聖書の言葉 5:7 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。ペトロの手紙一 5章7節 メッセージ 序、年間テーマと年間聖句 私たち羽生栄光教会では、年ごとにテーマと聖句を掲げて歩んでいます。週報の表紙にあるように、今年、2025年の年間テーマは「神に信頼して生きる」、年間聖句は「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(ペトロの手紙一5章7節)です。今朝は、今年の年間テーマと年間聖句についてお話ししたいと思います。 1、年間テーマについて 最初に年間テーマについてお話します。今年の年間テーマを「神に信頼して生きる」としました。このテーマにしたのは、「私たちキリスト者の人生とは神に信頼して生きる人生である」ことを心に留めて歩んでいきたいと願ったからです。「神に信頼して生きる」ことの前提にあるのは、「神が存在していることを信じている」ということです。神が存在していることは、聖書においての大前提です。聖書の最初の書物は『創世記』ですが、その1章1節にこう記されています。「初めに神は天と地を創造された」。このように聖書は、天と地を創造された神がおられることを大前提にしています。私たちは神が造られた天と地に生かされており、私たち人間も神によって造られたものであるのです。『創世記』の第1章27節には、「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちに創造し/男と女に創造された」と記されています。神は人間をご自分のかたちに創造しました。神は人間をご自分と同じ心を持つ人格的な存在として造られたのです。神は人間をご自分との人格的な交わりに生きる者として造られたのです。文化人類学によって明らかになったことは、どのような人種、民族であっても、人間に宗教心があるということです。なぜ、すべての人間には宗教心があるのでしょうか。それは、すべての人間が神のかたちに似せて、神との交わりに生きる者として造られたからです。しかし、すべての人が唯一の生けるまことの神を信じているわけではありません。唯一の生けるまことの神とは、天地を造られた神であり、イエス・キリストにおいてご自分を示された三位一体の神のことです。神々と呼ばれるものは多くありますが、生けるまことの神はただお一人です。それは、イエス・キリストにおいてご自分を示された、父と子と聖霊なる三位一体の神であるのです。このことは、先程私たちが告白した『使徒信条』に記されていました。私たちは『使徒信条』を告白することによって、「我は三位一体の神を信ず」と告白したのです。『使徒信条』は、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊について告白しているのです。ご一緒に確認しましょう。「我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず」。ここまでは父なる神についての告白です。「我はその独り子、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。主(しゅ)は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん」。ここまでが子なる神、主イエス・キリストについてです。ここには主イエス・キリストの処女降誕、十字架の死と復活、昇天と着座、再臨と最後の審判が簡潔に告白されています。「我は聖霊を信ず」。聖霊については何も言われていませんが、その後の「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」は聖霊と密接な関係にあります。私たちは聖霊の御業としての「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じているのです(もちろん私たちは礼拝の対象として教会を信じているのではない)。また、私たちは聖霊の賜物としての「罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」を信じているのです。 「我は父と子と聖霊なる三位一体の神を信ず」と告白し、その結びとして「アーメン」と私たちは言いました。「アーメン」とはヘブライ語で「真実です」とか「本当です」という意味です。私たちは、『使徒信条』を「アーメン」という言葉で閉じることによって、三位一体の神への信仰をはっきりと言い表したのです。 私たちが「神に信頼して生きる」と言うとき、その神とは、『使徒信条』で告白している三位一体の神であるのです。「神に信頼して生きる」とは、「父と子と聖霊なる三位一体の神に信頼して生きる」ということです。天地の造り主である全能の父なる神、十字架と復活の主であるイエス・キリスト、弁護者(パラクレートス)である聖霊なる神に信頼して、三位一体の神との交わりに生きるということです。そのとき、私たちは、神のかたちに造られた人間としての確かな人生を生きることができるのです。 2、年間聖句について 年間テーマについてのお話はこのくらいにして、次に年間聖句についてお話しします。年間聖句は「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(ペトロの手紙一5章7節)です。『ペトロの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ペトロが、小アジアの教会に宛てて記した手紙です。ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、また私たちに、「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と言います。