味わい、見よ、主の恵み深さを 2025年6月15日(日曜 夕方の礼拝)

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味わい、見よ、主の恵み深さを

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 34編1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

34:1 ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で気がふれたように装い、追われて去ったとき。
34:2 私はどのような時も主をたたえよう。/私の口には絶え間なく主の賛美がある。
34:3 私の魂は主を誇り/苦しむ人は聞いて喜ぶ。
34:4 私と共に主を崇めよ。/共に御名を崇めよう。
34:5 私が主を尋ね求めると/主は私に答え/あらゆる恐怖から助け出してくださった。
34:6 主を仰ぎ見る人は輝き/辱めに顔を伏せることはない。
34:7 苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き/あらゆる苦難から救ってくださった。
34:8 主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き/彼らを助け出した。
34:9 味わい、見よ、主の恵み深さを。/幸いな者、主に逃れる人は。
34:10 主の聖なる人よ、主を畏れよ。/主を畏れる人は乏しいことがない。
34:11 若い獅子は獲物がなくて飢えるが/主を尋ね求める人は/いかなる良いものも欠けることがない。
34:12 子らよ、来て私に聞き従え。/主を畏れることを教えよう。
34:13 命を慕い/日々を愛して恵みにまみえる人は誰か。
34:14 悪からあなたの舌を/欺きの言葉からあなたの唇を守れ。
34:15 悪から離れ、善を行え。/平和を求め、これを追え。
34:16 主の目は正しき人に注がれ/その耳は彼らの叫びを聞く。
34:17 主の御顔は悪を行う者に向き/彼らの記憶を地から絶つ。
34:18 正しき者が叫ぶと、主は聞き/あらゆる苦難から助け出した。
34:19 主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す。
34:20 正しき者に災いは多いが/主はそのすべてから助け出してくださる。
34:21 彼の骨をすべて守り/その一本も砕かれることはない。
34:22 災いは悪しき者を死に陥れる。/正しき者を憎む者たちは罪に定められる。
34:23 主はその僕らの魂を贖ってくださる。/主に逃れる人はすべて罪に定められることはない。詩編 34編1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では『詩編』からお話しています。今夕は、第34編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で気がふれたように装い、追われて去ったとき」とあります。第34編は、ダビデがアビメレクの前で気がふれたように装い、追われて去ったときに歌った詩であるのです。このことについては、『サムエル記上』の第21章11節から16節までに記されています。旧約の448ページです。

 その日ダビデはそこをたち、サウルから逃れてガトの王アキシュのもとに行った。アキシュの家臣たちはダビデについて言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。人々が踊りながら、『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った』と歌ったのは、この男ではありませんか。」ダビデはこの言葉が気にかかり、ガトの王アキシュを非常に恐れた。そこでダビデは人々の前で奇妙な振る舞いをし、捕らえられると気がふれたように見せ、町の門の扉をかきむしったり、ひげによだれを垂らしたりした。アキシュは家臣たちに言った。「よく見てみろ。この男は気が狂っている。なぜこんな男を私のもとに連れて来たのか。私のもとに狂った者が不足しているとでもいうのか。こんな男を連れて来て、その狂態を見せ、私の家に入れようというのか。」

 11節に、「ガトの王アキシュ」とありますが、『詩編』第34編では「アビメレク」となっていました。「アビメレク」とは「私の父は王」という意味であり、個人名ではなく、王の称号であります。ですから、ガトの王アキシュとアビメレクは、同一人物であるのです。サウル王のもとから逃れたダビデは、ペリシテの町ガトの王アキシュのもとに行きました。おそらく、ダビデは、アキシュに傭兵として雇ってもらおうと考えていたのだと思います。しかし、アキシュの家臣たちの中に、ダビデのことを知っている者たちがいたのです。当時、イスラエルとペリシテは、敵対関係にありました。ダビデは、自分の正体を知ったアキシュが、自分を殺すのではないかと非常に恐れて、気が狂っているように振る舞いました。そのようにしてダビデは、殺されずに済んだのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の849ページです。

