主よ、とこしえに感謝します 2025年2月09日(日曜 夕方の礼拝)

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主よ、とこしえに感謝します

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 30編1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

30:1 賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。
30:2 主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。
30:3 わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒やしてくださいました。
30:4 主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ/墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。
30:5 主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え/聖なる御名に感謝せよ。
30:6 主の怒りは一時。/しかし、生涯は御旨の内にある。/夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある。
30:7 安らかなときには、言いました/「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。
30:8 主よ、あなたは御旨によって/私を強固な山にしてくださいました。/しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。
30:9 主よ、私はあなたに呼びかけます。/わが主に憐れみを乞い願います。
30:10 私が血を流し、滅びの穴へと下ることに/何の益があるでしょうか。/塵があなたに感謝し/あなたのまことを告げるでしょうか。
30:11 お聞きください。/主よ、私を憐れんでください。/主よ、私の助けとなってください。
30:12 あなたは私の嘆きを踊りに変え/私の粗布を解き、喜びを帯とされました。
30:13 それは、心の底からあなたをほめ歌い/口をつぐむことのないためです。/わが神、主よ/とこしえに、あなたに感謝します。
詩編 30編1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』を読み進めています。今夕は、第30編から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節の表題に「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩」とあります。「神殿奉献の歌」とありますが、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでした。神殿を建てたのは、ダビデの息子であるソロモンです。ですから、「神殿奉献の歌」という表題は、後の時代に加筆されたものであると考えられています。それで、今夕は「神殿奉献の歌」であることにとらわれず、ダビデが歌った詩編としてお話ししたいと思います。

 2節から4節までをお読みします。

 主よ、あなたを崇めます/あなたは私をすくい上げ/私のことで敵を喜ばせることはありませんでした。わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒してくださいました。主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ/墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。

 ダビデは、「主よ、あなたを崇めます」と言います。「主」とは、その昔、ホレブの山でモーセに示された神様のお名前です。「主」とは「私はいる」という意味で、そこには「私はあなたと共にいる」という約束が含まれていました(出エジプト3:12、14参照)。「崇める」とは「尊いものとして敬う」ことです。なぜ、ダビデは、主を尊いものとして敬うのでしょうか。それは、主がダビデを癒してくださったからです。このとき、ダビデは重い病を患っていたようです。そのことはダビデに敵対する者にとって好機でありました。しかし、主は、ダビデの祈りを聞いてくださり、ダビデを癒し、死んだも同然の状態から救い出してくださいました。そのようにして、主はダビデの敵を喜ばせることはされなかったのです。

 5節と6節をお読みします。

 主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え/聖なる御名に感謝せよ。主の怒りは一時。しかし、生涯は御旨の内にある。夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある。

 ダビデは、自分が救われた体験を共有して、「主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え/聖なる御名に感謝せよ」と言います。個人の救いの体験は、その個人が属している共同体の救いの体験でもあるのです。このことは、家族のことを考えればよく分かると思います。家族の中に瀕死の重病を患っている人がいて、その人が癒やされたとすれば、それは家族全員にとって、主に感謝すべき救いの体験であるのです。ダビデは、「主の怒りは一時。しかし、生涯は御旨の内にある」と言います。これは、瀕死の重病を患って苦しみ、祈って主に癒していただいたダビデの実体験に基づく言葉です。ダビデは、瀕死の重病を患ったとき、主が自分に対して怒っておられると考えました。しかし、主はダビデに怒り続けることなく、ダビデを癒してくださいました。そのようにして、ダビデは、主の怒りは一時であり、自分の生涯が主の良き御旨の内にあることを知ったのです。ダビデは、体験として、「夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある」ことを知ったのです。そのような主の恵み深い取り扱いを、私たちにも共有して、「聖なる御名に感謝せよ」と言うのです。

 7節と8節をお読みします。

 安らかなときには、言いました。「私はとこしえに揺らぐことなどない」と。主よ、あなたは御旨によって私を強固な山にしてくださいました。しかし、御顔を隠されると、私はおじけました。

