聖書の言葉 1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、1:2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ。私たちの父なる神から、恵みと平和があなたがたにありますように。コロサイの信徒への手紙 1章1節~2節 メッセージ 6月から、第四週の「主の日の礼拝」では、『コロサイの信徒への手紙』からお話ししたいと思います。『ルカによる福音書』からの説教が続いていますので、月に一度、『コロサイの信徒への手紙』から説教したいと思いました。今朝は、第1章1節と2節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。 1節と2節をお読みします。 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ。私たちの父なる神から、恵みと平和があなたがたにありますように。 ここには、手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。最初に、差出人についてお話しします。手紙の差出人は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテ」です。パウロとテモテの二人の名前が記されていますが、この手紙を書いたのは、パウロであり、テモテはその内容に同意する者として、名前を連ねています。ここで、パウロは、自分がどのような者として、この手紙を書くのかを記します。すなわち、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた者として、パウロは、この手紙を書くのです。「神の御心」は「神の意志」とも訳せます。パウロは、自分の意志で、キリスト・イエスの使徒となったのではなく、神の意志によって、キリスト・イエスの使徒とされたのです(使徒9章参照)。「キリスト・イエス」とありますが、「キリスト」は「油注がれた者」「王様」という意味で、ヘブライ語では「メシア」と言います。イスラエルでは、王になる人の頭に油を注ぎました。旧約の『サムエル記上』の第16章を読むと、預言者サムエルが、ダビデに油を注いだこと。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになったことが記されています。「油を注ぐ」ことは、「聖霊が注がれる」ことを見える形で表したものであるのです。『マタイによる福音書』の第3章を読むと、イエス様が、天から直接、聖霊を注がれて、メシア、王に任職されたことが記されています。聖書を開いて確認しましょう。新約の4ページです。『マタイによる福音書』の第3章16節と17節をお読みします。 イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 このように、イエス様は、神様から直接聖霊を注がれて、イスラエルのメシア、王に任職されたのです。ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は、およそ30歳のとき、聖霊を注がれて、メシア、王に任職されたのです(マタイ2:2、ルカ3:23参照)。しかし、そのことは、人々にはまだ隠されているのです。そのことが人々の前に明らかに示されるのは、十字架の場面においてです。第27章35節から37節までをお読みします。新約の56ページです。 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 このように、十字架につけられたイエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられました。これは、罪状書きでも何でもない、真実な言葉です。イエス・キリストはユダヤ人の王として、御自分の民の罪を担い、十字架の呪いの死を死んでくださったのです。神様は、そのイエス・キリストを復活させて、天と地の一切の権能を授けられ、全世界の王とされたのです。このことも聖書から確認しましょう。第28章18節から20節までをお読みします。新約の59ページです。 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地と一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 このように、復活されたイエス様は、天と地の一切の権能を授けられた全世界の王となられたのです。このことを、『使徒言行録』は、「イエス・キリストが天に昇り、父なる神の右の座に着いた」と言い表しました。イエス・キリストの昇天と着座は、イエス・キリストが天と地の一切の権能を授けられたことを意味しているのです。イエス・キリストは、ユダヤ人の王だけではなく、すべての人の王であられます。イエス・キリストは、日本人の王であり、フィリピン人の王であり、中国人の王であるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えているのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。 「キリスト・イエス」とは、「キリストであるイエス」「神によって油を注がれ、復活させられ、全世界の王とされたイエス」という意味です。パウロは、そのキリスト・イエスの使徒とされました。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、全権大使を意味します。