わたしの教会を建てる 2025年1月19日(日曜 夕方の礼拝)
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わたしの教会を建てる
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 16章13節~19節
聖書の言葉
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」マタイによる福音書 16章13節~19節
メッセージ
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(この説教は、代理牧師として宇都宮教会で語った説教です)
今日は午後1時より、会員総会が開催されます。そのことを踏まえて、今朝は『マタイによる福音書』の第16章13節から19節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝のお話の舞台は、「フィリポ・カイサリア地方」です。「フィリポ・カイサリア地方」とは、ガリラヤから北40キロメートルに位置する、ヘルモン山の南の麓にある水の豊かな緑の美しい地方です。そこにはローマ皇帝を神として祭る神殿やギリシアの神々を祭る神殿がありました。そのような地方に行ったとき、イエス様は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねられたのです。「人の子」とは、イエス様ご自身のことを指しています。イエス様は、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねられたのです。弟子たちはこう言いました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』という人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。「洗礼者ヨハネ」は、イエス様に先立って神の国を宣べ伝えた人物です。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、首をはねられてしまいました。人々は、イエス様のことを、その洗礼者ヨハネだと言っていたのです。また、「エリヤ」は紀元前9世紀に北王国イスラエルで活躍した預言者で、生きたまま炎の馬車に乗り、天に上げられた人物です。旧約の最後の預言者であるマラキは、主の日の到来に先立ってエリヤが遣わされると預言していました(マラキ3:23参照)。人々は、イエス様はそのエリヤだと言っていたのです。また、「エレミヤ」は紀元前6世紀に南王国ユダで活躍した預言者です。聖書にエレミヤの死について記されていないことから、人々はエレミヤがもう一度現れると信じていました。それで、人々はイエス様のことを「エレミヤだ」と言っていたのです。また、誰とは言いませんが、イエス様のことを「預言者の一人だ」と言う人もいました。そのような人々の評判を聞いた後で、イエス様は、弟子たちにこう言われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。そのイエス様の問いに対して、シモン・ペトロは弟子たちを代表して、こう答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。「メシア」とは「油を注がれた者」という意味です。その昔、イスラエルにおいて、王の務めに就く人の頭に油を注ぐという儀式をしました。油を注ぐことによって、神の霊である聖霊が注がれたこと。その人が神様の働きのために聖別されたことを表したのです。当時の人々は、約束のメシア、王によってイスラエルの国がローマ帝国の支配から解放されることを待ち望んでいました(サムエル下7章のダビデ契約を参照)。シモン・ペトロは、イエス様こそ、そのメシア、王であると告白したのです。ちなみに、ここでの「メシア」は元のギリシア語では「キリスト」と記されています。メシアも、キリストも、油を注がれた者、王様を意味しているのです。私たちは、「イエス・キリスト」を一つの固有名詞として用いますが、元々は、「イエスはキリストである」「イエスは油を注がれた者、王である」という信仰告白であるのです。また、ペトロは、「生ける神の子です」とも告白しました。先程、私は、フィリポ・カイサリア地方には、ローマ皇帝やギリシアの神々を祭る神殿があったと申しました。そのような「偽りの死せる神々」ではなく、イスラエルの神こそ「まことの生ける神」であるのです。そして、イエス様は、その「生ける神の子」であるのです。人々は、約束のメシア、王の出現を待ち望んでいましたが、それは普通の人間でした。しかし、ペトロは、イエス様が神様との親しい交わりに生きておられる神の子であると言ったのです。ペトロたちは、イエス様がガリラヤで宣教を始められた頃から、弟子として従って来ました。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」というイエス様の御言葉によって、ペトロたちはイエス様の弟子となったのです。そして、イエス様と寝食を共にし、イエス様の権威ある教えを聞き、力ある御業を見て来たのです。イエス様の側から言えば、弟子たちを教え、力ある業を見せ、体験させることによって、ご自分が何者であるかを示してきたのです。その弟子教育の結実が「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白であるのです。ここで初めて、人間の口から、イエス様がメシアであり、生ける神の子であることが告白されたのです。私たちも、イエス様をメシア、生ける神の子であると信じて、告白しています。その私たちに先立って、ペトロは、イエス様に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。そのペトロに、イエス様はこうお答えになります。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。イエス様は、「シモン・バルヨナ」と呼びかけました。これはシモンに対する正式な呼びかけです。「バルヨナ」とは「ヨナの子」という意味で、「ヨハネの子」の短縮形であると考えられています(ヨハネ1:42、21:15参照)。当時のユダヤ人には名字にあたるものはなく、誰々の子誰々という言い方をしたのです。イエス様は、「ヨハネの子シモン」と正式に呼びかけて、「あなたは幸いだ」と言われます。元の言葉の語順では、「幸いなるかな、あなたは、シモン・バルヨナよ」と記されています。イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することは、イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただけるほどの祝福であるのです。私たちはいろいろな尺度で、幸せについて考えます。健康であるとか、裕福であるとか、家庭が円満であるとか、様々な尺度で幸せについて考えるのです。しかし、私たちが忘れてはならないことは、私たちには、イエス様のことをメシア、生ける神の子であると告白する幸いが与えられているということです。イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました。私たちは、「シモン・バルヨナ」の代わりに自分の名前を入れて、読むことができるのです。
