栄光と力を主に帰せよ 2025年1月12日(日曜 夕方の礼拝)
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栄光と力を主に帰せよ
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- 村田寿和 牧師
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詩編 29章1節~11節
聖書の言葉
29:1 賛歌。ダビデの詩。/神々の子らよ、主に帰せよ。/栄光と力を主に帰せよ。
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。/聖なる装いで主にひれ伏せ。
29:3 主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。/主は荒ぶる大水の上におられる。
29:4 主の声は力をもって/主の声は輝きをもって
29:5 主の声は杉の木を砕き/主はレバノン杉をも砕く。
29:6 子牛のようにレバノンを/野牛の子のようにシルヨンを踊らせる。
29:7 主の声は炎をひらめかす。
29:8 主の声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の声は樫の木をもだえさせ/森を裸にする。/主の宮では、すべてのものが/「栄光あれ」と言う。
29:10 主は洪水の上に座し/主は王として、とこしえに座した。
29:11 主がその民に力を与えてくださるように。/主がその民を祝福してくださるように/平安のうちに。詩編 29章1節~11節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』から御言葉の恵みにあずかっています。今夕は、第29編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「賛歌。ダビデの詩」とあるように、第29編はダビデが歌った詩編です。そのことを前提にして、読み進めて行きます。
1節と2節をお読みします。
神々の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いで主にひれ伏せ。
「主」とは、その昔、ホレブの山でモーセに知らされた神の御名前です。主とは「ヤハウェ」と発音されたであろう御名前で、「わたしはいる」という意味です。主こそ、天地万物をお造りになった御方であり、天地万物が造られる前からおられる神であるのです。「神々の子ら」とは、天で主に仕える天使たちのことであるようです。『イザヤ書』の第6章に、セラフィムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言って、万軍の主をほめたたえる天上の礼拝の様子が記されています。ダビデは、そのような天上の礼拝を心に思い描きながら、「神々の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」と言うのです。「栄光と力を主に帰する」とは、「栄光と力は主のものであることを認めて、主をほめたたえる」ことです。具体例を一つ挙げたいと思います。私たちが大きな仕事を成し遂げたとします。その仕事を成し遂げるための知恵と力を与えてくださったのは神様です。にもかかわらず、私たちが自分の知恵や力でその仕事を成し遂げたかのように考えて、神様をほめたたえないのであれば、そのとき私たちは、神様から栄光と力を奪っていると言えるのです。他方、私たちが、知恵と力を与えて、仕事を成し遂げさせてくださったのは神様であると認めて、神様をほめたたえるならば、私たちは栄光と力を主に帰していると言えるのです(申命8:17、18「あなたは自分の強さと手の力で、この富みを生み出したと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。この方が、あなたに力を与えて富を生み出させ、先祖に誓われたその契約を実行し、今日のようにしてくださったのである」参照)。2節の後半に「聖なる装いで主にひれ伏せ」とあります。「聖なる装い」とは「祭司が着ていた服」のことです(出エジプト28:2参照)。ダビデは、天の御使いに対してだけではなく、祭司に代表されるイスラエルの民に対しても、「栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ」と呼びかけているのです。栄光と力を主に帰することこそ、礼拝の本質であるのです。
3節から9節までをお読みします。
主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は荒ぶる大水の上におられる。主の声は力をもって/主の声は輝きをもって/主の声は杉の木を砕き/主はレバノン杉をも砕く。子牛のようにレバノンを/野牛の子のようにシルヨンを踊らせる。主の声は炎をひらめかす。主の声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。主の声は樫の木をもだえさせ/森を裸にする。主の宮では、すべてのものが「栄光あれ」と言う。
3節に「主の声は大水の上にあり/栄光の神は雷鳴をとどろかせる」とあります。ここでは、雷鳴が主の声として記されています。日本でも雷(神鳴り)は、神が鳴らしていると考えられていました。主は雷鳴をとどろかせることによって、ご自分が力あることを示されるのです。「主は大水の上にあり」とか、「主は荒ぶる大水の上におられる」とありますが、この「大水」は雨を降らせる雲を指しています。ダビデは、黒雲の上に主がおられ、その主の声が雷鳴として響いていると言うのです。
主の力と輝き、それは雷鳴のとどろきと稲妻の光によって示されます。主の声である雷が落ちれば、大木(たいぼく)であるレバノン杉も砕かれるのです。6節に、「子牛のようにレバノンを/野牛(のうし)のようにシルヨンを踊らせる」とありますが、ここでは大雨、雷、強風からなる嵐のことが言われているようです。「シルヨン」とありますが、「シルヨン」とは「ヘルモン」の別名です(申命3:9「シドン人は、ヘルモンをシルヨンと呼び」参照)。レバノンもヘルモンも北の地方です。8節に、「主はカデシュの荒れ野をもだえさせる」とありますが、「カデシュ」は南の地域です。主は北のヘルモン山から南のカデシュの荒れ野まで、大雨と雷と強風からなる嵐によってもだえさせるのです(「もだえる」とは「体をよじるほどに苦しむこと」の意味)。