古風な日本語で言えば、名代です。イエス様は、『マタイによる福音書』の第10章40節で、弟子たちを遣わすにあたってこう言われました。「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。イエス様が遣わされた弟子たちを受け入れることは、イエス様を受け入れることであるのです。さらには、イエス様を遣わされた神様を受け入れることであるのです。ですから、イエス・キリストの使徒パウロの言葉は、イエス・キリストの言葉であり、神の言葉であるのです。私たちは、イエス・キリストの使徒パウロの言葉を、イエス・キリストの言葉として、また神の言葉として読み進めていきたいと思います。 「兄弟テモテ」は、パウロの手紙に同意する、共同発信人として名前を連ねています。旧約の掟に、「真実は二人ないし三人の一致した証言によって確定される」と記されています(申命19:15「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」参照)。パウロがこれから記すことは、パウロ一人が信じていることではなく、主にある兄弟テモテが同意する真実であるのです。 ここには記されていませんが、パウロは、この手紙を牢獄の中で記しています。第4章3節にこう記されています。新約の364ページです。 同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。 このように、『コロサイの信徒への手紙』は、パウロが牢獄の中で書いた手紙、いわゆる獄中書簡であるのです。では、パウロは、どこの町の牢獄に捕らわれていたのでしょうか。これには大きく三つの説があります。それはエフェソ説とカイサリア説とローマ説です。私は、コロサイに近いエフェソ説を取りたいと思います。『使徒言行録』を読むと、パウロが3年間、エフェソで福音を宣べ伝えたことが記されています。そこには、パウロが投獄されたとは記されていません。しかし、パウロが記した『コリントの信徒への手紙二』の第11章にある「苦難のリスト」を読むと、パウロが『使徒言行録』に記されていない多くの苦難を経験したことが分かります(二コリント11:23「投獄されたこともずっと多く」参照)。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第15章32節で「エフェソで野獣と戦った」と記しています。また、『コリントの信徒への手紙二』の第1章8節と9節では、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いをしたアジア州での苦難について記しています(エフェソはアジア州の首都)。このことから、パウロはエフェソでも投獄されていたと考えられているのです。私がエフェソ説を取るのは、地理的にコロサイと近いということだけではなく、『フィレモンへの手紙』に根拠があります。『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『フィレモンへの手紙』は、いずれも獄中書簡であり、同じ牢獄で記されたと考えられています。その『フィレモンへの手紙』の22節に、こう記されています。新約の391ページです。 同時に、私のために宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせてもらえるように望んでいるからです。 このようなパウロの発言は、エフェソの牢獄から記したことを裏付けています。それで、私としては、パウロがエフェソの牢獄から『コロサイの信徒への手紙』を書き送ったという説を取りたいと思います。そうすると、パウロが『コロサイの信徒への手紙』を執筆したのは、紀元51年頃、第二次宣教旅行の時となります(使徒19章参照)。 今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。 次に、この手紙の受取人についてお話しします。この手紙の受取人は、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたち」です。コロサイは、ローマ帝国の属州アジア州の町で、現在のトルコ共和国がある小アジアにあります。巻末の聖書地図で場所を確認したいと思います。「12 パウロの第三次宣教旅行とローマへの旅」のBの6にコロサイとあります。コロサイはエフェソから東に160キロメートルほど離れたところにありました。このコロサイの町に、イエス・キリストを信じて神の民とされた聖なる者たちがいたのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。 2節に、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ」とあります。「聖なる者たち」とは、「聖なる神の民とされた者たち」のことです。コロサイの信徒たち、また、私たちは、イエス様を、キリスト、王と告白し、従うことによって、聖なる神の民とされたのです。パウロが、「キリストにある忠実なきょうだいたち」と記すとき、そのきょうだいたちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族としての兄弟姉妹のことです。ここでの「きょうだいたち」には、男性だけではなく、女性も含まれています(3:18「妻たちよ」参照)。また、大人だけではなく子供も含まれています(3:20「子どもたちよ」参照)。