主の1回目の弁論② 2024年12月04日(水曜 聖書と祈りの会)
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主の1回目の弁論②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 38章16節~27節
聖書の言葉
38:16 あなたは海の源まで行ったことがあるか。/深い淵の奥底を歩いたことがあるか。
38:17 死の門があなたに姿を現したか。/死の陰の門をあなたは見たことがあるか。
38:18 あなたは地の広がりを悟ったのか。/そのすべてを知っているなら、言ってみよ。
38:19 光の住む所に至る道はどこか。/闇の住みかはどこか。
38:20 あなたは光と闇をその境まで連れて行けるか。/その家に至る道を理解しているか。
38:21 その時にはすでに、あなたが生まれていて/あなたの日数も多いと言うなら/知っているはずだ。
38:22 あなたは雪の倉に入ったことがあるか。/雹の倉を見たことがあるか。
38:23 苦しみの時のために/戦と闘いの日のために/私はそれを蓄えておいたのだ。
38:24 光が放たれていく道はどこか。/東風が地上を吹き渡る道はどこか。
38:25 誰が洪水のために水路を切り開き/稲妻に道を与え
38:26 人のいない地にも/無人の荒れ野にも雨を送り
38:27 廃虚と荒廃した地を潤し/青草を生え出させるのか。ヨブ記 38章16節~27節
メッセージ
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第38章には、主が嵐の中からヨブに答えられたことが記されています。主は、共におられる神として、ヨブの言葉にずっと耳を傾けてきました。そのことを知らずに、ヨブは、第31章35節から37節でこう言いました。「ああ、私の言葉を聞いてくれる者がいればよいのだが。ここに私の署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結びつけよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう」。このヨブの言葉を受けて、主は、第38章2節と3節でこう言われます。「知識もないままに言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か。あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ」。この主の言葉について、ある研究者(A.ファンセルムス)は次のように述べています。主の「お言葉は訴訟の早期の段階を反映している。つまり、被告側が原告側に問いかけて、原告の答えを足場に、その不正というよりは人間の不適格を証明しようとするものである」。これまでヨブは、神は自分を公正に扱っていないと訴えてきました。この場合、ヨブは原告であり、神は被告であります。しかし、第38章では、被告である神が、原告であるヨブに尋ねて、「あなたに神を訴える資格はあるか」と問いただしていると言うのです。「あなたは、神は自分に対して不正を犯していると言うが、あなたは神の御業を知っているのか」と主は尋ねられるのです。前回は15節までを学びましたので、今朝は16節から27節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
16節から18節までをお読みします。
あなたは海の源まで行ったことがあるか。深い淵の奥底を歩いたことがあるか。死の門があなたに姿を現したか。死の陰の門をあなたは見たことがあるのか。あなたは地の広がりを悟ったのか。そのすべてを知っているなら、言ってみよ。
ここでの主の御言葉は、古代オリエントの世界像に基づいて、詩的な言葉で語られています。もちろん、ヨブは海の源まで行ったことはありません。また、海の深い淵の奥底を歩いたこともありません。ヨブは、自分の苦しみの意味が分からないだけではなく、海の深みについても分からないのです。当時の世界像によれば、死者の領域である陰府は、地の下にあると考えられていました。それで主は、「深い淵の奥底」に続いて、「死の門」について語るのです。これまでヨブは、死者の領域である陰府について語ってきました。例えば、第3章11節から19節で、ヨブはこう語っていました。旧約の765ページです。
なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。腹から出て、息絶えなかったのか。どうして、両膝が私を受け止めたのか。なぜ、私に吸わせる乳房があったのか。それさえなければ、今頃、私は横たわって憩い/眠って休息を得ていたであろうに。自分たちのために廃墟を築き直した/地の王や参議と共に/あるいは、金を集め、その館を銀で満たした/高官たちと共にいたことだろう。なぜ、私は葬り去られた死産の子/光を見ない子のようにならなかったのか。そこでは、悪しき者も暴れることをやめ/そこでは、力尽きた者も憩いを得る。捕らわれた者も共に安らぎ/追い使う者の声も聞かない。小さな者も大きな者もそこにおり/奴隷も主人から解き放たれる。
