罪を赦された人の喜び 2025年3月09日(日曜 夕方の礼拝)
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罪を赦された人の喜び
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- 村田寿和 牧師
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詩編 32編1節~11節
聖書の言葉
32:1 ダビデの詩。マスキール。/幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。
32:2 幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。
32:3 私が沈黙していたときは/一日中呻き、骨も朽ち果てました。
32:4 昼も夜も御手は私の上に重く/夏の暑さに気力も衰え果てました。〔セラ
32:5 私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。/私は言いました/「私の背きを主に告白しよう」と。/するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。〔セラ
32:6 このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。/荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。
32:7 あなたこそ私の隠れ場。/苦しみから私を守り/救いの盾で囲んでくださいます。〔セラ
32:8 私はあなたに悟りを与え/歩むべき道を示そう。/あなたの上に目を注ぎ、諭しを与えよう。
32:9 あなたがたは/分別のない馬やらばのようであってはならない。/それらをくつわと手綱で御して/あなたに近づけないようにせよ。
32:10 悪しき者には痛みが多い。/主に信頼する人は慈しみに囲まれる。
32:11 正しき人よ、主によって喜べ、喜び躍れ。/心のまっすぐな人は皆、喜び歌え。
詩編 32編1節~11節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めています。今夕は第32編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節の表題に「ダビデの詩。マスキール」と記されています。第32編は、ダビデが歌った詩編です。「マスキール」とは「教訓の歌」という意味です(岩波訳参照)。第32編はダビデが歌った教訓の歌であるのです。
1節後半と2節をお読みします。
幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。
ダビデは、「背きの罪を赦され、罪を覆われた人は幸いである。主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人は幸いである」と言います。ダビデは、背きの罪を赦され、罪を覆われ、過ちをとがめられない人の幸いを歌うのです。この幸いはダビデ自身があずかった幸いです。ダビデは、その幸いにあずかるように、私たちにも呼びかけているのです。しかし、ダビデは、その幸いにあずかるまで、心に葛藤を抱いていたようです。
3節から5節までをお読みします。
私が沈黙していたときは/一日中呻き、骨も朽ち果てました。昼も夜も御手は私の上に重く/夏の暑さに気力も衰えました。私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。私は言いました「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました。
ダビデは、自分が犯した背きの罪を主に告白できずに沈黙していたようです。このとき、ダビデが犯した罪が何であったのかは分かりませんが、一つの推測は、ウリヤの妻であるバト・シェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤをアンモン人の手によって殺害した罪です(サムエル下11章)。ダビデは、主の目に悪とされる罪を犯しました(サムエル下11:27「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」参照)。しかし、ダビデは、自ら進んで、主に罪を告白することはしませんでした。ダビデが罪を告白したのは、預言者ナタンによって罪を糾弾されてからです。それまでダビデは自分の犯した罪について沈黙していたのです。しかし、ダビデの心は一日中呻いていたのです。そのことが原因で体調も崩していたようです。ダビデは、すべてをご存じである主の御手が昼も夜も自分の上に重くのしかかっているように感じ、気力も衰えていたのです。そのようなとき、預言者ナタンがダビデのもとを訪れ、ダビデの罪を糾弾したのです(サムエル下12章参照)。そして、ダビデはナタンに「私は主に罪を犯しました」と告白するのです。ナタンはダビデにこう言います。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない」。ダビデは、姦淫の罪と殺人の罪を犯しました。これらは死に値する罪です。しかし、ダビデが背きの罪を主に告白すると、主はダビデの罪の過ちを赦してくださったのです(ただしダビデの息子は死ぬ)。
