主よ、私はあなたを待ち望みます 2025年10月12日(日曜 夕方の礼拝)

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主よ、私はあなたを待ち望みます

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 38編1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

38:1 賛歌。ダビデの詩。記念のために。
38:2 主よ、怒って私を責めず/憤って私を懲らしめないでください。
38:3 あなたの矢が私を射抜き/あなたの手が私の上に降りて来ました。
38:4 あなたの憤りのために/私の肉体に健やかなところはなく/私の罪のために、骨に安らぎはありません。
38:5 私の過ちは頭を越えるほどにもなり/重い荷物のように重くのしかかります。
38:6 私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。
38:7 私は身をかがめ、深くうなだれ/日夜、打ちしおれて歩き回りました。
38:8 私の腰はただれにただれ/体に健やかなところはなくなりました。
38:9 私は力を失い、いたく打ち砕かれ/心は呻き、うなり声を上げるだけでした。
38:10 わが主よ/私の望みはすべてあなたの前にあります。/嘆きもあなたから隠されてはいません。
38:11 心は動転し、私の力も私を見捨て/目の光も私から離れ去りました。
38:12 愛する者も友も病の私から離れて立ち/親戚の者も遠くに立ちました。
38:13 私の命を狙う者は罠を仕掛け/私の災いを求める者は破滅を語り/日夜、欺きを口にします。
38:14 私は聞こえぬ者のように聞かず/黙する者のように口を開きません。
38:15 聞くこともせず/抗議も口にしない人のようになりました。
38:16 主よ、私はあなたを待ち望んでいました。/わが主、わが神よ、あなたは答えてくださいます。
38:17 私は言いました/「私のことで彼らが喜ばないように」と。/私の足が揺らぐと/彼らは私に尊大に振る舞いました。
38:18 私は今にも倒れそうです。/常に痛みが私の前にあります。
38:19 私は自分の過ちを告げ/罪のためにおびえます。
38:20 私の敵は意気盛んで、数を増し/私を憎む偽り者が増えています。
38:21 善に悪をもって報いる者が/善を求める私を訴えます。
38:22 主よ、私を見捨てないでください。/わが神よ、私から遠ざからないでください。
38:23 急いで私を助けに来てください。/わが主、わが救いよ。詩編 38編1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、『詩編』の第38編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「賛歌。ダビデの詩。記念のために」とあるように、第38編はダビデが歌った詩編です。そのことを前提にしてお話しします。

 2節から9節までを読みます。

 主よ、怒って私を責めず/憤って私を懲らしめないでください。あなたの矢が私を射抜き/あなたの手が私の上に降りて来ました。あなたの憤りのために/私の肉体に健やかなところはなく/私の罪のために、骨に安らぎはありません。私の過ちは頭を越えるほどにもなり/重い荷物のように重くのしかかっています。私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。私は身をかがめ、深くうなだれ/日夜、打ちしおれて歩き回りました。私の腰はただれにただれ/体に健やかなところはなくなりました。私は力を失い、いたく打ち砕かれ/心は呻き、うなり声を上げるだけでした。

 ダビデは、イスラエルの神、主の御名を呼びます。「主」とは、「私はあなたと共にいる」という約束を含む、ヤハウェと発音されたであろう神様のお名前です。主こそ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、シナイ山において律法を与え、約束の地を与えてくださった神であられます。その主に対して、ダビデは、「怒(いか)って私を責めず/憤って私を懲らしめないでください」と言うのです。このとき、ダビデは重い病を患っていたようです。そして、ダビデはその原因を自分の罪にあると考えていたようです。ダビデは、自分が大きな罪を犯したゆえに、主の懲らしめとして、大きな病を患っていると考えているのです。誤解のないように申しますが、聖書は、病や障害の原因が、必ずしも、その人の罪にあると教えてはいません。そのことを雄弁に物語っているのは、『ヨブ記』です。主の僕ヨブは、同じ日に、多くの財産とすべての子供たちを失いました。また、自らも悪性の腫れ物に打たれました。そのようなヨブに、三人の友人は、罪を告白して、悔い改めるようと勧めます。友人たちは、ヨブが神に大きな罪を犯したゆえに、大きな災いが下ったと考えたのです。しかし、ヨブは、「自分は罪を犯していない。潔白である」と主張するのです。ヨブはこう言います。「ああ、私の言葉を聞いてくれる者がいればよいのだが。ここに私の署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう」(ヨブ31:35〜37)。そのようなヨブに主は現れてくださり、嵐の中から答えてくださるのです。主はヨブに、御自分の創造と摂理の御業について尋ねられます。また、人間の手が及ばない野生動物の世界についてお語りになります。さらには、人間が支配することのできない、ベヘモットやレビヤタンについてお語りになります。ベヘモットはカバをモティーフ(題材)にした怪獣です。また、レビヤタンはワニをモティーフ(題材)にした怪獣です。ベヘモットとレビヤタンは、人間には理解できない不条理な苦しみを象徴しています。主は、ベヘモットやレビヤタンについて語ることにより、この世界には、人間にはどうしようもない不条理な苦しみがあること。しかし、その不条理な苦しみをも神は支配しておられることを教えられたのです。そのことを教えられて、ヨブは不条理な苦しみを改めて主の御手から受け取ることができたのです。そして、ヨブは、自分が塵や灰にすぎない、いち被造物であることを認めて、立ち返ることができたのです。『ヨブ記』について長くお話ししましたが、そこで教えられることは、この世には私たち人間にはどうしようもない不条理な苦しみがあること。しかし、その不条理な苦しみも神の御手のうちにあるということです。そして、ここに、私たちに対する力強い慰めがあるのです。