さらには、自由人だけではなく奴隷も含まれています(3:22「奴隷たち」参照)。「きょうだいたち」という言葉の中に、キリスト・イエスにある忠実なすべての者たちが含まれているのです。「キリスト・イエスにある」とは、「キリスト・イエスに結ばれている」とも訳すことができます(新共同訳参照)。パウロが「キリスト・イエスに結ばれている」と言うとき、二つのことが言えます。一つは、「信仰によって結ばれている」と言えます。私たちは「イエス・キリストは主である」という信仰によって、イエス・キリストに結ばれているのです。また、イエス・キリストを信じる信仰は、聖霊なる神の御業ですから、私たちは、聖霊によってイエス・キリストに結ばれていると言えます。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、信仰と聖霊によって、イエス・キリストに結ばれているのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」参照)。ですから、私たちは、コロサイの信徒に宛てて記された手紙を、私たちに宛てて記された手紙として読むことができるし、読むべきであるのです。 最後に、挨拶の言葉についてお話します。「私たちの父なる神から、恵みと平和があなたがたにありますように」。この挨拶の言葉を読んで、「あれ、おかしいなぁ」と思われた人がいるかもしれません。ここには、「主イエス・キリスト」のことが記されていないからです。通常、パウロは、挨拶の言葉を次のように記します。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」(ローマ1:7、一コリント1:3、二コリント1:2、ガラテヤ1:3、エフェソ1:2、フィリピ1:2、二テサロニケ1:2、フィレモン1:3参照)。しかし、ここには、「主イエス・キリスト」の名が記されていないのです。もちろん、パウロは、主イエス・キリストのことを抜きにして、父なる神からの恵みと平和について語っているのではありません。その直前に、「キリストにある忠実なきょうだいたちへ」と記しているように、パウロは、イエス・キリストにあって、父なる神の恵みと平和を祈りの求めているのです。「私たちの父なる神からの恵み」とは、イエス・キリストによって与えられる罪の赦しのことです。また、「私たちの父なる神からの平和」とは、イエス・キリストの十字架の血に基づく神様との和解のことです(1:20参照)。イエス・キリストに結ばれて神の子とされた私たちには、罪の赦しという恵みと、神様との和解という平和が与えられています。ですから、このパウロの挨拶は、祈りと言うよりも、恵みと平和の宣言であると言えます。「キリストに結ばれているあなたがたには、父なる神からの恵みと平和がある」とパウロは、力強く宣言しているのです。イエス・キリストに結ばれている私たちは、罪の赦しという恵みと、神様との和解という平和に生きる者とされているのです。 関連する説教を探す 2025年の日曜 朝の礼拝 『コロサイの信徒への手紙』
6月から、第四週の「主の日の礼拝」では、『コロサイの信徒への手紙』からお話ししたいと思います。『ルカによる福音書』からの説教が続いていますので、月に一度、『コロサイの信徒への手紙』から説教したいと思いました。今朝は、第1章1節と2節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節と2節をお読みします。
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ。私たちの父なる神から、恵みと平和があなたがたにありますように。
ここには、手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。最初に、差出人についてお話しします。手紙の差出人は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテ」です。パウロとテモテの二人の名前が記されていますが、この手紙を書いたのは、パウロであり、テモテはその内容に同意する者として、名前を連ねています。ここで、パウロは、自分がどのような者として、この手紙を書くのかを記します。すなわち、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた者として、パウロは、この手紙を書くのです。「神の御心」は「神の意志」とも訳せます。パウロは、自分の意志で、キリスト・イエスの使徒となったのではなく、神の意志によって、キリスト・イエスの使徒とされたのです(使徒9章参照)。「キリスト・イエス」とありますが、「キリスト」は「油注がれた者」「王様」という意味で、ヘブライ語では「メシア」と言います。イスラエルでは、王になる人の頭に油を注ぎました。旧約の『サムエル記上』の第16章を読むと、預言者サムエルが、ダビデに油を注いだこと。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになったことが記されています。「油を注ぐ」ことは、「聖霊が注がれる」ことを見える形で表したものであるのです。『マタイによる福音書』の第3章を読むと、イエス様が、天から直接、聖霊を注がれて、メシア、王に任職されたことが記されています。聖書を開いて確認しましょう。新約の4ページです。『マタイによる福音書』の第3章16節と17節をお読みします。
イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