 2節から5節までをお読みします。

 私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある。私の魂は主を誇り/苦しむ人は聞いて喜ぶ。私と共に主を崇めよ。共に御名を崇めよう。私が主を尋ね求めると/主は私に答え/あらゆる恐怖から助け出してくださった。

 ガトの王アキシュのもとから逃れることができたダビデは、主をほめたたえます。「主」とは、「私はあなたと共にいる」という約束を含むの神様のお名前です(出エジプト3:12、14参照)。ダビデは、危機的な状況においても、自分と共にいてくださる主の御名をほめたたえます。ガトの王アキシュのもとを去ったダビデは、アドラムの洞穴に逃れました。そのダビデのもとに、親族をはじめ、おおよそ400人の者が集まったのです(サムエル上22:1、2参照)。その400人の前で、ダビデは主の救いに感謝するのです。私たちは、このダビデの言葉から、ダビデが狂態を演じたときも、主に依り頼んでいたことを教えられます。主は、そのようなダビデをあらゆる恐怖から助け出してくださったのです。

 6節から8節までをお読みします。

 主を仰ぎ見る人は輝き/辱めに顔を伏せることはない。苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き/あらゆる苦難から救ってくださった。主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き/彼らを助け出した。

 ダビデは自分が救われた体験を、主を仰ぎ見る人すべてに当てはめています。なぜなら、主は、ダビデだけではなく、契約の民イスラエルの人々と共にいてくださる神であるからです。このことは、イエス・キリストを信じる私たちに、より確かな祝福として与えられています。イエス・キリストの別名は、「インマヌエル」(「神は私たちと共におられる」の意味)です(マタイ1:23「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」参照)。また、復活したイエス・キリストは、弟子たちにこう言われました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。聖霊と御言葉において、イエス・キリストはいつも私たちと共にいてくださいます。そのイエス・キリストにあって、父なる神がいつも私たちと共にいてくださるのです。『ヨハネによる福音書』の言い方ですと、聖霊において、私たちの内に、イエス・キリストと父なる神が住みこんでくださっているのです(ヨハネ14:23参照)。それゆえ、私たちは、主があらゆる苦難から救ってくださると確信することができるのです。

 9節から11節までをお読みします。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は。主の聖なる人よ、主を畏れよ。主を畏れる人は乏しいことがない。若い獅子は獲物がなくて飢えるが/主を尋ね求める人は/いかなる良いものも欠けることがない。

 ダビデは、「味わい、見よ、主の恵み深さを」と言います。ここでの「味わう」とは、「体験として知る」ということです。自分の体験として、主が恵み深い御方であることを知るということです。私たちは、それぞれの体験として、主イエス・キリストが恵み深い御方であることを味わいました(一ペトロ2:3「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです」参照)。そして、月に一度の「主の晩餐の礼典」において、パンを食べ、ブドウ汁を飲むことによって、主イエス・キリストが恵み深い御方であることを文字通り味わい知るのです(ヨハネ6:54「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」参照)。

 ダビデは、「主を畏れる人は乏しいことがない」と言います。主は御自分を尋ね求める人に、よいものを与えてくださいます。私たちは、主イエス・キリストから最もよいもの、神の霊である聖霊を与えられています(ルカ11:13「まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」参照)。私たちは聖霊によって、イエス・キリストに結び合わせれ、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子とされているのです。それゆえ、私たちは、父なる神が、生きていくのに必要なすべてのものを与えてくださると信じることができるのです(マタイ6:25~33参照)。そのような信仰をもって、私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っているのです。