 「安らかなとき」とは、ダビデが瀕死の重病を患う前のことであるようです。ダビデは、安らかなとき、「私はとこしえに揺らぐことなどない」と言っていました。ダビデは主の恵みになれてしまって、安らかな状態が当然であり、いつまでも続くかのように考えていたのです。しかし、御顔を隠されたとき、ダビデは、自分が主の御旨によって揺らぐことのない者とされていたことに気付いたのです。ダビデは、御顔を隠されて、重い病を患うと、たちまちおじけてしまったのです。このようなことは、私たちも体験として知っていると思います。安らかなときは、そのような状態がこれからも続いていくと考えます。しかし、病を患ったりすると、たちまち、怖がってびくびくしてしまうのです。

 9節から11節までをお読みします。

 主よ、私はあなたに呼びかけます。わが主に憐れみを乞い願います。私が血を流し、滅びの穴へと下ることに/何の益があるでしょうか。塵があなたに感謝し/あなたのまことを告げるでしょうか。お聞きください。主よ、私を憐れんでください。主よ、私の助けとなってください。

 ここには、瀕死の重病を患ったダビデの祈りが記されています。3節に、「わが神、主よ、私があなたに叫ぶと/あなたは私を癒してくださいました」とありましたが、そのダビデの叫びが具体的に記されているのです。ダビデの時代、死者は神様のまことを告げることもなければ、神様を賛美することもないと考えられていました(詩6:6「死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう」参照)。そのことを背景にして、ダビデは、「私が血を流し、滅びの穴へと下ることに、何の益があるでしょうか。塵があなたに感謝し、あなたのまことを告げるでしょうか」と言うのです。ここでの「益」は主にとっての益です。ダビデは、「私が死んで葬られることは、神様にとって利益ではなく損失です。神様は御自分をほめたたえる人を失ってしまうのですから」と言うのです。そのような理屈で、ダビデは、「主よ、私を憐れんでください。主よ、私の助けとなってください」と乞い願うのです。ダビデの時代、死者は神様のまことを告げることもなければ、神様をほめたたえることもないと考えられていました。しかし、主イエス・キリストの復活を信じる私たちは、死んだ後も神様をほめたたえることを知っています。そのことを、聖書を開いて確認したいと思います。『ヨハネの黙示録』の第7章9節から17節までをお読みします。新約の448ページです。

 この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣をまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある。」また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵/感謝、誉れ、力、権威が/世々限りなく私たちの神にありますように/アーメン。」すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて/昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである。」

 このように、主イエス・キリストを信じる私たちは、死んだ後も天上において、神様を礼拝することができるのです。そのような意味で、神様は私たちが死んだとしても、損をすることはないのです。主イエス・キリストを信じる私たちは、生きるにも、死ぬにも、神様をほめたたえる者であるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の845ページです。

 12節と13節をお読みします。

 あなたは私の嘆きを踊りに変え/私の粗布を解き、喜びを帯とされました。それは、心の底からあなたをほめ歌い/口をつぐむことのないためです。わが神、主よ/とこしえに、あなたに感謝します。

 ここには、主に癒していただき、陰府から引き上げられたダビデの喜びの言葉が記されています。主はダビデの病を癒してくださり、ダビデの嘆きを踊りに変え、粗布を解き、喜びを帯としてくださいました。御顔を隠されて、おじけるダビデに、主は再び御顔を向けてくださり、心の底から主をほめたたえる者としてくださったのです。そのようにして、主はダビデの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下る者の中から生かしてくださったのです。主をほめ歌うことなく、口をつぐんでいるのであれば、その人は神様との関係において死んでいるのと同じであるのです。それは神様と人間との関係が崇められる者と崇める者との関係であるからです。主イエス・キリストを信じて、神様を崇めて生きるとき、人は神様との関係において生きていると言えるのです。そして、その命は、死を超えて続いていくのです。つまり、私たちは地上でイエス・キリストと父なる神を礼拝しているように、天上においてもイエス・キリストと父なる神を礼拝することになるのです。それゆえ、私たちは、「わが神、主よ、とこしえに、あなたに感謝します」と言うことができるのです。主イエス・キリストを信じる私たちは、死を超えて、とこしえに父なる神に感謝をささげることができるのです。それは私たちが、陰府から引き上がられたイエス・キリストの復活の命に生きる者とされているからです。私たちは、主イエス・キリストにあって、とこしえの恵みをいただいているからこそ、とこしえの感謝をささげることができるのです。

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