御子による創造と和解 2025年8月31日(日曜 朝の礼拝)
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御子による創造と和解
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- 村田寿和 牧師
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コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節
聖書の言葉
1:15 御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。
1:16 天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。/万物は御子によって、御子のために造られたのです。
1:17 御子は万物よりも先におられ/万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はその体である教会の頭です。/御子は初めの者/死者の中から最初に生まれた方です。/それは、ご自身がすべてにおいて/第一の者となるためです。
1:19 神は、御心のままに/満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ
1:20 その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節
メッセージ
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先程は、『コロサイの信徒への手紙』の第1章9節から20節までを読みました。前回(先週)は9節から14節までお話ししましたので、今朝は15節から20節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、御父が私たちを闇の力から救い出して、愛する御子の支配下へと移してくださったことを学びました。また、私たちは御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ていることを学びました。続く今朝の御言葉、15節から20節には、御子がどのような御方であるかが記されています。パウロは、今朝の御言葉を、初代教会で歌われていた賛美歌を用いて記したと考えられています。それで、「聖書協会共同訳」は、15節から20節を詩編のように記しているのです。この賛美歌は大きく二つに分けることができます。そのことは、15節の「最初に生まれた方」と18節の「最初に生まれた方」に注目するとよく分かります。15節から18節前半までは、最初に生まれた方、御子の創造の御業について歌っています。また、18節後半から20節までは、最初に生まれた方、御子の和解の御業について歌っています。これらのことを念頭に置いて、今朝の御言葉を読み進めて行きます。
15節を読みます。
御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。
「御子」とはイエス・キリストのことですが、イエスと名付けられる前の、人となられる前の状態をも含んでいます。パウロが、「御子は、見えない神のかたちであり」と記すとき、御子が聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人としてお生まれになり、救い主としての生涯を歩まれたことを前提にしています。私たち人間の存在は、母親の胎内に宿った時から始まります。では、御子であるイエス様は、どうでしょうか。イエス様の存在は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿った時から始まったのでしょうか。そうではありません。『ヨハネによる福音書』の第1章は、そのことを私たちに教えています。新約の160ページです。第1章1節から3節までを読みます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
ここでの言(ことば)は、人になる前のイエス・キリストのことです。使徒ヨハネは、人になる前のイエス・キリストを言(ロゴス)と呼んで、言は神と向かい合う神であったと言うのです。また、言は神と共に万物を造られた御方であると言うのです。
飛んで14節を読みます。
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。
ここには、クリスマスの出来事が記されています。神である言は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人になりました。人になった言は、イエスと名付けられ、およそ30歳から救い主としての公の生涯を歩み出されました。使徒ヨハネは、そのイエス様の弟子として、「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と言うのです。
さらに飛んで17節と18節を読みます。
律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
「恵みと真理」は、旧約の言い回しですと「慈しみとまこと」となります。慈しみとまことは、神様の御性質の最たるものです(出エジプト34:6「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み」参照)。神様の慈しみとまことは、神の独り子イエス・キリストを通して現れました。目に見ることのできない神様は、ご自分がどのような御方であるかを示すために、懐にいる独り子である神、御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。
このことは、『ヘブライ人への手紙』の第1章が教えていることでもあります。新約の392ページです。第1章1節から3節までを読みます。
神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました。
『ヘブライ人への手紙』の著者も、「御子」という言葉を用いています。この御子とは、人になる前の言(ことば)を含むイエス・キリストのことです。3節を見ると、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって」と記されています。ここでは、言が肉となったことが言われているようです。神はそのような御子イエス・キリストにおいて、最終的に、決定的にお語りになったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
パウロが「御子は、見えない神のかたちであり」と記すとき、その背景には、御子が人になったことがあります。では、御子は人として生まれたことによって初めて存在したのかと言えばそうではありません。見えない神のかたちである御子は、「すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です」。ここでの「すべてのもの」には、時間も含まれています。『創世記』の第1章1節に、「初めに神は天と地を創造された」とありますが、神は天と地と同時に時間を造られました。ですから、「すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方」とは時間が造られる前の永遠の次元において、御父から御子がお生まれになったことを教えているのです。『ウェストミンスター信仰告白』の第2章「神について、また聖なる三位一体について」の3には、次のように記されています。「神[であること]の単一性の中に、同じ一つの本質、力、永遠性を持つ三つの位格がある。父なる神、子なる神、聖霊なる神である。御父は何ものにも由来せず、生まれもせず、出てくることもない。御子は御父から永遠に生まれる。聖霊は御父と御子とから永遠に出てくる」。今朝の御言葉、『コロサイの信徒への手紙』の第1章15節は、「御子は御父から永遠に生まれる」ことを教えているのです。
