心の貧しい人々は幸いである 2025年3月16日(日曜 夕方の礼拝)
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心の貧しい人々は幸いである
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 4章23節~5章12節
聖書の言葉
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 4章23節~5章12節
メッセージ
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(この説教は代理牧師として、宇都宮教会で語ったものです)
今朝は、私が代理牧師として、宇都宮教会の皆さんにお話しする最後の説教となります。どこからお話ししようかと考えたのですが、『マタイによる福音書』の第5章を選ばせていただきました。ここには、イエス様が山の上で教えられた「山上の説教」の冒頭の教え、「幸いについての教え」が記されています。山上の説教は、福音書記者マタイがイエス様の教えをまとめたもので、第5章から第7章に渡って記されています。先程は第5章1節から12節までをお読みしましたが、今朝は1節から3節までを中心にしてお話しいたします。
1節から3節までをお読みします。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「イエスはこの群衆を見て」とありますが、「この群衆」とは、イエス様によって病を癒やしていただいた群衆のことです。第4章25節には、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢いの群衆が来てイエスに従った」と記されています。この群衆を見て、イエス様は、山に登られたのです。そのことは、イエス様がこの群衆に対しても、山上の説教を教えられたことを示しています。そのことは、山上の説教の終わりを読むと分かります。第7章28節と29節に、こう記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。ここで「群衆はその教えに非常に驚いた」とあるように、イエス様は群衆にも山上の説教をお語りになったのです。けれども、イエス様が第一に教えられたのは、弟子たちであります。このことは、礼拝の説教のことを考えれば分かりやすいと思います。礼拝の説教は、まだイエス様を信じていない未信者、求道者にも語られていますが、第一の聴衆はイエス様の弟子たちであるのです。ところで、イエス様は、なぜ、山に登られたのでしょうか。このことは、神の掟である律法が、シナイの山で与えられたことに関係があると思います(出エジプト19章参照)。その昔、主なる神が、シナイの山の上で、イスラエルの民に律法(トーラー)を与えられたように、イエス様は、ガリラヤの山の上で、弟子たちに教え(トーラー)を与えられるのです。イエス様が腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来ました。「腰を下ろして教える」ことは、律法の教師であるラビが正式に教えるときのスタイルです。それで、弟子たちは近くに寄って来ったのです。イエス様は、口を開いて、こう教えられました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。文語訳聖書は、このところを「幸いなるかな、心の貧しき者」と翻訳しています。こちらの方がもとの言葉に近く、イエス様の言葉の勢いをよく表しています。イエス様は「幸いなるかな、心の貧しい人たち」と言われたのです(詩1:1、2「いかに幸いなことか/・・・・・・主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」参照)。「心」と訳されている言葉(プニューマ)は「霊」とも訳すことができます(8節の「心」はカルディア)。「心の貧しい人々」は「霊において貧しい人々」であるのです。また、「貧しい」と訳されている言葉は「物乞いするような貧しさ」を表します。ここで言われている貧しさは、物乞いをしなくては生きていけない極度の貧しさであるのです。では、「霊において貧しい人々」とはどのような人々のことを言うのでしょうか。それは神の御前に依り頼むものを何一つ持っていない人々のことです。神様だけに依り頼む人々のことです。イエス様は、そのような人々を「幸いである」と言われます。なぜなら、「天の国はその人たちのものである」からです。「天の国」とは「神の国」のことです。もう少し正確に言うと、「神の王国」「神の王的なご支配」のことです。イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました(マタイ4:17)。天から聖霊を注がれてメシア、王となられたイエス様において、天の国は到来したのです(神の国はイエス・キリストの宣教によって到来し、イエス・キリストの十字架と復活によって樹立し、イエス・キリストの再臨によって完成する)。そのイエス・キリストにおいて到来した天の国の祝福に、心の貧しい人々は、今すでにあずかっているのです(「天の国はその人たちのものである」は現在形で記されている)。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。これと似たような言葉が旧約聖書の『イザヤ書』の第57章15節に記されています。旧約の1156ページです。
高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
主なる神は、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」と言われます。この「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」こそ、イエス様が「幸いである」と言われる「心の貧しい人々」であるのです。心の貧しい人々とは、いろいろな苦しみや悩みによって打ち砕かれて、神の御前にへりくだることを教えていただいた者たちであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の6ページです。
