栄光に満ちた神の秘義 2025年10月26日(日曜 朝の礼拝)

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栄光に満ちた神の秘義

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章26節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:26 永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
1:27 神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
1:28 このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。
1:29 このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。コロサイの信徒への手紙 1章26節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、『コロサイの信徒への手紙』の第1章21節から29節までを読んでいただきました。およそ1か月前の9月28日に21節から25節までを学びました。今朝は26節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 26節を読みます。

 永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。

 パウロは、直前の25節でこう記していました。「私は、自分に与えられた神の計画に従がって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神の言葉を余すところなく伝えるためです」。パウロが教会に仕える者となり、コロサイの信徒たちに神の言葉を余すところなく伝えることになったのは、「永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされた」からです。ここで「秘義」と訳されている言葉(ミステーリオン)を、新共同訳は「秘められた計画」と訳しています。新改訳2017では「奧義」と訳しています。ちなみに、「秘義」とは「奥深く秘められた教え。奧義」のことです(広辞苑)。「神の聖なる者たち」とは「神の民」のことです。「永遠の昔から幾世代にもわたって隠されてきた秘義が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされた」。このことを、『使徒言行録』の第11章の御言葉から確認したいと思います。新約の230ページです。1節から18節までを読みます。

 さて、使徒たちとユダヤにいるきょうだいたちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。そこで、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロが口火を切って、事の次第を順序正しく説明した。「私がヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天から私のところまで降りて来たのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野の獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい』という声を聞きましたが、私は言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、全部の物がまた天に引き上げられました。

 ちょうどその時、カイサリアから私のところに差し向けられた三人の人が、私たちのいた家に着きました。すると、霊が私に、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、私たちはその人の家に入ったのです。すると彼は、自分の家に天使が立っているのを見、また、その天使がこう告げたと言うのです。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉を話してくれる。』私が話し出すと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。その時、私は、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言われた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じた私たちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた。

 ここに、永遠の昔から幾世代にもわたって隠されていた秘義が、今や神の聖なる者たちに明らかにされたことが記されています。「永遠の昔から幾世代にもわたって隠されていた秘義」とは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も主イエス・キリストを信じるのであれば、ユダヤ人と同じ賜物を受けることができるということです。すなわち、ユダヤ人ではない異邦人であっても、主イエス・キリストを信じるのであれば、聖霊を与えられて神の民とされ、永遠の命を持つことができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の361ページです。

 27節の前半を読みます。

 神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。

 「彼ら」とは、「神の聖なる者たち」、神の民のことです。先程、確認しましたように、ペトロの話を聞いた、ユダヤ人の弟子たちは静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めました。しかし、そのことにつまずいたユダヤ人たちも多くいたのです。このことも『使徒言行録』の第13章の御言葉から確認したいと思います。新約の235ページです。第13章には、ピシディア州のアンティオキアでのパウロの説教が記されています。パウロは、ユダヤ人の会堂で説教したのですが、そこには、イスラエルの人たち(ユダヤ人)と神を畏れる人たち(異邦人)がいました。パウロは、ユダヤ人と異邦人にイエス・キリストの福音を語るのです。長い説教ですが、最初から最後まで読んでみます。16節から41節までを読みます。

 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。イスラエルの民の神は、私たちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に寄留している間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、士師たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、彼は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになりました。それから、サウルを退けてダビデを王の位に就け、彼について次のように宣言なさいました。『私はエッサイの子ダビデを見いだした。彼は私の心に適う者で、私の思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスが来られる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『私を何者だと思っているのか。私はその方ではない。その方は私の後から来られるが、私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中で神を畏れる方々、この救いの言葉は私たちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を、イエスを裁くことによって実現させたのです。そして、死刑に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを殺すようにピラトに求めました。こうして、イエスについて書いてあることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは今、民に対してイエスの証人となっています。私たちも、先祖に与えられた約束の福音をあなたがたに告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、私たちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編第二編にも、『あなたは私の子/私は今日、あなたを生んだ』と書いてあるとおりです。また、神がイエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『私は、ダビデに約束した/確かな聖なるものをあなたがたに与える』と言われています。ですから、ほかの箇所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない』と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りに就いて先祖の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。ですから、預言者の書に言われていることが起こらないように、気をつけなさい。『見よ、侮る者たち、驚け、滅び去れ。私は、あなたがたの時代に一つの業を行う。人が詳しく説明しても/あなたがたには到底信じられない業を。』」

