平和を造る人々は幸いである 2025年4月27日(日曜 朝の礼拝)
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平和を造る人々は幸いである
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 4章23節~5章12節
聖書の言葉
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。
4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。
5:5 へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。
5:9 平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
5:11 私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 4章23節~5章12節
メッセージ
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今日は、午後からワークヒルズ羽生において、半日修養会を開催します。半日修養会では、2023年の第78回定期大会において採択した「平和の福音に生きる教会の宣言」をご一緒に読み、懇談のときを持ちたいと思っています。その良き備えとして、今朝は、山上の説教の冒頭に記されている「幸いの教え」、特に9節の「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる」という御言葉について学びたいと思います。
9節を取り上げる前に、幸いの教えを正しく理解するための四つの原則についてお話ししたいと思います(D・M・ロイドジョンズ著『山上の説教』参照)。
幸いの教えを正しく理解するための一つ目の原則は、ここでイエス様が「幸いである」と言われる人々の性質は生まれながらのものではなく、神の賜物として与えられた性質であるということです。例えば、3節に「心の貧しい人々は、幸いである」とあります。「心の貧しい人々」とは、「神様だけに依り頼む人々」のことです。イエス様が「心の貧しい人々は幸いである」と言われるとき、生まれながら神様だけに依り頼む人々に対して、幸いであると言われたのではありません。そうではなく、神様によって、神様だけに依り頼む者とされた人々に対して、幸いであると言われたのです。4節の「悲しむ人々」も同じです。ここでの悲しみは、何より罪に対する悲しみです。神の教えに従うことができない自分の罪、神の教えに従おうとはしない他人の罪を悲しむ人々のことが言われているのです。そのような悲しみは、人間が生まれながらに持っている悲しみではなく、聖霊の賜物として与えられている悲しみであるのです。
幸いの教えを正しく理解するための二つ目の原則は、八つのグループのことが言われているのではなくて、ただ一つのグループのことが言われているということです。つまり、「心の貧しい人々」は「悲しむ人々」であり、「へりくだった人々」であり、「義に飢え渇く人々」であり、「憐れみ深い人々」であり、「心の清い人々」であり、「平和を造る人々」であり、「義のために迫害された人々」であるのです。そして、この一つのグループとは、イエス様の御もとに集まって、イエス様の教えを聞いている弟子たち(私たち)のことであるのです。イエス様は、弟子である私たちに対して、「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。云々」と言われるのです。イエス・キリストの弟子である私たちは心の貧しい人々、悲しむ人々、へりくだった人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を造る人々、義のために迫害された人々であるのです。それは、私たちの主であり、師であるイエス様がそのような御方であるからです。イエス様こそ心の貧しい人、悲しむ人、へりくだった人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を造る人、義のために迫害された人であるのです。私たちはイエス様の聖霊を与えられて、イエス様に倣う者とされているので、私たちも心の貧しい人々、悲しむ人々、へりくだった人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を造る人々、義のために迫害された人々とされているのです。幸いの教えには、私たちの主であり師であるイエス様がどのような御方であるのかが記されているのです。また、イエス・キリストの弟子である私たちがどのような者たちであるのかが記されているのです。
