ヨブの1回目の答えと主の2回目の弁論① 2025年1月22日(水曜 聖書と祈りの会)
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ヨブの1回目の答えと主の2回目の弁論①
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 40章1節~14節
聖書の言葉
40:1 そして、主はヨブに言われた。
40:2 非難する者が全能者と言い争うのか。/神を責める者はこれに答えよ。
40:3 ヨブは主に答えた。
40:4 私は取るに足りない者/何を言い返せましょうか。/私は自分の口に手を置きます。
40:5 私は一度語りましたが、もう答えません。/二度語りましたが、もう繰り返しません。
40:6 主は嵐の中からヨブに答えられた。
40:7 あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。/あなたに尋ねる、私に答えてみよ。
40:8 あなたは私の裁きを無効にし/私を悪とし、自分を正しい者とするのか。
40:9 あなたは神のような腕を持ち/神のような声で雷鳴をとどろかせることができるか。
40:10 あなたは威光と気高さで身を飾り/威厳と輝きを身に着けよ。
40:11 溢れるあなたの怒りを注ぎ出し/すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。
40:12 すべての高ぶる者を見て、これをかがませ/悪しき者どもをその場で踏みつけよ。
40:13 一人残らず塵の中にうずめ/墓穴に閉じ込めよ。
40:14 そうすれば、私もあなたをたたえよう/あなたの右の手があなたを救った、と。ヨブ記 40章1節~14節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第40章1節から14節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節と2節をお読みします。
そして、主はヨブに言われた。非難する者が全能者と言い争うのか。神を責める者はこれに答えよ。
「非難する者」とは、ヨブのことです。また、「全能者」とは、この世界を創造し、統べ治めておられる神のことです。これまでヨブは神と言い争い、神を責めてきました。例えば、ヨブは第9章15節から24節で、こう語っていました。旧約の773ページです。
たとえ私が正しくても、答えることはできない。私を裁く方に憐れみを乞うほかはない。たとえ私が呼んで、神が答えるとしても、私の声に神が耳を傾けるとは信じられない。神は嵐によって私を傷つけ/理由もなく私に多くの傷を与える。神は私に息つくいとまも与えず/私を苦しみで満たす。もし力に訴えれば、見よ、神は力強い。もし、裁きに訴えれば/誰が私の証人となってくれるだろうか。たとえ私が正しくても/私の口は私を悪しき者とする。たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする。私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。私は生きることを拒む。すべて同じことなのだ。それゆえ私は言う。「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」と。突然襲う鞭が人を殺し/罪なき者の試練を神は嘲る。地は悪しき者の手に渡され/神は地を裁く者の目に覆いをかける。神でないとしたら、一体誰がそうしたのか。
このように、ヨブは全能者を非難していたのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の815ページです。
主はヨブに、「神を責める者はこれに答えよ」と言われます。「これ」とは、第38章と第39章に記されていた主の計画の実現である創造と摂理の御業についてです。神を責めるならば、神の御業について知っているはずだと言われるのです。それは言い換えれば、主の創造と摂理の御業について分からないのであれば、神を責める資格はないということです。
3節から5節までをお読みします。
ヨブは主に答えた。私は取るに足りない者/何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます。私は一度語りましたが、もう答えません。二度語りましたが、もう繰り返しません。
ヨブは、「私は取るに足りない者」と言います。創造主である神を前にして、ヨブは、自分が取るに足りない者であることがよく分かったのです。ヨブは、「何を言い返せましょうか」と言いますが、実際ヨブは、主の問いに対して、何も答えることができないのです。主がヨブに尋ねたことは、創造主である神のみが知っていることであるからです。ヨブは、「私は自分の口に手を置きます。私は一度語りましたが、もう答えません。二度語りましたが、もう繰り返しません」と言います。ヨブが主に直接語りかけるのは、ここが初めてです。では、なぜ、ヨブは、一度、二度と、自分が何度も語ったかのように言うのでしょうか。それは、主がヨブの言葉に黙って耳を傾けてくださっていたことを知ったからです。先程、第9章に記されていたヨブの言葉を読みました。そこでヨブは、「私の声に神が耳を傾けるとは信じられない」と言っていました。しかし、主はヨブの言葉に耳を傾けていてくださったのです。そして、主は嵐の中からヨブに答えてくださったのです。ヨブは、主の計画である創造と摂理の御業について尋ねられることによって、自分が取るに足らない被造物であり、神を非難し、責める資格がないことをはっきりと悟ったのです。
