主よ、沈黙しないでください 2024年12月08日(日曜 夕方の礼拝)
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主よ、沈黙しないでください
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- 村田寿和 牧師
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詩編 28編1節~9節
聖書の言葉
28:1 ダビデの詩。/主よ、あなたに呼びかけます。/わが大岩よ、沈黙しないでください。/あなたが黙っておられるなら/私は墓穴に下る者と等しくなってしまいます。
28:2 嘆き祈る私の声を聞いてください/あなたに救いを叫び求めるとき/至聖所に両手を上げるときに。
28:3 悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください。/彼らは友に平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
28:4 彼らの行い、悪行に応じて報いてください。/その手の業に応じて彼らに報い/報いの罰を彼らに返してください。
28:5 彼らは主の働きと手の業を悟ろうとしません。/主は彼らを倒し、再び興すことはありません。
28:6 主をたたえよ。/主は嘆き祈る私の声を聞かれた。
28:7 主はわが力、わが盾。/私の心は主に信頼し/私は助けられ、心は喜び躍る。/私は歌を献げて主に感謝する。
28:8 主こそ、その民の力/油注がれた者の救いの砦。
28:9 あなたの民を救い/ご自分の民を祝福してください。/とこしえに彼らを養い、担ってください。
詩編 28編1節~9節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』からお話ししています。今夕は、第28編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「ダビデの詩」とあるように、第28編は、ダビデの詩編です。そのことを前提にして、読み進めていきます。
1節をお読みします。
主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください。あなたが黙っておられるなら/私は墓穴に下る者と等しくなってしまいます。
ダビデは、「主よ」と呼びかけます。「主」とは、その昔、ホレブの山でモーセに示された神様の御名前です。「主」とは「わたしはいる」という意味で、そこには「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれています(出エジプト3:12、14参照)。しかし、このとき、ダビデは、主が共にいるとは思えなかったようです。ダビデは、「わが大岩よ、沈黙しないでください」と言います。「岩」は不動の安全を象徴しています。ダビデは、主という大岩に守られてこれまで歩んで来たのです。しかし、その大岩である主が、ダビデの祈りに応えてくださらない。沈黙しておられるのです。ダビデは、「あなたが黙っておられるなら/私は墓穴に下る者と等しくなってしまいます」と言います。「墓穴に下る者」とは死者のことです。死者の世界である陰府には、神様はおられない、神様を礼拝することはないと考えられていました(詩6:6参照)。そのことを前提にして、ダビデは、「主が黙っているならば、私は死んだも同然です」と言っているのです。
2節から5節までをお読みします。
嘆き祈る私の声を聞いてください/あなたに救いを叫び求めるとき/至聖所に両手を上げるときに。悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください。彼らは友に平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。彼らの行い、悪行に応じて彼らに報い/報いの罰を彼らに返してください。彼らは主の働きと手の業を悟ろうとしません。主は彼らを倒し/再び興すことはありません。
「嘆き祈る私の声を聞いてください/あなたに救いを叫び求めるとき」とありますから、ダビデは、危機的な状況の中で嘆いていたようです。危機的な状況の中で嘆きながら、主に救いを叫び求めたのです。その祈りの姿が、「至聖所に両手を上げるときに」と記されています。「至聖所」とは、神様が御臨在される贖いの座、契約の箱が安置されている場所のことです。「両手を上げる」とは、祈りの姿勢で、祈りが神に届くようにとの願いが込められています。この時、ダビデが置かれていた危機的な状況とは、悪しき者や悪事を働く者と共に引いて行かれて、裁きを受けることであったようです。以前学んだ第26編で、ダビデは、冤罪(無実の罪、ぬれぎぬ)によって滅びることがないように、主の正しい裁きを祈り求めました。今夕の第28編でも、ダビデは、主の正しい裁きによって、悪しき者と共に滅ぼされることがないようにと祈るのです。「悪しき者」は、口では平和を語りますが、心には悪意を抱いています。その心に抱いている悪意から、悪事を働くのです。ダビデは、「彼らの行い、悪行に応じて報いてください。その手の業に応じて返してください」と主の正しい裁きを祈り求めます。ところで、なぜ、悪しき者たちは、心に悪意を抱き、悪事を働くのでしょうか。それは、彼らが主の働きと主の御手の業を悟ろうとはしないからです。悪しき者たちは、主の御名を口にしながらも、主が生きて働いておられることを悟ろうとはしないのです(実践的無神論)。そのような悪しき者たちを、「主は倒して、再び興すことはない」とダビデは言います。ダビデの祈り、「悪しき者や悪事を働く者と共に/私を引いて行かないでください」という祈りは、悪しき者が倒され、没落することによって実現することになるのです。ダビデは、主の正しい裁きを信じるゆえに、賛美と感謝の言葉を語るのです。