このようにヨブは陰府について語るのですが、ヨブは陰府に行ったこともなければ、その門を見たこともないのです。ヨブは知りもしないことを、自分の願望を投影して語っているに過ぎないのです。ヨブは死者の世界を地上の苦労から解放された誰もが安らぎを得ることのできる世界として語るのですが、それは知識に基づいてはおらず、ヨブの願望に基づいているのです(34:35「ヨブは知識もないのに語る」参照)。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の812ページです。
19節から21節までをお読みします。
光の住む所に至る道はどこか。闇の住みかはどこか。あなたは光と闇をその境まで連れて行けるか。その家に至る道を理解しているか。その時にはすでに、あなたが生まれていて/あなたの日数も多いと言うなら/知っているはずだ。
『創世記』の第1章に、「天と地の創造」について記されています。その3節から5節にこう記されています。「神は言われた。『光あれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。この御言葉を背景にして、主は、光の住む所に至る道について、また闇の住みかについて尋ねるのです。「夕べがあり、朝があった。一日である」という御言葉は、神が闇と光をその境まで連れて行くことによって実現するのです。もちろん、そのようなことをヨブができるはずはありません。このようなことは、創造主である神だけができることであり、光の家に至る道も神だけが知っていることであるのです。しかし、ヨブは、そのことをあたかも知っているかのように語ってきたわけです。それで、主は、皮肉を込めて、ヨブにこう言うのです。「その時にはすでに、あなたが生まれていて、あなたの日数も多いと言うなら、知っているはずだ」。主がヨブに、創造主であるご自分の御業について知っているかと尋ねられるのは、被造物であるヨブが創造主である神を訴えることがいかに高慢であるかを悟らせるためです。神を訴えて、神と法廷で争おうとするならば、神が知っておられることを同じように知っていなければ、その資格はないのです。
22節から27節までをお読みします。
あなたは雪の倉に入ったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。苦しみの時のために/戦と闘いの日のために/私はそれを蓄えておいたのだ。光が放たれていく道はどこか。東風が地上を吹き渡る道はどこか。誰が洪水のために水路を切り開き/稲妻に道を与え/人のいない地にも/無人の荒れ野にも雨を送り/廃墟と荒廃した地を潤し/青草を生え出させるのか。
当時の世界像では、天には雪の倉や雹の倉があると考えられていました。主は、ヨブに、「あなたは雪の倉に入ったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか」と尋ねます。もちろん、ヨブは入ったことはありませんし、見たこともありません。そのようなことは、被造物であるヨブには不可能なことです。主は、「苦しみの時のために、戦と闘いの日のために、私はそれを蓄えておいた」と言います。この実例を、私たちは、『出エジプト記』の第9章に記されている「雹の災い」に見ることができます。主は、ご自分の民を去らせようとしないエジプト人を苦しめるために、天から恐ろしく激しい雹を降らせました。また、『ヨシュア記』の第10章を読むと、主が天から大きな石のような雹を降らせて敵を滅ぼし、イスラエルに勝利を賜ったことが記されています。主が雹を倉に蓄えているのは、ご自分に逆らう者を苦しめるため、ご自分に逆らう者と戦うためであるのです。このことは、現代の自然科学の知識を持つ私たちには受け入れ難いかも知れません。かつて教会にも雹が降って、自転車置き場の屋根に穴が空き、修理したことがあります。では、私たちを苦しめるために、神は雹を降らせたのかと言えば、そのようには考えにくいわけです。ここで言われていることは、主は雹を用いて、ご自分の正義を行われることがあるということです(必ずということではなく)。
光が放たれていく道、東風が地上に吹き渡る道がどこであるかを被造物であるヨブは知りません。それを知っているのは創造主である神であります。また、洪水のために水路を切り開き、稲妻に道を与えるのも神であります。神は、人のいない地にも、無人の荒れ野にも雨を送り、青草を生え出させてくださいます。神の関心は、人間だけにあるのではなく、被造世界全体にあるのです。神は被造世界全体に対して関心を持っておられる。そのことを使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章で記しています。その所を読んで、今朝は終わりたいと思います。新約の279ページです。第8章18節から22節までをお読みします。
思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
被造世界全体に関心をもっておられる神は、イエス・キリストによって、被造世界全体を、滅びへの隷属から解放してくださるのです。イエス・キリストの再臨によって到来する新しい天と新しい地は、被造世界が滅びへの隷属から解放された姿であると言えるのです。