イエス様はいろいろな病気や苦しみに悩んでいた群衆を見て、山に登られました。私はこの群衆も、心の貧しい人々であったと思います。彼らはいろいろな苦しみや悩みによって打ち砕かれ、神の御前にへりくだることを神から教えていただいた者たちであるのです。いろいろな苦しみや悩みは私たちが打ち砕かれて、神の御前にへりくだるための招きであるのです。イエス様は、「心の貧しい人々は幸いである」と言われました。しかし、生まれながらの人間は神の御前に自らを誇り、高ぶっています(神ではないものに依り頼む)。ですから、イエス様が言われる「心の貧しい人々」とは、神の霊である聖霊のお働きによって心を貧しくされた人々のことを言っているのです。イギリスの有名な説教者にD・M・ロイドジョンズという人がおります。ロイドジョンズが記した『山上の説教』という書物が日本語に翻訳されています。その書物において、ロイドジョンズが強調していることは、「イエス様が幸いであると言われているのは、人間が生まれながらにもっている気質ではなくて、聖霊によって与えられた気質のことである」ということです。生まれながらに「心の貧しい人」がいて、その人を見いだして、「あなたは幸いである」と言われたのではないのです。生まれついての人間の気質というものは神の御前に自らを誇り、高ぶっているわけです。しかし、そのような人間が、いろいろな苦しみや悩みによって打ち砕かれて、聖霊のお働きによって神の御前にへりくだる者とされたのです。そのような人々に、イエス様は「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われるのです。
ここで注意したいことは、このように言われたイエス様ご自身が心の貧しい人であったということです。先程私は、「生まれながらに心の貧しい人はいない」と申しました。しかし、イエス様は別であります。なぜなら、イエス様は聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪のない御方としてお生まれになったからです。イエス様は、生まれながらに心の貧しい人、神にのみ依り頼む人であったのです。それゆえ、イエス様は父なる神の御心に従って、十字架の死を死ぬことができたのです。イエス様は、十字架につけられる前の夜、ゲツセマネにおいて、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました(マタイ26:39)。このイエス様の祈りこそ、心の貧しい人の祈りであるのです。
また、イエス・キリストの使徒パウロも心の貧しい人でした。それゆえ、パウロは、主に依り頼んで、全世界で多くの人に福音を宣べ伝えることができたのです。しかし、パウロはイエス様とは違って、生まれながらに心の貧しい人ではありませんでした。かつてのパウロ(サウロ)は、自分の肉に依り頼む者であったのです。『フィリピの信徒への手紙』の第3章を読むと、パウロがかつてより頼んでいた肉の誇りのリストが記されています。新約の364ページです。第3章2節から9節までをお読みします。
あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
パウロは自らの誇りのゆえに、教会を迫害しました。そのようなパウロに、栄光の主イエス・キリストは現れてくださり、パウロを心の貧しい人に造り変えてくださったのです。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と断言できるほどに、イエス・キリストに依り頼む者とされたのです(肉の誇りは、私たちをイエス・キリストを誇りとすることから遠ざける)。パウロが拠り所とするのは、律法から生じる自分の義ではなく、イエス・キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の6ページです。
先程私は、イエス様に従った群衆は心の貧しい人々であったと申しました。そのことは、弟子たちにおいても言えます。イエス・キリストの弟子たちこそ、心の貧しい人々であるのです。イエス・キリストに依り頼む私たちは、心の貧しい人々であるのです。そのことは、神と教会の前に謹んで誓約した六つの誓約のことを考えると分かりやすいと思います。成人洗礼を受けた人、また幼児洗礼を受けて信仰告白した人は、神と教会の前に六つの誓約をしました。この六つの誓約において、私たちは「天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じ」(第一項)、「自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを認め」(第二項)、「主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼み」(第三項)、「聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束し」たのです(第四項)。このようなことを誓約することができるのは、心の貧しい人だけです。私たちはイエス・キリストに依り頼む、心の貧しい人々として、天の国の祝福に、今あずかっているのです。私たちはイエス・キリストの御名によってささげる礼拝において、天の国の祝福にあずかっているのです。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。このイエス様の御言葉は、気休めのような空しい言葉ではありません。このイエス様の御言葉は、この地上において神の国を樹立されたメシア、王としての宣言であるのです(「樹立」とは「打ち立てること。しっかりした状態にすること」の意味)。イエス様は心の貧しい人として父なる神の御心に十字架の死に至るまで従われました。そして、死者の中から三日目に栄光の体で復活し、天に昇り、父なる神の右の座に着いて、神の国を樹立されたのです。復活されたイエス・キリストは、天と地の一切の権能を授けられた王たちの王、主たちの主として、全世界とそのあらゆる領域を支配しておられます。そのイエス・キリストの王国の中心的な現れが、イエス・キリストの弟子たちの群れ・教会であるのです。ですから、教会に集っている私たちは、確かに心の貧しい人々であり、幸いな者たちであるのです。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」。この主イエス・キリストの御言葉を心に刻んで、これからも神様に依り頼んで、イエス・キリストに信頼して歩んでいきたいと願います。