです。主はダビデを滅びの穴から引き上げて、ダビデの足を岩の上に立たせ、その歩みを確かなものとしてくださったのです。そして、ダビデの口に、新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださったのです。主は御自分を待ち望む者の叫びを聞いてくださり、滅びから救い、その人の口に賛美を授けてくださる御方であるのです。それゆえ、私たちは主を畏れ、主に信頼しているのです。
5節と6節を読みます。
幸いな者/主を頼みとする人/ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人。わが神、主よ、あなたは多くのことを/奇しき業と計らいを/私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。私がそれを語り伝えようにも/おびただしくて数えきれません。
ダビデは、自分の救いの体験を踏まえて、「幸いな者/主を頼みとする人/ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人」と言います。「ラハブ」とは神話的な怪物で、「偽りの神」の同義語として用いられています。ダビデは、自分の体験をすべての人に当てはめて、「幸いな者、主を頼みとする人」と言うのです。ダビデが、「わが神、主よ、あなたは多くのことを/奇しき業と計らいを私たちのために成し遂げられた」と語るとき、それは、イスラエルの民に共通する救いの体験であるエジプトから脱出したことや、40年間荒れ野で養われ導かれたことや、約束の地カナンを与えられたことを指しています。主はダビデを滅びの穴から救い出してくださっただけではなく、すべての神の民に数えきれないほどの奇しき業を成し遂げられたのです。
7節から11節までを読みます。
いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず/私の耳を開いてくださった。焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも/あなたは求められなかった。その時、私は言いました。「御覧ください。私は来ました/私のことが記された巻物の書を携えて」と。わが神よ/私は御旨を行うことを喜びとしてきました。あなたの律法は私の胸の内にあります。大いなる集会で私は義を告げ知らせました。決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。私はあなたの正義を心の中に秘め置かず/大いなる集会にあなたの真実と救いを語り/あなたの慈しみとまことを隠しませんでした。
主の救いを体験した者は、主にいけにえや供え物を献げます。しかし、主がダビデの耳を開いて示してくださったことは、主が焼き尽くすいけにえも清めのいけにえもお求めにならないことでした。主が喜ばれるのは、主の御言葉を聞いて、主の御旨を行うことであるのです。このことは、かつて預言者サムエルがサウル王に言ったことです。主はアマレク人とその家畜を滅ぼし尽くすようにサウル王に命じました。しかし、サウルは民を恐れて、最上の家畜を滅ぼしませんでした。主にいけにえとして献げるという名目で生かしておいたのです。そのようなサウル王に、預言者サムエルはこう言います。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22新共同訳)。主によって耳を開かれたダビデが知ったことも、主はいけにえや供え物よりも、御言葉に聞き従うことを喜ばれることであったのです。そのことを知った者として、ダビデはこう言います。「御覧ください。私は来ました。私のことが記された巻物の書を携えて」と。ダビデのことが記された巻物の書とは何でしょうか?私はモーセが記したとされる律法の書であると思います。なぜなら、律法の書の一つである『創世記』には、アブラハムの子孫から王が出ると記されているからです。また、ヤコブのユダに対する祝福の言葉には、「王笏はユダから離れず/統治者の杖は足の間から離れない」と記されているからです。ダビデは、アブラハムの子孫であり、ユダの子孫でもあります。律法の書の中に、ダビデのことがすでに預言されていたのです。また、ダビデが律法の書を携えて来たのには理由があります。それはダビデが主の御旨を行うためです。主は律法の書によって、御自分の民イスラエルに、どのように生きるべきかを教えられました。それゆえ、ダビデは御旨を行うために律法の書を携える必要があったのです。律法の書の一つである『申命記』の第17章の「王に関する規定」に、次のように記されています。「王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる」。ダビデはイスラエルの王として、律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、これを読んでいたのです。そのようにして、ダビデは胸の内にある心の板に律法を刻みつけていたのです。主の救いを体験したダビデは、大いなる集会で主の義を告げ知らせました。ダビデは、大いなる集会で、主の救いを福音として告げ知らせたのです。そのようにして、王ダビデの救いの体験は、その民であるイスラエル全体の喜びとなったのです。
このような、かつての主の救いの体験を踏まえて、ダビデは今置かれている災いからの救いを祈り求めます。
12節から18節までを読みます。
主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。あなたの慈しみとまことが/絶えず私を守ってくださるように。数えきれないほどの災いが私に絡みつき/見ることができないほどの過ちが私に迫りました。それらは私の髪の毛よりも多く/私の心さえも私を見捨てました。主よ、お願いです、私を救い出してください。主よ、急いで助けてください。私の命を奪おうと狙う者が皆、恥を受け/辱められますように/私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。私を「あはは、あはは」とはやす者が/自ら恥を受け、うろたえますように。あなたを尋ね求める人すべてが/あなたによって喜び楽しみ/あなたの救いを愛する人が/「主は大いなるかな」と/絶えることなく言いますように。私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように。あなたこそわが助け、わが救い。わが神よ、ためらわないでください。
ダビデは、12節で「あなたの慈しみとまことが/絶えず私を守ってくださるように」と言います。この「あなたの慈しみとまこと」は11節で、かつてダビデが大いな集会で語った慈しみとまことであります。ダビデは、かつて自分を守った慈しみとまことが、今、災いの中にある自分を守ってくださるようにと祈っているのです。ダビデは多くの災いの中にあり、自分で自分を見捨ててしまうほどの困難の中にありました。そのような中で、ダビデは再び耐えて主に望みを置くのです。ダビデは、自分と同じように主に信頼する人たちが、神を賛美することができるようにと願うのです。ダビデは、18節でこう言います。「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように。あなたこそわが助け、わが救い。わが神よ、ためらわないでください」。苦しむダビデは、主に依り頼む貧しい者であるのです。私たちの主イエス・キリストは、平地の説教において、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言いました(ルカ6:20)。ダビデは、その貧しい者であったのです。