命の泉はあなたのもとにある 2025年8月17日(日曜 夕方の礼拝)

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命の泉はあなたのもとにある

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 36章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

36:1 指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。
36:2 背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。/彼の目には神への畏れがない。
36:3 彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。
36:4 その口の言葉は悪事と欺き。/悟りを得ること、善を行うことをやめた。
36:5 彼は床の上で悪事をたくらみ/善からぬ道に立ち、悪を拒まない。
36:6 主よ、あなたの慈しみは天にあり/あなたのまことは雲にまで及びます。
36:7 あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。/主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。
36:8 神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。/人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。
36:9 彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒やします。
36:10 命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます。
36:11 あなたを知る人にあなたの慈しみを/心のまっすぐな人に/あなたの正義を絶えず注いでください。
36:12 高ぶる者の足が私に向かうことが/ありませんように。/悪しき者の手が私を路頭に迷わすことが/ありませんように。
36:13 悪事を働く者はそこで倒れた。/突き倒されて、立ち上がれなかった。
詩編 36章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めています。今夕は、第36編より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。1節に、「指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩」とあるように、第36編は、主の僕であるダビデが歌った詩編です。そのことを前提にして、お話しいたします。

 2節から5節までを読みます。

 背きの罪が悪しき者にささやくのが/私の心に聞こえてくる。彼の目には神への畏れがない。彼は自分の過ちを認め、憎むはずが/自分の目で自らにへつらった。その口の言葉は悪事と欺き。悟りを得ること、善を行うことをやめた。彼は床の上で悪事をたくらみ/善からぬ道に立ち、悪を拒まない。

 ダビデは、2節から5節で、「悪しき者」について語ります。背きの罪は、悪しき者に、罪を犯すようにささやくのです。そして、悪しき者は、背きの罪の奴隷として罪を犯すのです。そのような背きの罪と悪しき者の主従関係を、主の僕ダビデは、見抜くのです。悪しき者の特徴は「彼の目には神への畏れがない」ということです。悪しき者は神を畏れることがないので、平気で罪を犯すのです。しかし、神のかたちに造られた人間には、誰しも良心(自分の罪を責めるもう一人の自分)が与えられています。しかし、悪しき者は自らにへつらって、自分の過ちを認めようとはしないのです。悪しき者は罪を犯す自分に対して寛大(おおらか)であるのです。悪しき者は悪事と欺きを語り、悟りを得ようとせず、善を行うことをやめてしまいました。正しき者にとって、床の上は神様に心を向けるときですが、悪しき者は、床の上で悪事をたくらむのです。

 6節から10節までを読みます。

 主よ、あなたの慈しみは天にあり/あなたのまことは雲にまで及びます。あなたの正義は神の山々のよう/あなたの公正は大いなる深淵。主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒します。命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます。

 ダビデは、神を畏れる主の僕として、主をほめたたえます。「主」とは、その昔、ホレブの山でモーセに示された神様のお名前です。「わたしはあなたと共にいる」という約束を含んだ、ヤハウェと発音されたであろうお名前であります(出エジプト3:12参照)。ダビデは、主の慈しみとまことが天にまで及び、主の正義が神の山々のようにそびえ立ち、主の公正が深淵にも及んでいると歌います。主の慈しみとまこと、正義と公正は、天と地と深淵に及んでいるのです。ダビデは、あらゆる領域に及ぶ、包括的な主のご支配を歌っているのです。主は、人だけでなく獣も救ってくださいます。主は人だけではなく、獣にも日ごとの糧を備えてくださり、命を養ってくださるのです。このことは、『詩編』の第104編に詳しく記されています。旧約の924ページです。第104編の10節から28節までを読みます。