 12節から17節までをお読みします。

 子らよ、来て私に聞き従え。主を畏れることを教えよう。命を慕い/日々を愛して恵みにまみえる人は誰か。悪からあなたの舌を/欺きの言葉からあなたの唇を守れ。悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え。主の目は正しき人に注がれ/その耳は彼らの叫びを聞く。主の御顔は悪を行う者に向き/彼らの記憶を地から絶つ。

 ここでダビデは、知恵の教師として語っています。今、水曜日の祈祷会で、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」を学んでいます(箴1:1)。ダビデが息子ソロモンに教えたであろう知恵の言葉がここに記されているのです。このところは、使徒ペトロが第一の手紙で引用している御言葉でもあります。新約の421ページです。第3章8節から12節までをお読みします。

 最後に言います。皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。「命を愛し/良い日々を過ごしたい人は/悪から舌を/欺きの言葉から唇を守れ。悪から離れ、善を行え/平和を求め、これを追え。主の目は正しい者に注がれ/その耳は彼らの祈りに傾けられる。主の御顔は悪を行う者に向けられる。」

 ここには、『詩編』の第34編10節から12節がそのまま引用されています。このことは、第34編の御言葉が、新約時代に生きる私たちにもそのまま当てはまることを教えています。命を愛し、善い日々を過ごしたいと願う私たちは、悪い言葉を語ることなく、悪から離れ善を行うべきであるのです。また、平和を求めて、平和を造り出すべきであるのです。なぜなら、主は悪を行う者に御顔を向けて、滅ぼしてしまわれるからです。主は罪を裁かれる御方である。そのことを、私たちは、主イエス・キリストの十字架の出来事を通して知っています。それだけでなく、私たちは、自分の罪が赦されたことをも知っているのです。罪の奴隷状態から解放された者として、私たちは舌を悪から守り、善を行い、平和を追い求めたいと願います。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の850ページです。

 18節から23節までをお読みします。

 正しき者が叫ぶと、主は聞き/あらゆる苦難から助け出した。主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す。正しき者に災いは多いが/主はそのすべてから助け出してくださる。彼の骨をすべて守り/その一本も砕かれることはない。災いは悪しき者を死に陥れる。正しき者を憎む者たちは罪に定められる。主はその僕らの魂を贖ってくださる。主に逃れる人はすべて罪に定められることはない。

 「正しき者」とは、「主を信じる者」のことです。主は正しき者の叫びを聞き、あらゆる苦難から助け出してくださいます。このことは、正しき者であっても、あらゆる苦しみを受けることを教えています。あらゆる苦しみの中で、正しい人の心は打ち砕かれるのです。しかし、主は、心の打ち砕かれた人と共にいてくださるのです。正しい者だからと言って、災いに遭わないわけではありません。むしろ、「正しき者に災いは多い」とダビデは言うのです。使徒パウロも、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます」と語っています(二テモテ3:12)。イエス・キリストを信じる正しい人は多くの災いに遭うのです。しかし、主はそのすべてから救い出してくださいます。彼の骨をすべて守り、その一本も砕かれることはないのです。このことは、イエス・キリストにおいて起こったことですね。イエス・キリストは正しい人でした。しかし、多くの災いに遭いました。十字架に磔にされて、心が打ち砕かれる体験をしました(マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」参照)。しかし、主なる神はそのようなイエス・キリストと共にいてくださり、骨が一本も砕かれないように守ってくださいました(ヨハネ19:33、36参照)。主なる神は、イエス・キリストを死者の中から栄光の体で復活させ、天へと上げられ、あらゆる名にまさる名、主という名をお与えになりました(フィリピ2:9~11参照)。そのようにして、主イエス・キリストは、私たちの魂を贖ってくださったのです。それゆえ、主イエス・キリストに逃れる私たちは罪に定められることがないのです(ローマ8:1「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」参照)。23節の御言葉、「主はその僕らの魂を贖ってくださる。主に逃れる人はすべて罪に定められることはない」という御言葉は、主イエス・キリストにおいて、私たちのうえに実現しているのです。

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