主を神とする民の幸い 2025年5月11日(日曜 夕方の礼拝)

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主を神とする民の幸い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 33章1節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

33:1 正しき人よ、主によって喜び歌え。/賛美はまっすぐな人にふさわしい。
33:2 琴をもって主に感謝せよ/十弦の竪琴をもって主をほめ歌え。
33:3 新しい歌を主に歌え/喜びの叫びと共に麗しく奏でよ。
33:4 主の言葉はまっすぐ/主の業はすべて真実。
33:5 主は正義と公正を愛し/主の慈しみに地は満ちる。
33:6 天は主の言葉によって/天の万象は主の口の息によって造られた。
33:7 主は大海の水を革袋に入れるように集め/深淵の水を倉に納めた。
33:8 全地は主を畏れる。/世界に住む者は皆、主の前におののく。
33:9 主が語ると、そのように成り/主が命じると、そのように立った。
33:10 主は国々の思いを挫き/もろもろの民の計らいを絶たれた。
33:11 主の思いはとこしえに/その心の計らいは代々に立つ。
33:12 幸いな者/主を神とする国民/主がご自分のものとして選んだ民。
33:13 主は天から見つめ/すべての人の子らを御覧になった。
33:14 座しておられる住まいから/地に住むすべての者に目を注がれた。
33:15 彼らの心をあまねく造られる方/その行いをすべて見分けられる方。
33:16 王は軍勢の大きさによって救われるのではない。/勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。
33:17 馬は勝利に頼みとはならない。/力の大きさでは人を救い出せない。
33:18 見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。
33:19 彼らの魂を死から助け出し/飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるために。
33:20 私たちの魂は主を待つ。/この方こそ我らの助け、我らの盾。
33:21 主によって私たちの心は喜ぶ。/まことに、私たちは聖なる御名を頼みとする。
33:22 主よ、あなたの慈しみが/私たちの上にありますように。/私たちはあなたを待ち望みます。
詩編 33章1節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めています。今夕は第33編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から3節までをお読みします。

 正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい。琴をもって主に感謝せよ/十弦の竪琴をもって主をほめ歌え。新しい歌を主に歌え/喜びの叫びと共に麗しく奏でよ。

 ここで詩人は、私たちに、主を賛美するようにと呼びかけています(33編は「ダビデの詩」と記されていないので、作者を「詩人」と呼ぶ)。「正しき人」とは、主に信頼する人のことです。『創世記』の第15章6節に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあるように、主を信頼する人こそ、神の御前に正しい人であるのです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第4章で、「主はそれを彼の義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、私たちのためでもあったと記しています。アブラハムは、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じて、正しい者とされました。それと同じように、私たちも、主イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じて、正しい者とされているのです。アブラハムが信仰によって正しい者とされたように、私たちも信仰によって正しい者とされているのです。

 私たちは、主イエス・キリストを復活させた神を信じる者として、神の御前に正しい人、まっすぐな人とされています。それゆえ私たちも、主イエス・キリストによって喜び歌うべきであるのです。また、私たちにとって、主を賛美することはふさわしいことであるのです。

 2節に「琴」や「十弦の竪琴」をもって主をほめ歌うようにと記されています。楽器を用いて、主を賛美するようにと呼びかけています。私たちでしたら、「オルガン」をもってと言い換えることができると思います。私たちは、主イエス・キリストを信じる正しい人として、オルガンの伴奏に合わせて、主をほめたたえているのです。

 3節に「新しい歌を主に歌え」とあります。私たちは『讃美歌21』を用いて、主を賛美しています。そこには、今の時代に生きるキリスト者として、新しい歌で主を賛美したいという願いが込められているのです(讃美歌21の「まえがき」参照)。

 4節から7節までをお読みします。

 主の言葉はまっすぐ/主の業はすべて真実。主は正義と公正を愛し/主の慈しみに地は満ちる。天は主の言葉によって/天の万象は主の口の息によって造られた。主は大海の水を革袋に入れるように集め/深淵の水を倉に納めた。