「思い煩い」とは「いろいろと考えて苦しみ悩む」ことです。私たちにもそれぞれに思い煩いがあると思います。そのすべての思い煩いを神にお任せしなさいと、ペトロは言うのです。「お任せしなさい」と訳されている言葉は直訳すると「投げなさい」となります。「丸投げ」という言葉がありますが、私たちは、すべての思い煩いを神様に丸投げしてよいのです。それは具体的に言えば、神様に祈りをささげることによって、自分の思い煩いを聞いていただき、その行く末をお委ねするということです。そのとき、私たちの崩れそうな心に、人知を超えた神の平安が訪れるのです。それは、天地の造り主である全能の父なる神への信頼に基づく平安です。このことは、使徒パウロが『フィリピの信徒への手紙』の第4章6節と7節で記していることです。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」。 ところで、なぜ使徒ペトロは、「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と言うのでしょうか。それは、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。ここでの「あなたがた」とは、「聖霊によって『イエス・キリストは主である』と告白し、神の子とされた私たち」のことです。「天地を造られた全能の神」を「アッバ、父よ」と呼ぶ私たちのことです。神様は、その私たちのことを心にかけていてくださいます。父と子と聖霊なる三位一体の神様は、聖霊によって「イエス・キリストは主である」と告白し、「天の父なる神よ」と祈る私たちのことを心配してくださっているのです(新改訳2017参照)。私たちは、思い煩うとき、そのことを人に言えずに、自分だけで抱え込んでしまいます。それは、人には分かってもらえないし、話したところで、どうしようもないと考えるからです。私たちは、自分の力ではどうしようもないから思い悩むのであって、それは他の人においても同じであるのです。しかし、イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神様は違います。神様は天地の造り主であり、すべてのものを保ち、統べ治めておられる全能の御方であるのです。そして、父なる神は、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちを、いつも心にかけてくださっているのです。そのように、神は私たちに善意を向けてくださっているのです。それゆえ、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章28節で、こう記すことができたのです。「神を愛するものたち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」。全能の父なる神が、私たちのことを心にかけてくださっている。そうであれば、「万事が共に働いて益となる」とパウロは言うのです。神は私たちの思いを超えて、最善のことをしてくださるのです。独り子をお与えになったほどに、私たち一人一人を愛してくださる神様は、私たちを心にかけてくださり、私たちに最善のことをしてくださいます。「神に信頼して生きる」とは、三位一体の神の善意、さらに言えば、三位一体の神の愛に信頼して生きることであるのです。 結、三位一体の神の愛に信頼して生きる 今朝は、最後に、私たちに対する三位一体の神の愛について聖書から確認したいと思います。『ヨハネによる福音書』の第3章16節です。新約の164ページです。 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ここに、独り子を十字架の死に引き渡されたほどの、父なる神の愛がはっきりと記されています。 次に、『ヨハネによる福音書』の第10章10節後半と11節です。新約の183ページです。 私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 ここには、私たちのために自ら命を捨ててくださった神の御子、イエス・キリストの愛がはっきりと記されています。 次に、『ローマの信徒への手紙』の第5章5節です。新約の274ページです。 この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 神の霊である聖霊は、父なる神の霊であり、子なる神イエス・キリストの霊でもあります。その聖霊によって、私たちの心に父なる神の愛と、子なる神イエス・キリストの愛が注がれているのです。ですから、私たちは、聖書に記されている父なる神の愛の言葉と、子なる神イエス・キリストの言葉を、自分に対する愛の言葉として読むことができるのです。聖書の御言葉と共に働かれる聖霊によって、私たちは、自分が神から愛されていること、神が気にかけてくださり、最善をなしてくださることを信じることができるのです。 聖霊は、父なる神の愛と、子なる神イエス・キリストの愛を、私たちの心に注いでくださり、互いに愛し合う交わりを生み出してくださいます。『ヨハネの手紙一』の第4章9節から13節です。新約の433ページです。 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現れました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。 神を信頼して生きるとは、三位一体の神の愛を信頼して生きるということです。そして、その信頼は、神の愛によって互いに愛し合う交わりを生み出すのです。『使徒信条』で告白している「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」とは、神の愛によって互いに愛し合う交わりであるのです。私たちは、教会の交わりが、神の愛によって互いに愛し合う交わりであることを信じているのです。そのような交わりの中に生きるからこそ、私たちは「神に信頼して生きる」ことができるのです。 関連する説教を探す 2025年の日曜 朝の礼拝 『ペトロの手紙一』