6節と7節をお読みします。
このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。あなたこそ私の隠れ場。苦しみから私を守り/救いの盾で囲んでくださいます。
ダビデは、自分の背きの罪を主に告白して、赦していただいた体験を一般化して、すべての忠実な人にあてはめます。『箴言』の第28章13節に、次のように記されています。「背きを隠す者が栄えることはなく/告白して罪から離れる者は憐れみを受ける」。自分の犯した罪に苛(さいな)まれ、自分の背きを告白する人の過ちを、主は赦してくださいます。それゆえ、忠実な人は皆、時に応じて、主に祈るのです。このことは、預言者イザヤが命じていることでもあります。『イザヤ書』の第55章6節と7節にはこう記されています。「主を尋ね求めよ、見いだすことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。悪しき者はその道を捨て/不正な者は自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ/そうすれば主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰れ/主は寛大に赦してくださる」。私たちが主に自分の背きの罪を告白し、祈ることができるのも、主が過ちを赦してくださると信じているからです。ダビデは、1節で「幸いな者/背きの罪を赦され/罪を覆われた人」と歌いました。この幸いを、私たちは、私たちの罪を担って十字架の死を死んで、復活されたイエス・キリストにあっていただいているのです(ローマ4:6〜8参照)。それゆえ、私たちは主イエス・キリストを「私の隠れ場」とすることができるのです。主イエス・キリストこそ、苦しみから私たちを守り、救いの盾で囲んでくださる御方であるのです。
8節と9節をお読みします。
私はあなたに悟りを与え/歩むべき道を示そう。あなたの上に目を注ぎ、諭しを与えよう。あなたがたは/分別のない馬やらばのようであってはならない。それらをくつわと手綱で御して/あなたに近づけないようにせよ。
ダビデは、自分の体験に基づいて、「悟りを与え、歩むべき道を示そう」と言います。表題の「マスキール」は「教訓の歌」という意味であると申しましたが、ダビデは、教訓を垂れるのです。ダビデは、「あなたがたは/分別のない馬やらばのようであってはならない」と言います。これは、「主の諭しを拒んではならない」という意味です。子をいとおしむ父のように主は愛する者を懲らしめられます(箴言3:12参照)。しかし、その主の懲らしめをいとうならば、その人は分別のない馬やらばのようであるのです。悪しき者はまさに分別のない馬やらばのようになっているのです。ですからダビデは、「それらをくつわと手綱で御して、あなたに近づけないようにせよ」と言うのです。
10節と11節をお読みします。
悪しき者には痛みが多い。主に信頼する人は慈しみに囲まれる。正しき人よ、主によって喜べ、喜び踊れ。心のまっすぐな人は皆、喜び歌え。
「悪しき者」とは、主に背きの罪を告白することなく、過ちを隠す人のことです。そのような悪しき者は、一日中呻き、骨も朽ち果てることになります。ですから、痛みが多いのです。他方、「主に信頼する人」は主に背きの罪を告白し、過ちを赦していただいた人のことです。ダビデは、悪しき者に痛みが多いことも、主に信頼する人が慈しみに囲まれることも知っているのです。ここで注意したいことは、「悪しき者」も「主に信頼する人」も、どちらも主に背きの罪を犯したということです。違いは、主に背きの罪を告白するかどうかであるのです。私たちも多くの罪を犯します。しかし、主は憐れんで赦してくださると信じて、背きの罪を告白するならば、主は私たちの罪を赦してくださり、慈しみで囲んでくださるのです。すなわち、正しい人として受け入れてくださるのです。ですから、ダビデはこう言います。「正しき人よ、主によって喜べ、喜び踊れ。心のまっすぐな人は皆、喜び歌え」。「心のまっすぐな人」とは、主の懲らしめを受け入れ、自分の罪を主に告白する人のことです。主は心のまっすぐな人の罪を赦し、正しい人として受け入れてくださいます。それゆえ、ダビデは、「主によって喜べ、喜び踊れ、喜び歌え」と言うのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって示された罪の赦しの約束を信じて、自分の罪を隠すことなく、告白する者でありたいと願います。そして、主イエス・キリストにあって罪を赦された正しい人として喜び歌いたいと願います(一ヨハネ1:9参照)。