 4節と5節には、私たちがアーメン(そのとおり)と受け入れるべき、信仰の告白が記されています。また、6節と7節には、主の創造の御業が記されています。ここで「息」と訳されている言葉(ルーアハ)は「霊」とも訳せます。天とその万象である太陽や月や星は、主の御言葉と霊によって創造されました(創世1:1、1:14〜16参照)。また、主は大海の水を革袋に入れるように集めて、深淵の水を倉に納めました。そのようにして主は海と陸とを分けられたのです(創世1:9、10参照)。主は天地万物を造られた御方であり、私たち人間も主によって造られたゆえに、主をほめたたえるべきであるのです。

 8節から11節までをお読みします。

 全地は主を畏れる。世界に住む者は皆、主の前におののく。主が語ると、そのように成り/主が命じると、そのように立った。主は国々の思いを挫き/もろもろの民の計らいを絶たれた。主の思いはとこしえに/その心の計らいは代々に立つ。

 詩人は、「全地は主を畏れる。世界に住む者は皆、主の前におののく」と言います。それは、「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った」からです。ここには、主の御言葉が出来事になることが言い表されています。主が「光あれ」と言われると「光があった」ように、主の御言葉は出来事になるのです(創世1:3参照)。そして、このことは、創造の御業においてだけではなく、摂理の御業においても言えるのです。主は国々の思いを挫き、もろもろの民の計らいを絶たれました。そのようにして、主は心の計らいを代々に実現されるのです。それゆえ、私たちは、主の救いの約束を信じて、安心して歩んでいくことができるのです。

 12節から15節までをお読みします。

 幸いな者/主を神とする国民(くにたみ)/主がご自分のものとして選んだ民。主は天から見つめ/すべての人の子らを御覧になった。座しておられる住まいから/地に住むすべての者に目を注がれた。彼らの心をあまねく造られる方/その行いをすべて見分けられる方。

 詩人は、「主を神とする国民(くにたみ)は幸いである」と言います。なぜなら、主こそ、唯一の生けるまことの神であるからです。この国民(くにたみ)は、文脈で言えば、主が奴隷の家エジプトから導き出して、シナイ山で契約を結んだイスラエルの民のことです(出エジプト19:1~18参照)。主は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民を選んで、ご自分の宝の民とされました。その主が、アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストを信じる私たちをご自分の宝の民としてくださったのです(マタイ1:1、一ペトロ2:1~10参照)。主イエス・キリストを信じる私たちは、主の選びの民であり、幸いな者であるのです(エフェソ1:4参照)。

 13節から15節には、主がすべての人を御覧になっていること。人の心を造られた主は、その心を御覧になり、その行いをすべて見分けられることが記されています。私たちの心と体を造られた主は、私たちの思いと言葉と行いを裁かれる御方であるのです。

 16節から22節までをお読みします。

 王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。馬は勝利に頼みとはならない。力の大きさでは人を救い出せない。見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。彼らの魂を死から助け出し/飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるために。私たちの魂は主を待つ。この方こそ我らの助け、我らの盾。主によって私たちの心は喜ぶ。まことに、私たちは聖なる御名を頼みとする。主よ、あなたの慈しみが/私たちの上にありますように。私たちはあなたを待ち望みます。

 詩人は、16節と17節で、軍勢の大きさや力の大きさが救いをもたらすのではないと言います。17節に「馬」とありますが、古代オリエントの世界において馬は大きな戦力でした。しかし、馬も勝利の頼みとはならないと言うのです。では、人を救い出して、勝利を与えるのは何か。それは、創造と摂理の神である主であります。ここで注意したいことは、主自らがご自分の民を救い出そうとしておられるということです。主は、私たちの叫び声を聞いて、ようやく重い腰を上げるような御方ではありません。18節にあるように、主の目は主を畏れる人に、主の慈しみを待ち望む人に向けられているのです。それは、彼らの魂を死から助け出し、飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるためであります。それゆえ、私たちは主イエス・キリストを待ち望むことができるのです。なぜなら、「この方こそ、我らの助け、我らの盾」であるからです。天から再び来られる主イエス・キリストによって、私たちは罪の支配から完全に救われるのです(黙示19〜22章参照)。

 私たちの主イエス・キリストは、十字架と復活によって、私たちの救いを成し遂げてくださいました(ヨハネ19:30「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」参照)。主イエス・キリストは、すでに世に勝っておられます(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」参照)。それゆえ、私たちは、主にあって喜び、聖なる御名を頼みとすることができるのです。「主よ、あなたの慈しみが/私たちの上にありますように」と祈りつつ、主イエス・キリストを待ち望むことができるのです。

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