主の2回目の弁論② 2025年1月29日(水曜 聖書と祈りの会)
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主の2回目の弁論②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 40章15節~24節
聖書の言葉
40:15 見よ、私があなたと並べて造ったベヘモットを。/これは牛のように草を食べる。
40:16 見よ、その力は腰にあり/その強さは腹の筋にある。
40:17 尾は杉の枝のようにたわみ/腿の筋は絡み合っている。
40:18 骨は青銅の管であり/肋骨は鉄の棒のようだ。
40:19 これは神の業の最初のものであり/これを造った者が剣を授けた。
40:20 山々はこれに産物を与え/あらゆる野の獣はそこで戯れる。
40:21 これは灌木の下/水草の茂み、沼地に伏している。
40:22 灌木はこれを覆って陰を作り/川沿いのポプラがこれを囲む。
40:23 川が氾濫しても慌てず/ヨルダンがその口に押し寄せても、ひるまない。
40:24 その目をにらんで捕獲できるか。/罠にかけて鼻を突き通せるか。ヨブ記 40章15節~24節
メッセージ
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前回は第40章1節から14節までを学びましたので、今朝は15節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
15節から24節までをお読みします。
見よ、私があなたと並べて造ったベヘモットを。これは牛のように草を食べる。見よ、その力は腰にあり/その強さは腹の筋にある。尾は杉の枝のようにたわみ/腿の筋は絡み合っている。骨は青銅の管であり/肋骨は鉄の棒のようだ。これは神の業の最初のものであり/これを造った者が剣を授けた。山々はこれに産物を与え/あらゆる野の獣はそこで戯れる。これは灌木の下/水草の茂み、沼地に伏している。灌木はこれを覆って陰を作り/川沿いのポプラがこれを囲む。川が氾濫しても慌てず/ヨルダンがその口に押し寄せても、ひるまない。その目をにらんで捕獲できるか。罠にかけて鼻を突き通せるか。
主は、「見よ、私があなたと並べて造ったベヘモットを」と言います。ベヘモットとは「河馬」をモチーフ(主要な題材)にした混沌を象徴する怪獣です(口語訳参照)。『創世記』の第1章1節と2節に、「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。ベヘモットは、地の混沌(カオス)を象徴する怪獣であるのです。主はベヘモットをお造りになりました。ベヘモットも神の支配の下にあるのです。主は、ヨブと並べてベヘモットを造ったと言います。このことは、ヨブが混沌の力と隣り合わせにあることを教えています。ヨブに代表される人間は、混沌の力と隣り合わせに生きているのです。「一寸先は闇」ということわざは、そのことを私たちに教えているのです。ベヘモットは混沌の怪獣ですが、河馬がモチーフになっていると考えられています。ですから、河馬について知ることも大切なことです。河馬は、「アフリカの川や湖・沼などにすみ、体高1.5メートル、体長4.2メートル、体重4トンに達する。皮膚は厚くて毛が少なく、口が大きく、4本の足指の間に小さな水かきをもつ。日中は水中で過ごし、夜間上陸して草を食べる」と言います(デジタル大辞泉参照)。ユーチューブで野生のカバの動画を見ると、「カバはアフリカでライオンよりも人を殺している危険動物である」と言われています(【マサイも逃げる危険生物】ライオンを蹴散らしフンをまき散らす!アフリカで一番多く人間を殺す動物!?カバの真実【どうぶつ奇想天外/WAKUWAKU】参照)。野生の河馬を人間が捕獲できないように、ベヘモットを捕獲できる人はいないのです。
19節に、「これは神の業の最初のものであり/これを造った者が剣を授けた」とあります。『箴言』によれば、主はその道の初めに知恵を造られました(箴8:22「主はその道の初めに私を造った/いにしえの御業の始まりとして」参照)。しかし、『ヨブ記』によれば、主がその道の初めに造られたのはベヘモットであるのです(創世1:1、2「初めに神は天と地を創造された。地は混沌であって」参照)。「これを造った者が剣を授けた」とは、どういう意味でしょうか。ベヘモットのモチーフである河馬は大きな口を持ち、その口は150度も開くそうです。また、口の下顎には二本の鋭い牙が生えていて、噛む力はとても強いと言われています。ですから、「これを造った者が剣を授けた」とは、「河馬を造られた神が、河馬に剣のような牙を授けられた」と理解することができます。また、新共同訳聖書は、19節を「これこそ神の傑作/造り主をおいて剣を突きつける者はない」と翻訳しています。混沌の象徴であるベヘモットを制御できるのはベヘモットを造られた神だけであるのです。
ここで注意していただきたいことは、ベヘモットは悪の象徴ではなく、混沌の象徴であるということです。もしベヘモットが悪の象徴であるならば、神が悪を造ったことになってしまいます。しかし、そうではありません。神様が造られた良き世界に悪が生じたのは、はじめの人アダムが神の掟に背いて罪を犯したからです。では、はじめの人アダムの最初の違反によって、混沌が生じたのかと言えば、そうではありません。神様がお造りになった地は混沌であったのです。神様の創造の御業とは、混沌(無秩序で入り混じっている状態)であった世界を秩序立てていく御業であると言えます。光と闇を分ける。天と地を分ける。陸と海を分けるといった、混沌であった世界を秩序立てていくのが神の創造の御業であるのです(創世1章参照)。そして、同じことが神の摂理の御業においても言えるのです。神は、人間を神のかたちに似せてお造りになりました。それは、神の掟に従う者として、法の支配に生きる者として造られたということです。私たちの人間社会は、法の支配によって秩序立てて営まれているのです。そして、そこにも私たちでは制御できない混沌が隣り合わせにあるのです。しかし、私たちが混沌に呑み込まれることなく、歩んでいくことができるのは、混沌を制御して、秩序を打ち立ててくださる神が、この世界と歴史を導いてくださっているからです。私たちは明日どうなるかも分かりません。しかし、一つ分かっていることがあります。それは、主イエス・キリストと父なる神が共にいてくださるということです。混沌の中に突き落とされてしまったようなヨブと主が共にいてくださったように、主イエス・キリストは私たちと共にいてくださるのです。そして、主イエス・キリストは、私たちにこう言ってくださるのです。『マタイによる福音書』の第6章31節から34節までをお読みします。新約の11ページです。
「あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
私たちが神の国と神の義を求めて生きるとき、私たちの混沌とも言える生活に、神の秩序が打ち立てられるのです。