続けて、イエス様はこう言われます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ここで「人間」と訳されている元の言葉は「肉と血」です。「あなたはメシア、生ける神の子です」というイエス様に対する信仰告白は、肉と血からなる人間からは出てこないのです。それは、イエス様の天の父が現してくださることであるのです。「現す」と訳される言葉は、「啓示する」とも訳せます。ペトロは、イエス様の天の父からの啓示を受けて、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができたのです。このことは、イエス様が第11章25節から27節で言っていたことであります。新約の20ページです。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。ここでイエス様は、「父の他に子を知る者はいない」と言われています。イエス様が何者であるかを知っているのは、父なる神お一人であるのです。イエス様が、メシアであり、神の御子であることは、父なる神だけが知っている秘密であるのです。しかし、イエス様はその秘密を、シモン・バルヨナの口から聞いたのです。「イエス様はメシアであり、生ける神の子である」という信仰告白の源は、人間にあるのではなく、父なる神の啓示にあるのです。私たちが、「イエスはメシアであり、生ける神の子である」と告白できるのは、私たちが他の人よりも優れていたからではありません。それはひとえに、イエス・キリストの父なる神が一方的な恵みによって、そのことを現してくださったからであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の32ページです。
18節でイエス様はこう言われます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。「ペトロ」とは「岩」という意味です。ですから、イエス様は続けて「わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」と言われたのです。イエス様は、ご自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したシモン・バルヨナを「ペトロ」(岩)と呼ばれて、そのペトロ(岩)の上に、わたしの教会を建てると言われたのです。イエス様は、ご自分に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するペトロたちを土台にして、わたしの教会を建てると言われたのです。「教会を建てる」と聞くと、私たちは建物のことを考えると思います。しかし、教会と訳されるエクレーシアという言葉は、「召し出された者の集い」を意味するのです。召し出された者の集いである教会を、イエス様は建物に例えておられるのです。イエス様は、「わたしの教会をわたしが建てる」と言われました。イエス様は、ペトロの信仰告白を受けて、「わたしはこの岩(信仰告白したペトロたち)の上にわたしの教会を建てる」と決意表明をされたのです。私たちもイエス・キリストによって召し出された者の集いとして、イエス・キリストの教会として集まっています。そのような教会を生み出されたのは、イエス・キリストご自身であるのです。そして、私たち教会を建ててくださるのも、イエス・キリストであるのです。
イエス様は、「陰府の力も教会に対抗することはできない」と言われました。「陰府」とは、死んだ人が行く所、死者の領域のことです。また、「力」と訳されている言葉は「門」とも訳せます。城壁のある町の最も堅固な場所が門でした。それゆえ門は力を意味するのです。陰府の力、死の力ほど強いものはないと思います。私たち人間は死の力に怯えて、死の力を恐れて生きています。死んだら終わりだと思って生きているのです。死者の領域である陰府に行けば、その門を二度と開けることができないと考えているのです。しかし、イエス様は、陰府の力も教会に対抗することはできないと言われるのです。それはなぜか。それは教会の頭であるイエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体で復活されるからです。イエス・キリストは、十字架の死から復活することによって、陰府の門を打ち破り、死の力に打ち勝たれたのです。それゆえ、復活されたイエス・キリストを信じる私たちは、死の力に怯える必要はありません。十字架の死から復活されたイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する私たちは、死に打ち勝つ命、復活の命、永遠の命を持っているのです。
イエス様は、「陰府の力も教会に対抗できない」と言われます。それは言い換えれば、「教会は死を超えて続いていく集い」であるということです。世の中には、いろいろな集まりがあります。しかし、死んだ後も続いていくのは、キリスト教会だけであるのです。それゆえ、イエス様は、ペトロにこう言われます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。ここでイエス様は、ペトロに天の国の鍵を授けると言われていますが、これはペトロ個人に対してではなく、イエス様を「メシア、生ける神の子」と告白する弟子たちの群れ(教会)に対してです。イエス様は、ご自分のことを「メシア、生ける神の子」と告白する私たち教会に、天の国の鍵を授けてくださったのです。ここで「つなぐ」とか「解く」と言われていますが、「つなぐ」とは「禁じること」を意味します。また、「解く」とは「許すこと」を意味します。イエス様は、「あなたがたが地上で禁じることは、天上でも禁じられる。あなたがたが地上で許すことは、天上でも許される」と言われたのです。では、何が禁じられ、何が許されるのかと言えば、それは天の国に入ることです。つまり、地上の教会は天の国の出張所であり、天の国の門であるのです(創世28:17参照)。天国にある天上の教会と地上の教会とはつながっているのです。ですから、地上の教会に入れられている私たちは、天上の教会に入れられていると考えてよいのです。私たちは地上で父なる神と主イエス・キリストを礼拝しているように、天上においても、父なる神と主イエス・キリストを礼拝することになるのです。
では、イエス・キリストがご自分の教会に授けられた「天の国の鍵」とは何でしょうか。それは、「イエス・キリストの福音」です。そのことは、私たち自身のことを考えればよく分かると思います。私たちはイエス・キリストの福音を聞くことによって、イエス様を「メシア、生ける神の子」と告白して、教会の一員になることができたのです(ローマ10:14、15参照)。イエス・キリストの福音こそ、教会に授けられている天国の鍵であります。キリストの教会として集まっている私たちにも、イエス・キリストの福音という天国の鍵が授けられています。教会は、主の日の礼拝ごとに、イエス・キリストの福音という鍵を用いているのです。それは一人でも多くの人に、イエス・キリストを信じて、天の国に入っていただくためであります。それは私たちの願いというよりも、父なる神と主イエス・キリストの願いであるのです(一テモテ2:4「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」参照)。そのことを心に留めて、私たちは今年も、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。