幸いの教えを正しく理解するための三つ目の原則は、教えの順序を意識して、前の教えを踏まえて解釈するということです。私は先程、「悲しむ人々とは、自分の罪について、また他人の罪について悲しむ人々のことである」と申しました。なぜ、そのように言えるのか。それは、「悲しむ人々」が「心の貧しい人々」であるからです。つまり、ここでイエス様が言われている悲しみは、「心の貧しい人々」が抱く特有の悲しみであるのです。多くの人に共通の悲しみではなく、心の貧しい人々に特有の悲しみのことが言われているのです。そして、その悲しみとは、イエス・キリストに従うことができない自分の罪に対する悲しみであり、イエス・キリストに従おうとしない人々の罪に対する悲しみであるのです。5節の「へりくだった人々」も同じです。自分の罪と他人の罪を悲しむ人々は、神の御前に高ぶることはできません。罪に悲しむ人々は、神の御前にへりくだった人々であるのです。このように、幸いの教えは、その前の教えを踏まえて解釈すべきであるのです。では、最初の「心の貧しい人々」についてはどうでしょうか。「心の貧しい人々」は、第4章23節から25節を踏まえて解釈すべきであります。そこには、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者を、イエス様が癒やされたことが記されています。この人々こそ、「心の貧しい人々」であるのです。彼らはイエス様に癒やされることによって、また悪霊を追い出していただくことによって、天の国の祝福にあずかっているわけです。イエス様は、山上の説教を第一に弟子たちにお語りになりましたが、群衆を排除されたわけではありません(7:28参照)。そのような意味で、イエス様の幸いの教えは、幸いへの招きであると言えるのです。
幸いの教えを正しく理解するための四つ目の原則は、イエス様が幸いであると言われる理由が現在形と未来形で記されていることに注意して読むことです。イエス様の言葉は、幸いの宣言と、その理由からなっています。「心の貧しい人々は幸いである。なぜなら、天の国はその人たちのものであるから」。このように、幸いの宣言とその理由が述べられているのです。最初と最後の幸いの教え、3節と10節の理由は同じです。「天の国はその人たちのものである」。これは現在形で記されています。心の貧しい人々であり、義のために迫害された人々である私たちは、イエス・キリストにおいて到来した神の国の祝福に今すでにあずかっているのです。私たちは今、神の命と恵みの支配の内に生きているのです。けれども、4節から9節までの理由は、いずれも未来形で記されています。それは将来、神様によってそのようにされるという意味です。例えば4節は、「悲しむ人々は、幸いである。なぜなら、その人たちは神様によって慰められるであろうから」と記されているのです。この背景には、神の国はすでに到来したが、いまだ完成していないという神の国の奧義があります。イエス・キリストにのみ依り頼む私たちは、神の国の祝福に今あずかっています。しかし、罪に悲しむ私たちが神様によって慰められるのは将来のことであるのです。イエス・キリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地においてであるのです。私たちは、幸いの教えの理由が現在形と未来形で記されていることに注意することにより、「神の国はイエス・キリストにおいてすでに到来したが、いまだ完成していない」という神の国の奧義を確認することができるのです。
幸いの教えを正しく理解するための原則についてはこのぐらいにして、9節の「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる」という御言葉についてお話ししたいと思います。
イエス様が「平和を造る人々は、幸いである」と言われるとき、その「平和」(エイレーネー)とは、旧約聖書が教える平和、シャロームを前提にしています。聖書が教える平和(シャローム)とは、戦争のない状態ばかりでなく、あらゆる点において満ち足りている完全な状態を意味します。聖書は神様のことを「平和の神」と言います(ローマ16:20、フィリピ4:9)。神そのものが平和であるのです。イエス・キリストの復活と聖霊の派遣によってご自分を示された神様は、父と子と聖霊なる三つにしてただ一人の神様です。
父と子と聖霊なる神は、父と子と聖霊における交わりに生きる神であります。父なる神と子なる神との聖霊における永遠の愛の交わりは平和そのものであるのです。聖書は、何事も神様との関係において捉えますから、平和も神様との関係において捉えています。つまり平和とは、神の平和であり、神との平和であるのです。イエス様が「平和を造る人々は、幸いである」と言われるとき、その平和、シャロームとは神の平和、神との平和であるのです。「平和を造る人々は幸いである」。このイエス様の御言葉は、この世界から神の平和が失われていることを前提にしています。元来、神様が造られた世界は、極めて良い世界でした(創世1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」参照)。そこには神の平和、神との平和が満ち満ちていたのです。その象徴がエデンの園であったのです。エデンの園には、神と人との親しい交わりがありました。また、エデンの園には、食べるのに良さそうなあらゆる木が生えていました。