このように、イエス様は、神様から直接聖霊を注がれて、イスラエルのメシア、王に任職されたのです。ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は、およそ30歳のとき、聖霊を注がれて、メシア、王に任職されたのです(マタイ2:2、ルカ3:23参照)。しかし、そのことは、人々にはまだ隠されているのです。そのことが人々の前に明らかに示されるのは、十字架の場面においてです。第27章35節から37節までをお読みします。新約の56ページです。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
このように、十字架につけられたイエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられました。これは、罪状書きでも何でもない、真実な言葉です。イエス・キリストはユダヤ人の王として、御自分の民の罪を担い、十字架の呪いの死を死んでくださったのです。神様は、そのイエス・キリストを復活させて、天と地の一切の権能を授けられ、全世界の王とされたのです。このことも聖書から確認しましょう。第28章18節から20節までをお読みします。新約の59ページです。
イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地と一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このように、復活されたイエス様は、天と地の一切の権能を授けられた全世界の王となられたのです。このことを、『使徒言行録』は、「イエス・キリストが天に昇り、父なる神の右の座に着いた」と言い表しました。イエス・キリストの昇天と着座は、イエス・キリストが天と地の一切の権能を授けられたことを意味しているのです。イエス・キリストは、ユダヤ人の王だけではなく、すべての人の王であられます。イエス・キリストは、日本人の王であり、フィリピン人の王であり、中国人の王であるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
「キリスト・イエス」とは、「キリストであるイエス」「神によって油を注がれ、復活させられ、全世界の王とされたイエス」という意味です。パウロは、そのキリスト・イエスの使徒とされました。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、全権大使を意味します。古風な日本語で言えば、名代です。イエス様は、『マタイによる福音書』の第10章40節で、弟子たちを遣わすにあたってこう言われました。「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。イエス様が遣わされた弟子たちを受け入れることは、イエス様を受け入れることであるのです。さらには、イエス様を遣わされた神様を受け入れることであるのです。ですから、イエス・キリストの使徒パウロの言葉は、イエス・キリストの言葉であり、神の言葉であるのです。私たちは、イエス・キリストの使徒パウロの言葉を、イエス・キリストの言葉として、また神の言葉として読み進めていきたいと思います。
「兄弟テモテ」は、パウロの手紙に同意する、共同発信人として名前を連ねています。旧約の掟に、「真実は二人ないし三人の一致した証言によって確定される」と記されています(申命19:15「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」参照)。パウロがこれから記すことは、パウロ一人が信じていることではなく、主にある兄弟テモテが同意する真実であるのです。
ここには記されていませんが、パウロは、この手紙を牢獄の中で記しています。第4章3節にこう記されています。新約の364ページです。
同時に、私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘義を語ることができますように。私は、このために牢につながれているのです。
このように、『コロサイの信徒への手紙』は、パウロが牢獄の中で書いた手紙、いわゆる獄中書簡であるのです。では、パウロは、どこの町の牢獄に捕らわれていたのでしょうか。これには大きく三つの説があります。それはエフェソ説とカイサリア説とローマ説です。私は、コロサイに近いエフェソ説を取りたいと思います。『使徒言行録』を読むと、パウロが3年間、エフェソで福音を宣べ伝えたことが記されています。そこには、パウロが投獄されたとは記されていません。しかし、パウロが記した『コリントの信徒への手紙二』の第11章にある「苦難のリスト」を読むと、パウロが『使徒言行録』に記されていない多くの苦難を経験したことが分かります(二コリント11:23「投獄されたこともずっと多く」参照)。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第15章32節で「エフェソで野獣と戦った」と記しています。また、『コリントの信徒への手紙二』の第1章8節と9節では、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いをしたアジア州での苦難について記しています(エフェソはアジア州の首都)。このことから、パウロはエフェソでも投獄されていたと考えられているのです。私がエフェソ説を取るのは、地理的にコロサイと近いということだけではなく、『フィレモンへの手紙』に根拠があります。『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『フィレモンへの手紙』は、いずれも獄中書簡であり、同じ牢獄で記されたと考えられています。その『フィレモンへの手紙』の22節に、こう記されています。新約の391ページです。