16節を読みます。
天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。
すべてのものが造られる前に、最初に生まれた御子は、万物を造られた御方であります。「王座も主権も/支配も権威も」とありますが、これらは、この世のもろもろの霊力や天使を指しています。コロサイの信徒たちは、偽教師たちに惑わされて、この世のもろもろの霊力や天使を礼拝していました(コロサイ2:8、15、18、20参照)。コロサイの信徒たちは、御子イエス・キリストを、王座や主権や支配や権威といったもろもろの霊力や天使と並べて崇めていたのです。そのようなコロサイの信徒たちのことを念頭において、パウロは、「王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです」と記すのです。御子イエス・キリストは、もろもろの霊力や天使をも造られた御方であるのです。
17節を読みます。
御子は万物より先におられ/万物は御子にあって成り立っています。
御子は万物を造られただけでなく、万物を成り立たせ、支えておられます(新共同訳「すべてのものは御子によって支えられています」参照)。御子は、万物を保ち、治めておられる摂理の主であるのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、また、聖霊の派遣によって、唯一の神に、父と子と聖霊という三つの位格(人格)があることを知りました。この世界を創造し、保ち治めておられる神は、父と子と聖霊なる三位一体の神であるのです。それゆえ、万物より先におられる御子は、万物を造られた御方であり、万物を成り立たせている御方であるのです。そのことは、人になられ、贖いの御業を成し遂げ、天にあげられた今も変わりません。私たちの主イエス・キリストは、万物の造り主(ぬし)であり、万物を保ち、治めておられる摂理の主(しゅ)であるのです。
18節の前半を読みます。
また、御子はその体である教会の頭(かしら)です。
パウロは、初代教会で歌われていた賛美歌を用いていますが、ここで「教会」という言葉を付け加えたと考えられています。当時、紀元一世紀のギリシア・ローマ世界において、世界全体が一つの体であるという考え方がありました。例えば、ギリシア人は、ゼウスを頭(かしら)とし、世界(宇宙)をその体であると考えていました。しかし、パウロは、「御子はその体である教会の頭(かしら)です」と記します。それは、教会こそが、御子イエス・キリストの復活の命にあずかる者たちであり、御子イエス・キリストに従う者たちであるからです(教会と訳される「エクレーシア」は「召し出された者の集い」の意味)。私たち教会の頭である御子イエス・キリストは、見えない神のかたちであります。御子イエス・キリストにおいて、私たちは神の栄光を見、神が慈しみとまことに満ちておられることを知ることができます。また、私たち教会の頭である御子イエス・キリストは、万物をお造りになり、万物を保ち、治めておられる御方であるのです。
18節後半から20節までを読みます。
御子は初めの者/死者の中から最初に生まれた方です。それは、ご自身がすべてにおいて/第一の者となるためです。神は、御心のままに/満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。
ここでパウロは、御子イエス・キリストが死者の中から最初に復活された御方であると語ります(黙1:5参照)。それは、ご自身がすべてにおいて第一の者となるためです。「第一の者となる」とは「卓越した者となる」という意味です。コロサイの信徒たちは、空しいだまし事の哲学に惑わされて、この世のもろもろの霊力や天使と並べて、御子イエス・キリストを礼拝していました。しかし、御子は初めの者であり、死者の中から最初に生まれた御方であるのです。そのことによって、御子イエス・キリストは第一の者、他の者とは比較にならない卓越した者となられたのです(キリストの絶対的優位性)。
パウロが、「御子は初めの者/死者の中から最初に生まれた方です。それは、ご自身がすべてにおいて/第一の者となるためです」と記すとき、御子イエス・キリストがご自分で復活したことを教えています。なぜ、御子イエス・キリストはご自分で復活することができたのでしょうか。それは、神が御心のままに、満ち溢れるものを、余すところなく御子の内に宿らせたからであります。「満ち溢れるもの」とは「満ち溢れる神性」のことです(コロサイ2:9「キリストの内には、満ち溢れる神性がことごとく、見える形をとって宿っており」参照)。御子イエス・キリストの内には、神の性質が満ち溢れていた。御子イエス・キリストは、ご自身の内に永遠の命を持っておられるのです(ヨハネ5:26「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」参照)。ですから、イエス様は、『ヨハネによる福音書』において、「私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言われたのです(ヨハネ10:18)。また、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と言われたのです(ヨハネ11:25)。
20節に、「その十字架の血によって」とありますが、この言葉もパウロが付け加えたと考えられています。パウロは、「その十字架の血によって」と記すことにより、神との平和、神との和解が、御子イエス・キリストの十字架の死という歴史的な出来事(事実)に由来することを強調するのです。御子イエス・キリストは、十字架の上で、御自分の命を献げることによって、平和を造り出してくださいました。神の御子であるイエス・キリストの命は、全世界の罪を贖って余りあるのです(一ヨハネ2:2参照)。神様は御子イエス・キリストに、御自分の民の罪を負わせて、その身代わりとして、十字架の死に引き渡されました。神様は、地にあるものも、天にあるものも、万物を御子によって御自分と和解させてくださったのです。コロサイの信徒たちは、世のもろもろの霊力や天使を仲介者として神様を礼拝していました。今も、ローマ・カトリック教会では、マリアや守護天使の名によって祈りをささげています。しかし、パウロは、天にあるものも、つまり、世のもろもろの霊力や天使も、御子によって神様と和解したと記すのです。御子イエス・キリストの贖いは、世のもろもろの霊力や天使をも包み込む、包括的な御業であるのです。御子イエス・キリストは万物の贖い主(ぬし)であるのです。私たちは、御子イエス・キリストによって、すべての罪を赦され、神様と和解させていただきました。神様は、私たち人間に、世のもろもろの霊力ではなく、天使でもなく、ただイエス・キリストだけを仲介者、仲保者として与えてくださいました。教会の頭である御子イエス・キリストは万物の造り主(ぬし)であり、万物の摂理の主(しゅ)であり、万物の贖い主(ぬし)であるのです。