6節から14節までをお読みします。
主は嵐の中からヨブに答えられた。あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ。あなたは私の裁きを無効にし/私を悪とし、自分を正しい者とするのか。あなたは神のような腕を持ち/神のような声で雷鳴をとどろかせることができるのか。あなたは威厳と輝きを身につけよ。溢れるあなたの怒りを注ぎ出し/すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべての高ぶる者を見て、これをかがませ/悪しき者どもをその場で踏みつけよ。一人残らず塵の中にうずめ/墓穴に閉じ込めよ。そうすれば、私もあなたをたたえよう/あなたの右の手があなたを救った、と。
ヨブは第9章で、「たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする」と神を非難しました。主は、そのようなヨブに、「あなたは私の裁きを無効にし/私を悪とし、自分を正しい者とするのか」と言うのです。神を悪とし、自分を正しい者とすることは、自分を神とすることです。それゆえ、主は、「あなたは神のような腕を持ち/神のような声で雷鳴をとどろかせることができるか」と尋ねるのです。また、ヨブは第9章で、「地は悪しき者の手に渡され/神は地を裁く者の目に覆いをかける。神でないとしたら、一体誰がそうしたのか」と言いました。神は悪しき者を正しく裁かれないと責めていたのです。そのようなヨブに、主は、「溢れるあなたの怒りを注ぎ出し/すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべての高ぶる者を見て、これをかがませ/悪しき者どもをその場で踏みつけよ。一人残らず塵の中にうずめ/墓穴に閉じ込めよ」と言うのです。もちろん、ヨブにはそのようなことはできません。もし、ヨブがそのようにできると考えるならば、ヨブこそ、「高ぶる者」であり、「悪しき者」であるのです。主は、「そうすれば、私もあなたをたたえよう/あなたの右の手があなたを救った、と」と言われます。これはもちろん皮肉(アイロニー)です。
悪しき者の裁きについて、主は、第38章13節から15節で次のように語っていました。
地の果てをつかんで/そこから悪しき者どもを/振り落としたことがあるか。地は刻印を押された粘土のように変わり/上着のように彩られる。悪しき者どもからその光は取り去られ/振り上げた腕は折られる。
ここで、主はご自分が悪しき者どもに罰を与える御方であると言われます。主は、正しい者も悪しき者も同じように滅ぼす御方では決してないのです(ヨブ9:22「すべて同じことなのだ。それゆえに私は言う『完全な者も悪しき者も神は滅ぼす』と」参照)。そして、神は、悪しき者どもの裁きを人間に委ねておられるのです。それゆえ主は人間に律法を与えられたのです(イスラエルに律法が与えられたのは、律法に従って裁判を行い、神の正義を打ち立てるため)。主はヨブに、「悪しき者どもをその場で踏みつけよ」と言われましたが、そこには人間社会の悪を人間の責任で正していくことが示唆されています。人間の社会には、いろいろな悪があります。戦争はその最たるものです。私たちは、神がおられるならば、なぜ、戦争が起こるのかと思うかもしれません。しかし、戦争を起こしているのは人間です。しかも、神の掟は、戦争をはっきりと禁じています。なぜなら、神は、「あなたは殺してはならない」と命じておられるからです。戦争という悪をなくすことも、私たち人間が責任をもって取り組むべき課題であるのです(神の摂理の御業の協働の教理)。飢餓の問題も、私たち人間が責任をもって取り組むべき課題です。私たちは、神がおられるなら、なぜ、飢餓で死ぬ人がたくさんいるのだろうかと思います。しかし、実は神様は、全人類が食べることができる食料を与えてくださっているのです。問題は、人間が食料をすべての人にいきわたるように配分していないということなのです。
「人間社会の悪をなくす責任は人間にある」というとき、私たちは神を無視して、そのことに取り組んでいくのではありません。私たちはイエス・キリストによって示された父なる神の御心に従って、祈りつつ、取り組んでいくのです。私たちは、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつ、善を行って歩んでいきたいと願います。今朝は最後に、『ミカ書』の第6章8節の御言葉をお読みします。旧約の1435ページです。
人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるのか。それは公正を行い、慈しみを愛し/へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。