6節と7節をお読みします。
主をたたえよ。主は嘆き祈る私の声を聞かれた。主はわが力、わが盾。私の心は主に信頼し/私は助けられ、心は喜び躍る。私は歌を献げて主に感謝する。
ダビデは、「主をたたえよ。主は嘆き祈る私の声を聞かれた」と言います。このダビデの言葉を、私たちはどのように解釈したらよいのでしょうか。一つの解釈は、5節と6節の間に、時間の隔たりがあるという解釈です。1節から5節までを書いてしばらく時間が経ってから、6節から9節までが書かれたとする解釈です。ダビデが願っていたとおりに、自分が悪しき者と共に引いて行かれることなく、悪しき者が報いの罰を受けたのを見届けてから、主を賛美する言葉を記したとする解釈です。もう一つの解釈は、5節と6節の間に、時間の隔たりはなく、ダビデは、自分が祈ったことを必ず主がその通りにしてくださると信じて、主を賛美しているという解釈です。イエス様は弟子たちに、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われました(マルコ11:24)。そのような信仰をもって、ダビデは主を賛美したとする解釈です。私は後者の解釈をとりたいと思います。ダビデは、主が生きて働いておられることを悟って、自分の願いが実現するのを見届ける前に、「主をたたえよ。主は嘆き祈る私の声を聞かれた」と言うのです。ここにあるのは、『ヘブライ人への手紙』の第11章1節に記されている信仰ですね。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(新共同訳)。ダビデは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によって、「主をたたえよ。主は嘆き祈る私の声を聞かれた」と言うのです。考えてみますと、イエス様の御言葉、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」という御言葉は、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰をもって祈ることを教えていると言えます。また、私たちがそのような信仰を持って祈ることができるのは、私たちが自分の名前によってではなく、主イエス・キリストの御名によって祈ることが許されているからです。イエス様は弟子たちに、こう言われました。「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何でも、私がかなえてあげよう」(ヨハネ14:13、14)。このようなイエス様の約束のゆえに、私たちは、祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じることができるのです。
ダビデは、嘆き祈る自分の声を主が聞いてくださったと確信して、「主はわが力、わが盾」と言います。ダビデは、主に信頼する者として、「私は助けられ、心は喜び躍る」と言うのです。ダビデは、歌を献げて主に感謝するのです。
8節と9節をお読みします。
主こそ、その民の力/油注がれた者の救いの砦。あなたの民を救い/ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください。
ダビデは7節で、「主はわが力」と言いましたが、8節では、「主こそ、その民の力」と言います。主はダビデの神だけではなく、イスラエルの民全体の神であるからです。ダビデは、主こそ「油注がれた者の救いの砦」と言います。「油注がれた者」とは、メシア、王を意味しています。ダビデがまだ王になっていないときであれば、この王はサウルのことであったかも知れません。ともかく、主は、油を注がれた者、王の救いの砦であるのです。そのことは、主こそが王の王、まことの王であることを表しているのです。ダビデは9節で、「あなたの民を救い/ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください」と執り成しの祈りをささげます。この祈りが実現する時と場が、主の日の礼拝ですね。私たちの主イエス・キリストは、礼拝において、ご自分の民を救い、祝福してくださいます。そして、礼拝において、ご自分の民を霊的に養い、担ってくださるのです。ここにあるのは、羊飼いのイメージですね。第23編で、ダビデは、「主は私の羊飼い」と言いましたが、主は私たちの羊飼いでもあるのです。私たちの大牧者であるイエス・キリストは、牧師や長老を立てて、ご自分の民を霊的に養い、担ってくださいます(一ペトロ5:1~4参照)。私たちは、主の日の礼拝を中心とする教会生活を通して、具体的に主との交わりに生きることができるのです。