はじめの人アダムと女は、霊的にも、物質的にも満ち満ちた状態、シャロームの状態にあったのです。しかし、そのシャローム、平和が失われてしまいます。それは、はじめの人アダムが神様から与えられた掟に背いて、罪を犯してしまったからです。神様は、エデンの園において、アダムに一つの掟を与えました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世2:17)。この神の掟に背いて、アダムは善悪の知識の木から食べてしまったのです。その罪によって、神の平和、神との平和が失われてしまったのです。その証拠に、アダムと女はエデンの園から追放されるのです。エデンの園から追放されたアダム(人間)は、生涯にわたり、苦しんで食べ物を得ることになります。土から取られたアダム(人間)は土に帰るまで額に汗を流して糧を得ることになるのです。そればかりか、カインが弟のアベルを殺してしまうのです。罪と死が世界を支配するようになる。そのような良き創造の状態から堕落した世界で、平和を造る人々は幸いであるとイエス様は言われるのです。この「平和を造る人々」とは、イエス・キリストの弟子である私たちのことです。イエス様は、ご自分の弟子である私たちを「平和を造る人々」と呼ばれるのです。それは、私たちの主であり、師であるイエス様が「平和を造る人」であるからです。イエス様は、第二のアダム(最後のアダム)として、神の掟を完全に守ってくださいました。イエス様は、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従いました。イエス・キリストの十字架の死によって、私たちに神の平和、神との平和が与えられたのです(イザヤ53:5参照)。イエス・キリストは、『イザヤ書』の第53章に記されている主の僕として、私たちの罪を担い、私たちの罪を贖う十字架の死を死んでくださったのです。そして、私たちを正しい者とするために三日目に復活してくださいました。そのようにして、イエス・キリストは、この世界に、神の平和、神との平和をもたらしてくださったのです(ヨハネ14:27「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」参照)。
イエス・キリストの弟子である私たちは、「天の父なる神様」と呼びかけて祈ります。私たちはイエス・キリストに結ばれた神の子として、「天の父なる神様」と祈るのです。それは、イエス・キリストによって神の平和、神との平和が与えられているからです。また、私たちは、互いのことを「主にある兄弟姉妹」と呼びます。それは、主イエス・キリストにあって、互いの間に、平和が与えられているからです。イエス・キリストが十字架の死と復活によって造り出してくださった平和は、神との平和であり、人と人との平和であるのです。そのイエス・キリストの平和が実現している交わりこそ、キリストの教会であるのです(エフェソ2:14~18参照)。
私たちはイエス・キリストの平和に生きる者として、平和を造り出すことが求められています。それは第一に、イエス・キリストの平和の福音を宣べ伝えることであります。私たちの福音宣教と教会形成の働きは、平和を造るための働きであるのです。けれども、そこに留まるものではありません。イエス・キリストが「平和を造る人々は幸いである」と言われるとき、その平和は、「戦争と平和と国家」の問題、「平和と正義と愛の業」の問題、「平和のための協働と連帯」の問題へと及ぶのです。そのことが「平和の福音に生きる教会の宣言」に記されています。戦争の時代とも呼ばれる現代社会で、私たちはどのように生きればよいのか。その一つの指針が「平和の福音に生きる教会の宣言」であるのです(大会時報243号、日本キリスト改革派教会ホームページを参照)。
イエス様は、「平和を造る人々は神の子と呼ばれる」と言われます。それは平和を造ることが、もっとも神の子らしいことであるからです。神の子であるイエス様に結ばれて、私たちも神の子とされ、平和を造る者とされているのです。「その人たちは神の子と呼ばれる」。このイエス様の言葉は未来形で記されています。つまり、「将来、新しい天と新しい地において、神様から神の子と呼ばれる」ということです。私たちは今すでに、聖書を通して、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という御言葉をいただいています(ルカ3:22)。また、イエス・キリストの聖霊によって、「アッバ父よ」と叫ぶ一筋の心(清い心)を与えられています(ガラテヤ4:6参照)。そのようにして私たちは、「天の父なる神様」に祈り、主にある兄弟姉妹との交わりに生きる者とされているのです。そして、私たちは、イエス・キリストが天から再び来られることによって完成する栄光の御国において、神様から直接、「あなたは私の愛する子だ」と言っていただけるのです。そのようにして、私たちは、もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない完全な平和(シャローム)に生きる者となるのです(黙21:4参照)。