序、年間テーマと年間聖句
私たち羽生栄光教会では、年ごとにテーマと聖句を掲げて歩んでいます。週報の表紙にあるように、今年、2025年の年間テーマは「神に信頼して生きる」、年間聖句は「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(ペトロの手紙一5章7節)です。今朝は、今年の年間テーマと年間聖句についてお話ししたいと思います。
1、年間テーマについて
最初に年間テーマについてお話します。今年の年間テーマを「神に信頼して生きる」としました。このテーマにしたのは、「私たちキリスト者の人生とは神に信頼して生きる人生である」ことを心に留めて歩んでいきたいと願ったからです。「神に信頼して生きる」ことの前提にあるのは、「神が存在していることを信じている」ということです。神が存在していることは、聖書においての大前提です。聖書の最初の書物は『創世記』ですが、その1章1節にこう記されています。「初めに神は天と地を創造された」。このように聖書は、天と地を創造された神がおられることを大前提にしています。私たちは神が造られた天と地に生かされており、私たち人間も神によって造られたものであるのです。『創世記』の第1章27節には、「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちに創造し/男と女に創造された」と記されています。神は人間をご自分のかたちに創造しました。神は人間をご自分と同じ心を持つ人格的な存在として造られたのです。神は人間をご自分との人格的な交わりに生きる者として造られたのです。文化人類学によって明らかになったことは、どのような人種、民族であっても、人間に宗教心があるということです。なぜ、すべての人間には宗教心があるのでしょうか。それは、すべての人間が神のかたちに似せて、神との交わりに生きる者として造られたからです。しかし、すべての人が唯一の生けるまことの神を信じているわけではありません。唯一の生けるまことの神とは、天地を造られた神であり、イエス・キリストにおいてご自分を示された三位一体の神のことです。神々と呼ばれるものは多くありますが、生けるまことの神はただお一人です。それは、イエス・キリストにおいてご自分を示された、父と子と聖霊なる三位一体の神であるのです。このことは、先程私たちが告白した『使徒信条』に記されていました。私たちは『使徒信条』を告白することによって、「我は三位一体の神を信ず」と告白したのです。『使徒信条』は、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊について告白しているのです。ご一緒に確認しましょう。「我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず」。ここまでは父なる神についての告白です。「我はその独り子、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。主(しゅ)は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん」。ここまでが子なる神、主イエス・キリストについてです。ここには主イエス・キリストの処女降誕、十字架の死と復活、昇天と着座、再臨と最後の審判が簡潔に告白されています。「我は聖霊を信ず」。聖霊については何も言われていませんが、その後の「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」は聖霊と密接な関係にあります。私たちは聖霊の御業としての「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じているのです(もちろん私たちは礼拝の対象として教会を信じているのではない)。また、私たちは聖霊の賜物としての「罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」を信じているのです。
「我は父と子と聖霊なる三位一体の神を信ず」と告白し、その結びとして「アーメン」と私たちは言いました。「アーメン」とはヘブライ語で「真実です」とか「本当です」という意味です。私たちは、『使徒信条』を「アーメン」という言葉で閉じることによって、三位一体の神への信仰をはっきりと言い表したのです。
私たちが「神に信頼して生きる」と言うとき、その神とは、『使徒信条』で告白している三位一体の神であるのです。「神に信頼して生きる」とは、「父と子と聖霊なる三位一体の神に信頼して生きる」ということです。天地の造り主である全能の父なる神、十字架と復活の主であるイエス・キリスト、弁護者(パラクレートス)である聖霊なる神に信頼して、三位一体の神との交わりに生きるということです。そのとき、私たちは、神のかたちに造られた人間としての確かな人生を生きることができるのです。
2、年間聖句について