 あなたは泉を湧き上がらせて川とし/山々の間に流れさせる。野のすべての獣はその水を飲み/野ろばも渇きを癒やす。空の鳥は水のほとりに巣を作り/こずえの間からさえずり歌う。主は高殿から山々を潤す方。主の業の実りで地は満ち足りる。家畜のために草を/人間の働きに応じて青草を生やす方。こうして主は地からパンと/人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し/油で人の顔を輝かせる。パンは人の心を強くする。主の木々、主の植えた/レバノン杉は満ち足り/そこには鳥が巣をかけ/こうのとりは糸杉を住みかとする。高い山々は野山羊のもの/岩場は岩狸の逃れ場。

 主は季節のために月を造った。太陽は沈む場所を知っている。あなたが闇を造られると夜になり/その中で森の生き物はみな動き回り/若獅子は獲物を欲してほえ/神から食べ物を求める。太陽が昇ると、それらは戻って/巣穴に伏し/人は仕事に出かけ/日暮れまで働く。

 主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。海も大きく広々としている。その中のうごめくもの/大小の生き物は数知れない。そこには舟が行き交い/あなたの造られたレビヤタンも/その中で戯れる。

 これらは皆、あなたに望みを置き/その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを待っている。あなたが与えると、彼らは拾い集め/御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。

 少し長く読みましたが、このように、主は人も獣も救ってくださるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の852ページです。

 ダビデが8節の後半で、「人の子らはあなたの翼の陰に逃れます」と歌うときの「人の子ら」は、「神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう」とほめたたえる人の子らであります。背きの罪に従う悪しき者ではなくて、主に従う正しい者のことです。私たちは、背きの罪に従う悪しき者でしょうか。それとも、主に従う正しい者でしょうか。この点について、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第6章で次のように記しています。新約の276ページです。第6章15節から23節までを読みます。

 では、どうなのか。私たちは律法の下(もと)ではなく恵みの下(もと)にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。

 あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。

 私たちもかつては罪の奴隷でした(ローマ3:18「彼らの目には神への畏れがない」参照)。しかし、私たちは、神様の貴い慈しみによって、主イエス・キリストを信じる、義の奴隷とされたのです。それゆえ、私たちは、主に従う正しい者とされているのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の852ページです。

 私たちは、慈しみ深い主をほめたたえる者として、主の翼の陰に逃れます。子鳥が親鳥の翼の陰に逃れるように、私たちは、主のもとに逃れるのです。私たちは、礼拝に出席することにより、主の翼の陰に逃れるのです。そして、礼拝において、主の家の豊かさによって満ち足り、喜びの川に渇きを癒やすのです。礼拝の場に臨在される主イエス・キリストによって、霊的に満たされ、魂の渇きを癒やされるのです。

 10節に、「命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます」とあります。主イエス・キリストこそ、私たちの命の源であり、私たちを照らすまことの光であるのです。私たちは、イエス・キリストから聖霊を与えられて、イエス・キリストという啓示の光によって、まことの神を知る者とされたのです(ヨハネ7:37~39参照)。

 11節から13節までを読みます。

 あなたを知る人にあなたの慈しみを/心のまっすぐな人に/あなたの正義を絶えず注いでください。高ぶる者の足が私に向かうことが/ありませんように。悪しき者の手が私を路頭に迷わすことが/ありませんように。悪事を働く者はそこで倒れた。突き倒されて、立ち上がれなかった。

 ダビデは、「主を知る人に慈しみを、心のまっすぐな人に、正義を絶えず注いでください」と願います。そして、悪しき者が自分に危害を加えることがないようにと願うのです。13節は、格言のような響きを持っています。「悪事を働く者はそこで倒れた。突き倒されて、立ち上がれなかった」。悪しき者は、神を畏れず、神がいないかのように悪事を犯します。しかし、神はおられ、正しい裁きを行われるのです。使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」と語りました(ローマ6:23)。悪しき者はその主人である罪の手から死という報酬を受け取ることになるのです。しかし、私たちは、神の賜物として、一方的な恵みとして、主イエス・キリストにある永遠の命をいただくことになるのです。それゆえ、私たちは、「主イエス・キリストよ、命の泉はあなたのもとにあり、あなたの光によって、私たちは光を見ます」と大胆に語ることができるのです。

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