同時に、私のために宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせてもらえるように望んでいるからです。
このようなパウロの発言は、エフェソの牢獄から記したことを裏付けています。それで、私としては、パウロがエフェソの牢獄から『コロサイの信徒への手紙』を書き送ったという説を取りたいと思います。そうすると、パウロが『コロサイの信徒への手紙』を執筆したのは、紀元51年頃、第二次宣教旅行の時となります(使徒19章参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
次に、この手紙の受取人についてお話しします。この手紙の受取人は、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたち」です。コロサイは、ローマ帝国の属州アジア州の町で、現在のトルコ共和国がある小アジアにあります。巻末の聖書地図で場所を確認したいと思います。「12 パウロの第三次宣教旅行とローマへの旅」のBの6にコロサイとあります。コロサイはエフェソから東に160キロメートルほど離れたところにありました。このコロサイの町に、イエス・キリストを信じて神の民とされた聖なる者たちがいたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の360ページです。
2節に、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストにある忠実なきょうだいたちへ」とあります。「聖なる者たち」とは、「聖なる神の民とされた者たち」のことです。コロサイの信徒たち、また、私たちは、イエス様を、キリスト、王と告白し、従うことによって、聖なる神の民とされたのです。パウロが、「キリストにある忠実なきょうだいたち」と記すとき、そのきょうだいたちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族としての兄弟姉妹のことです。ここでの「きょうだいたち」には、男性だけではなく、女性も含まれています(3:18「妻たちよ」参照)。また、大人だけではなく子供も含まれています(3:20「子どもたちよ」参照)。さらには、自由人だけではなく奴隷も含まれています(3:22「奴隷たち」参照)。「きょうだいたち」という言葉の中に、キリスト・イエスにある忠実なすべての者たちが含まれているのです。「キリスト・イエスにある」とは、「キリスト・イエスに結ばれている」とも訳すことができます(新共同訳参照)。パウロが「キリスト・イエスに結ばれている」と言うとき、二つのことが言えます。一つは、「信仰によって結ばれている」と言えます。私たちは「イエス・キリストは主である」という信仰によって、イエス・キリストに結ばれているのです。また、イエス・キリストを信じる信仰は、聖霊なる神の御業ですから、私たちは、聖霊によってイエス・キリストに結ばれていると言えます。「イエス・キリストは主である」と告白する私たちは、信仰と聖霊によって、イエス・キリストに結ばれているのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」参照)。ですから、私たちは、コロサイの信徒に宛てて記された手紙を、私たちに宛てて記された手紙として読むことができるし、読むべきであるのです。
最後に、挨拶の言葉についてお話します。「私たちの父なる神から、恵みと平和があなたがたにありますように」。この挨拶の言葉を読んで、「あれ、おかしいなぁ」と思われた人がいるかもしれません。ここには、「主イエス・キリスト」のことが記されていないからです。通常、パウロは、挨拶の言葉を次のように記します。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」(ローマ1:7、一コリント1:3、二コリント1:2、ガラテヤ1:3、エフェソ1:2、フィリピ1:2、二テサロニケ1:2、フィレモン1:3参照)。しかし、ここには、「主イエス・キリスト」の名が記されていないのです。もちろん、パウロは、主イエス・キリストのことを抜きにして、父なる神からの恵みと平和について語っているのではありません。その直前に、「キリストにある忠実なきょうだいたちへ」と記しているように、パウロは、イエス・キリストにあって、父なる神の恵みと平和を祈りの求めているのです。「私たちの父なる神からの恵み」とは、イエス・キリストによって与えられる罪の赦しのことです。また、「私たちの父なる神からの平和」とは、イエス・キリストの十字架の血に基づく神様との和解のことです(1:20参照)。イエス・キリストに結ばれて神の子とされた私たちには、罪の赦しという恵みと、神様との和解という平和が与えられています。ですから、このパウロの挨拶は、祈りと言うよりも、恵みと平和の宣言であると言えます。「キリストに結ばれているあなたがたには、父なる神からの恵みと平和がある」とパウロは、力強く宣言しているのです。イエス・キリストに結ばれている私たちは、罪の赦しという恵みと、神様との和解という平和に生きる者とされているのです。