9節には、「主の宮では、すべてのものが『栄光あれ』と言う」と記されています。このダビデの言葉に、私たちは違和感を覚えるかも知れません。しかし、雨が少ないイスラエルにおいて、大雨は主に栄光を帰するべき恵みであったのです。
多くの研究者は、第29編は、もともとはカナン地方の神、バアルをほめたたえる賛歌であったと言います。バアルは雨を降らせる嵐の神と考えられていました。そのようなカナンの人々の信仰を背景にしながら、ダビデは、主こそが嵐をもたらし、恵みの雨を降らせてくださる神であると語るのです。恵みの雨を降らせてくださるのは、バアルではなくて、イスラエルの神、主である。それゆえ、バアルではなく、主に「栄光あれと言うように」とダビデは言うのです。
このことを物語として教えているのが、『列王記上』の第17章と第18章に記されているエリヤの物語です。実際に聖書を開いて、確認してみましょう。旧約の547ページです。
第17章1節で、ティシュベ人エリヤはイスラエルの王アハブにこう言いました。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。このようにエリヤが預言するのは、アハブがバアルのために祭壇を築き、偶像崇拝の罪を犯していたからです。バアルは雨をもたらす神、嵐の神と信じられていました。そのようなバアルを礼拝するアハブへの罰として、イザヤは雨が降らない干ばつを預言したのです。
第18章には、エリヤとバアルの預言者たちとの対決のお話しが記されています。エリヤは、「火をもって答える神があれば、それが神である」と言いました。そして、バアルではなく、エリヤの神、主が火をもって答えるまことの神であることが明らかになったのです。その戦いの後で、エリヤはアハブに激しい雨が降ることを伝えます。第18章41節から46節までをお読みします。
エリヤはアハブに言った。「遠くで激しい雨の音がするから、さあ、上って行って、食べたり飲んだりしなさい。」そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。他方、エリヤはカルメル山の頂上に登って、地面にかがみ込み、顔を膝の間にうずめた。そして従者に言った。「さあ、上って行って海の方をよく見なさい。」従者は上って行って、よく見て、「何もありません」と言った。そこでエリヤは、「もう一度」と、それを七度繰り返した。七度目になって、従者は言った。「御覧ください。人の手のひらほどの小さな雲が海のかなたから上って来ます。」エリヤは言った。「アハブのもとに上って行って、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を戦車につないで下って行くように伝えなさい。」こうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは戦車に乗って、イズレエルへと向かった。エリヤには主の手が差し伸べられたので、彼は裾をからげ、イズレエルに着くまでアハブの先を走って行った。
このように、イスラエルの神、主こそが激しい雨を降らせてくださる御方であるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の844ページです。
10節と11節をお読みします。
主は洪水の上に座し/主は王として、とこしえに座した。主がその民に力を与えてくださるように。主がその民を祝福してくださるように/平安のうちに。
ダビデが、「主は洪水の上に座し」と言うとき、その洪水とは『創世記』に記されているノアの時代に起こった洪水のことです。この洪水は、「大いなる深淵の源がすべて裂け、天の窓が開かれた」ことによって引き起こされました(創世7:11参照)。この洪水によって、陸と海の境界は無効とされ、地は再び混沌(カオス)となってしまったのです。しかし、主はその混沌とも言える洪水の上に座しておられるのです。主はとこしえの王権によって、混沌としか言えない洪水をも統御しておられます。そのような主に、ダビデは、「民に力を与え、平安のうちに祝福してください」と祈るのです。それは、イスラエルの民が、自分を誇るためではありません。イスラエルの民が、力と栄光を主に帰して、主の御名をほめたたえるためであるのです。
今夕の第29編には、「主」(ヤハウェ)という神の御名が18回も記されています(日本語の翻訳では19回ですが、9節の「主の宮」は直訳すると「彼の宮」となりますので、18回です)。また、「主の声」という言葉が7回も記されています。私たちにとっての「主」とは、「主なる神」であり、「主イエス・キリスト」であります。主イエス・キリストは、一般啓示(創造と摂理の御業による啓示)として、雷や嵐によって、ご自分の力と恵みを示していると言えます。しかし、一般啓示である雷や嵐による主の声では、何と言っているのかは分かりません。ですから、主は、特別啓示である聖書によって、私たちに語りかけてくださいます。聖書を通して、主イエス・キリストは、「私を信じて神の民となり、神を礼拝して生きるように」と、すべての人を招いておられるのです。
今夕の第29編は、キリスト教会において、ペンテコステの日に読まれました。それは、神の霊が雷と嵐のイメージで、弟子たちのうえに降ったからです。今夕はそのことを確認して終わりたいと思います。
『使徒言行録』の第2章1節から4節までをお読みします。新約の210ページです。
五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。
激しい風の音と炎のような舌に象徴される聖霊の降臨は、嵐と雷のイメージで記されています。主イエス・キリストは、嵐と雷によって御自身を現される御方として、嵐と雷のイメージで聖霊を弟子たちに与えてくださいました。そのようにして、主イエス・キリストは、父なる神の右に座す、永遠の王として、私たちに力を与え、平安のうちに祝福してくださるのです。