 長く読みましたが、ここには、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音、神の秘義が記されています。その核心(急所)は、38節と39節です。イエスの名によって罪の赦しが告げ知らされていること。モーセの律法では義とされなかったのに、イエスを信じることによって義とされることであります。結論から申しますと、この神の秘義を受け入れたのは、ユダヤ人ではなく、神を畏れる異邦人でした。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来ました。その群衆を見てひどく妬んだユダヤ人たちは、口汚く罵り、パウロの話すことに反対したのです。そこで、パウロは堂々とこう語ります。46節と47節です。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている。そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます。主は私たちにこう命じておられるからです。『私は、あなたを異邦人の光とし/地の果てにまで救いをもたらす者とした』」。すると、異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めたのです。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、イエス・キリストを信じたのでした。神の民ではないとされていた異邦人がイエス・キリストを信じることによって神の民とされ、神の国の祝福にあずかる者とされたのです。この異邦人たちに連なる者として、コロサイの信徒たちも、また、私たちもいるわけです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の361ページです。

 27節の後半を読みます。

 この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。

 異邦人はユダヤ人ではない外国人であり、神の救いの約束と関係のない者たちでした。しかし、異邦人であっても、イエス・キリストを信じるのであれば、神の民とされ、神のの国の祝福にあずかることができるのです。それは、ユダヤ人ではない異邦人である私たちが神をほめたたえるべき栄光に満ちた、良き知らせであるのです。これまで『使徒言行録』から確認してきたように、「秘義」とは、「ユダヤ人ではない、異邦人であっても、イエス・キリストを信じれば、神の民とされ、神の国の祝福にあずかることができる」という教えでした。しかし、ここでパウロは簡潔に、「この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です」と言います。「あなたがたの内におられるキリスト」とは、イエス・キリストの名によって集まって礼拝をささげている私たちのただ中に、御言葉と聖霊によっておられるイエス・キリストのことです(マタイ18:20「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」参照)。私たちは、パウロの手紙が、礼拝において公に朗読されたことを思い出したいと思います。私たちのただ中に、御言葉と聖霊によっておられるイエス・キリストこそ、神の秘義であるのです。パウロは、「すなわち、栄光の希望です」と言います。栄光とは神の臨在の輝き(シェキーナ)のことです。私たちは、イエス・キリストによってのみ神の栄光(栄光に満ちた神の臨在)にあずかることができるのです。それゆえ、神の秘義であるイエス・キリストは、私たちにとって栄光の希望であるのです。

 28節を読みます。

 このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。

 ここで主語が「私たち」と一人称複数形で記されています。神の秘義であるキリストを宣べ伝えているのは、パウロだけではなく、私たち(パウロとテモテとエパフラスたち)であるのです。また、ここでパウロは、「すべての人」という言葉を三度記しています。聖書協会共同訳は訳出していませんが、元の言葉では、「教えています」の前に「すべての人を」と記されています(新改訳2017参照)。秘義とは、「奥深く秘められた教え」という意味ですが、キリストという秘義は、すべての人に宣べ伝えるべき教えであるのです。すべての人に宣べ伝えるなら、もはや秘義とは言えないと思われるかも知れません。しかし、キリストという秘義をあらわにしてくださるのは、神の霊であるゆえに、キリストの秘義は秘義であり続けるのです(一コリント2:6〜16参照)。それゆえ、私たちは聖霊のお働きを祈り求めつつ、福音を宣べ伝える必要があるのです。私たちも、イエス・キリストが天から再び来る終わりの日に、すべての人を完全な者として立たせるために、知恵を尽くしてすべての人を諭し、すべての人を教えているのです。

 29節を読みます。

 このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。

 ここで主語が「私」と一人称単数形で記されています。私たちのただ中におられるキリストは、私たち一人一人の内にもいてくださるのです(一コリント3:16、6:19参照)。使徒パウロの力の源は、パウロの内に力強く働くキリストでした(一コリント15:10参照)。神の秘義であり、栄光の希望であるキリストは、私たちのただ中に、また、私たち一人一人の内におられます。そのキリストの力によって、私たちも信仰の闘いを立派に闘いたいと願います(二テモテ4:6参照)。

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