 また、病や障害の原因が、その人の罪にないことは、イエス様が教えていることでもあります。『ヨハネによる福音書』の第9章に、イエス様が生まれつき目の見えない人を見えるようにするお話しが記されています。弟子たちは、生まれつき目の見えない人について、イエス様にこう尋ねます。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。それに対して、イエス様はこうお答えになります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。ここでイエス様は、生まれつき目が見えないことの原因がその人の罪であることを否定しました。イエス様は、その原因を問うのではなく、その目的について語ります。すなわち、「神の業がこの人に現れるためである」と言うのです。神の業とは、「神が遣わされたイエス・キリストを信じること」です(ヨハネ6:29参照)。この人は生まれつき目が見えないことを通して、イエス・キリストを信じ、証しする者となるのです。

 このように、聖書は、病や障害の原因がその人の罪にあるとは必ずしも教えていません。しかし、今朝の御言葉で注意したいことは、病を患っているダビデ本人が、自分の病の原因を自分の罪にあると言っていることです。ヨブの友人たちやイエス様の弟子たちのように、第三者が言っているのではなくて、病を患っているダビデ本人がそのように言っているのです。このダビデの気持ちは、私たちにもよく分かると思います。病を患うことによって、自分自身のことを振り返って、神様に罪を告白して、癒やしを願う。そのことも聖書が教えている信仰者としてのあるべき姿だと思います。つまり、私たちは病をも、父なる神からの訓練として受け取るのです(ヘブライ12:1~13参照)。

 10節から17節までを読みます。

 わが主よ/私の望みはすべてあなたの前にあります。呻きもあなたから隠されてはいません。心は動転し、私の力も私を見捨て/目の光も私から離れ去りました。愛する者も友も病の私から離れて立ち/親戚の者も遠くに立ちました。私の命を狙う者は罠を仕掛け/私の災いを求める者は破滅を語り/日夜、欺きを口にします。私は聞こえぬ者のように聞かず/黙する者のように口を開きません。聞くこともせず/抗議も口にしない人のようになりました。主よ、私はあなたを待ち望んでいました。わが主、わが神よ、あなたは答えてくださいます。私は言いました。「私のことで彼らが喜ばないように」と。私の足が揺らぐと/彼らは私に尊大に振る舞いました。

 大きな病を患っているダビデは、癒やし主(ぬし)である主(しゅ)に望みを置きます。ダビデは自分自身を頼りにすることはできません。ダビデの心は動転し、その手に力がなく、その目には光もないからです。また、愛する友も親戚の者も頼りにできません。愛する友も親戚も病を患ったダビデから離れて行ったからです。ダビデは社会的に孤立していたのです。そのようなダビデの命を狙って、欺きを口にする者がいました。彼らは病に苦しむダビデを破滅させようとするのです。そのような彼らの言葉にダビデは耳を傾けませんでした。また、言い返すこともしませんでした。ダビデは、聞こえぬ者のように聞かず、黙する者のように口を開かなかったのです。ダビデは、すべてを知っておられる正しい裁き主(ぬし)である主(しゅ)を待ち望むのです。16節に、「主よ、私はあなたを待ち望んでいました。わが主、わが神よ、あなたは答えてくださいます」とあるように、自分を含めた人間にではなくて、主なる神を待ち望むのです。

 18節から23節までを読みます。

 私は今にも倒れそうです。常に痛みが私の前にあります。私は自分の過ちを告げ/罪のためにおびえます。私の敵は意気盛んで、数を増し/私を憎む偽り者が増えています。善に悪をもって報いる者が/善を求める私を訴えます。主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠ざからないでください。急いで私を助けに来てください。わが主、わが救いよ。

 ここにはダビデとその敵たちの違いが記されています。ダビデは、主に自分の過ちを告げ、主の御心に背く罪のために怯えています。それはダビデが主の御心に適う善を求める者であるからです。しかし、ダビデの敵たちは偽り者であり、主に自分の過ちを告げることはないのです。彼らは善に悪をもって報いる者(倒錯した者)であるのです。この詩編は、ダビデの嘆願の祈りで終わっています。ダビデの病が癒やされて、主に感謝の言葉を述べて終わるのではないのです。「主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠ざからないでください。急いで、私を助けに来てください。わが主、わが救いよ」。このような祈りで、この詩編は終わるのです。このダビデの祈りに、主は、御子イエス・キリストを遣わすことによって応えてくださいました。イエスとは、「主は救い」という意味です。『マタイによる福音書』によれば、聖霊によっておとめマリアから産まれた男の子は、神様によってイエスと名付けられました。それは、「この子は自分の民を罪から救うから」です。ダビデは、「急いで、私を助けに来てください。わが主、わが救いよ」と祈りましたが、ダビデの子ヨセフのいいなずけマリアから聖霊によってお生まれになったイエス様こそ、私たちの主であり、私たちの救いであるのです。神様は、御子イエス・キリストを遣わすことによって、私たちを罪から救ってくださり、「神は私たちと共におられる」というインマヌエルの祝福にあずからせてくださるのです。

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