ヨブの2回目の答え 2025年2月12日(水曜 聖書と祈りの会)

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ヨブの2回目の答え

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 42章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

42:1 ヨブは主に答えた。
42:2 私は知りました。/あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。
42:3 「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」/そのとおりです。/私は悟っていないことを申し述べました。/私の知らない驚くべきことを。
42:4 「聞け、私が語る。/私が尋ねる、あなたは答えよ。」
42:5 私は耳であなたのことを聞いていました。/しかし今、私の目はあなたを見ました。
42:6 それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。ヨブ記 42章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第42章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、「ヨブの2回目の答え」が記されています。

 1節から6節までをお読みします。

 ヨブは主に答えた。私は知りました。あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません。「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。「聞け、私が語る。私が尋ねる、あなたは答えよ。」私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます。

 ヨブが「私は知りました」と語るとき、それは第38章から第41章に記されている主の御言葉を受けてのことです。主は、ご自分の計画(聖定)の実行である創造と摂理の御業について語りました。第40章と第41章では、ベヘモットとレビヤタンについても語りました。ベヘモットとレビヤタンは、混沌の力を象徴する怪獣です。主はベヘモットとレビヤタンをもお造りになり、支配しておられるのです。ベヘモットとレビヤタンは、不条理な苦しみの象徴とも言えます。不条理な苦しみも神によって造られ、神によって支配されているのです。そのことを主から示されて、ヨブは、「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになり/あなたの企てを妨げることはできません」と答えたのです。

 3節に、かぎ括弧で「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か」と記されています。これは、第38章2節の主の御言葉の引用です。「知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くする者は誰か」。この主の御言葉を引用して、ヨブは自分の口で語ったのです。そのことにより、ヨブは、主の御言葉に対する同意と服従を表したのです。けれども、ヨブが語った言葉は、もともとの主の御言葉と少し違います。ヨブは「言葉を重ね」という言葉を省いています。また、「暗くする」を「隠す」と言い換えています。ヨブが引用した主の御言葉によれば、「知識もないのに、主の計画を隠して見えないようにする者は誰か」となります。そして、ヨブは、自分こそそのような者であると言うのです。「そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを」。ヨブは、主から大地や海、天候や星座、野生動物について聞くことにより、自分が目にしていた世界が自分の知らない驚くべき神の御業であることに目を開かれたのです。

 4節の「聞け、私が語る。私が尋ねる、あなたは答えよ」も、主の御言葉の引用です。第38章3節後半と第40章7節に、「あなたに尋ねる、私に答えてみよ」とあります。この主の御言葉を引用して、ヨブは主に答えるのです。第40章に、「ヨブの1回目の答え」が記されていましたが、そこには積極的な答えは何も記されていませんでした。第40章3節から5節までをお読みします。旧約の815ページです。

ヨブは主に答えた。私は取るに足りない者/何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます。私は一度語りましたが、もう答えません。二度語りましたが、もう繰り返しません。

 ここでヨブは、主に圧倒されてしまって、何も答えていません。ヨブは「もう答えません」と言って沈黙してしまうのです。そのようなヨブに、主は2回目の弁論を語りだされるのです。主は、ヨブが心の中では納得していないことを見抜かれて、悪しき者に対する裁きについて、さらには、ベヘモットとレビヤタンに象徴される不条理な苦しみについてお語りになるのです。このような主のお取り扱いを受けて、ヨブはようやく主にお答えすることができたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の818ページです。

 ヨブは主にこう答えます。「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます」。これまでヨブは人伝えに間接的に神を知っていました。しかし今ヨブは自分の目で見て直接的に神を知ったのです。ヨブが「私の目はあなたを見ました」と言うとき、それは主のお姿を見たということではありません(出エジプト33:20、一テモテ6:15参照)。主は嵐の中から語りかけたのであって、その姿はヨブの目に隠されているのです。ある研究者は風によって砂が吹き上げられ、ヨブは目を開くことができなかったと想像しています。しかし、ヨブは嵐の中から直接、主の声を聞いたのです。そのようにして、「私の目はあなたを見た」と言える人格的な出会いが起こったのです。ですから、ヨブは続けてこう言います。「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます」。ヨブはこれまで自分を中心にして考え、神に不平を述べてきました。ヨブは自分の苦しみの余り、神が造った世界を混沌に返そうとさえしたのです。しかし、ヨブは神にお会いして、神が造られ、治めておられる世界について聞かされて、自分が世界の中心ではないことを知らされ、自分を退けることができたのです。

 「塵と灰の上で悔い改めます」。このヨブの言葉を研究者である並木浩一先生は、次のように翻訳しています。「塵灰(ちりはい)であることについて考え直します」。また、並木先生は、このヨブの言葉の背景には、『創世記』の第18章27節のアブラハムの言葉があると言います。旧約の22ページです。『創世記』の18章16節以下には、「アブラハムの執り成し」のお話が記されています。主はソドムの町を滅ぼそうとしておられました。ソドムにはアブラハムの甥であるロトが住んでいました。それで、アブラハムは主にソドムを滅ぼさないように執り成すのです。22節から28節までをお読みします。

 その人たちはそこからソドムの方へ向かって行った。しかしアブラハムはなお主の前に立っていた。アブラハムは進み出て言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか。もしかすると、あの町の中には正しい人が五十人いるかもしれません。その中に五十人の正しい人がいても、その町を赦さず、本当に滅ぼされるのでしょうか。正しい者を悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うなどということは、決してありえません。全地を裁かれる方が公正な裁きを行わないことなど、決してありえません。」主は言われた。「もしソドムの町の中に五十人の正しい者がいるなら、その者のために、その町全体を赦すことにしよう。」アブラハムは答えた。「塵や灰にすぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたはその五人のために、町全体を滅ぼされるのでしょうか。」すると主は言われた。「もしそこに四十五人いるとすれば、私は滅ぼしはしない。」

 27節でアブラハムは、「塵や灰にすぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます」と言っています。「塵や灰にすぎない」とは、人間が神によって土の塵から造られたこと、死ねば灰になってしまうはかない存在であることを示しています。塵と灰は、人間の被造物性と有限性を象徴しているのです。アブラハムは、自分が土の塵から造られた者であり、死ねば灰になる者であることを弁えつつ、あえて主に訴えるわけです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の818ページです。

 ヨブは主の御言葉を直接聞くことによって、自分を退け、自分が塵と灰であることを考え直しました。ヨブは自分が土の塵から造られた者であり、死ねば灰になる者であることを考え直したのです。そのようにして、ヨブは、第1章と第2章に記されていた信仰に立ち帰ることができたのです。全財産と子供たちを失ったヨブは、第1章20節でこう言っていました。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」。また、全身を悪性の腫物によって打たれたヨブは、第2章10節でこう言っていました。「私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか」。このような信仰に、ヨブは立ち帰ることができたのです。ヨブは、自分を退けて、自分が塵と灰であることを考え直すことによって、神によって造られた者として、また、主に従う僕として、主なる神のもとに立ち帰ることができたのです。

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