年間テーマについてのお話はこのくらいにして、次に年間聖句についてお話しします。年間聖句は「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(ペトロの手紙一5章7節)です。『ペトロの手紙一』は、イエス・キリストの使徒ペトロが、小アジアの教会に宛てて記した手紙です。ペトロは、小アジアのキリスト者たちに、また私たちに、「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と言います。「思い煩い」とは「いろいろと考えて苦しみ悩む」ことです。私たちにもそれぞれに思い煩いがあると思います。そのすべての思い煩いを神にお任せしなさいと、ペトロは言うのです。「お任せしなさい」と訳されている言葉は直訳すると「投げなさい」となります。「丸投げ」という言葉がありますが、私たちは、すべての思い煩いを神様に丸投げしてよいのです。それは具体的に言えば、神様に祈りをささげることによって、自分の思い煩いを聞いていただき、その行く末をお委ねするということです。そのとき、私たちの崩れそうな心に、人知を超えた神の平安が訪れるのです。それは、天地の造り主である全能の父なる神への信頼に基づく平安です。このことは、使徒パウロが『フィリピの信徒への手紙』の第4章6節と7節で記していることです。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」。
ところで、なぜ使徒ペトロは、「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と言うのでしょうか。それは、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。ここでの「あなたがた」とは、「聖霊によって『イエス・キリストは主である』と告白し、神の子とされた私たち」のことです。「天地を造られた全能の神」を「アッバ、父よ」と呼ぶ私たちのことです。神様は、その私たちのことを心にかけていてくださいます。父と子と聖霊なる三位一体の神様は、聖霊によって「イエス・キリストは主である」と告白し、「天の父なる神よ」と祈る私たちのことを心配してくださっているのです(新改訳2017参照)。私たちは、思い煩うとき、そのことを人に言えずに、自分だけで抱え込んでしまいます。それは、人には分かってもらえないし、話したところで、どうしようもないと考えるからです。私たちは、自分の力ではどうしようもないから思い悩むのであって、それは他の人においても同じであるのです。しかし、イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神様は違います。神様は天地の造り主であり、すべてのものを保ち、統べ治めておられる全能の御方であるのです。そして、父なる神は、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちを、いつも心にかけてくださっているのです。そのように、神は私たちに善意を向けてくださっているのです。それゆえ、使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章28節で、こう記すことができたのです。「神を愛するものたち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」。全能の父なる神が、私たちのことを心にかけてくださっている。そうであれば、「万事が共に働いて益となる」とパウロは言うのです。神は私たちの思いを超えて、最善のことをしてくださるのです。独り子をお与えになったほどに、私たち一人一人を愛してくださる神様は、私たちを心にかけてくださり、私たちに最善のことをしてくださいます。「神に信頼して生きる」とは、三位一体の神の善意、さらに言えば、三位一体の神の愛に信頼して生きることであるのです。
結、三位一体の神の愛に信頼して生きる
今朝は、最後に、私たちに対する三位一体の神の愛について聖書から確認したいと思います。『ヨハネによる福音書』の第3章16節です。新約の164ページです。
神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ここに、独り子を十字架の死に引き渡されたほどの、父なる神の愛がはっきりと記されています。
次に、『ヨハネによる福音書』の第10章10節後半と11節です。新約の183ページです。
私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
ここには、私たちのために自ら命を捨ててくださった神の御子、イエス・キリストの愛がはっきりと記されています。
次に、『ローマの信徒への手紙』の第5章5節です。新約の274ページです。
この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
神の霊である聖霊は、父なる神の霊であり、子なる神イエス・キリストの霊でもあります。その聖霊によって、私たちの心に父なる神の愛と、子なる神イエス・キリストの愛が注がれているのです。ですから、私たちは、聖書に記されている父なる神の愛の言葉と、子なる神イエス・キリストの言葉を、自分に対する愛の言葉として読むことができるのです。聖書の御言葉と共に働かれる聖霊によって、私たちは、自分が神から愛されていること、神が気にかけてくださり、最善をなしてくださることを信じることができるのです。
聖霊は、父なる神の愛と、子なる神イエス・キリストの愛を、私たちの心に注いでくださり、互いに愛し合う交わりを生み出してくださいます。『ヨハネの手紙一』の第4章9節から13節です。新約の433ページです。
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現れました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
神を信頼して生きるとは、三位一体の神の愛を信頼して生きるということです。そして、その信頼は、神の愛によって互いに愛し合う交わりを生み出すのです。『使徒信条』で告白している「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」とは、神の愛によって互いに愛し合う交わりであるのです。私たちは、教会の交わりが、神の愛によって互いに愛し合う交わりであることを信じているのです。そのような交わりの中に生きるからこそ、私たちは「神に信頼して生きる」ことができるのです。